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恋する花たち 4 綻ぶ花たち
「はい? あくびをしたところ?」
上條家の当主たるものが? という気持ちが全面に出た僕の表情に拓馬さんが、肩をすくめて慌てている。
「あの人は……まさか上条の当主なのに、人前であくびなんてしたんですか?」
「あっ、いやっ、誰も見てなかったっ、ですっ! 帽子被ってたしっ、日差し強かったしっ、みんな釣竿見てたっ、からっ」
「でもあくびなんてするだろ? 人だし」
「上条の当主は人じゃなくて、当主です」
「ひゃえっ」
環さんのフォローをぴしゃりと跳ね返すと、その僕の放った言葉に背中でも引っぱたかれたかのように、拓馬さんが背筋を伸ばした。それから、なんとも面白い声を上げている。
「はぁ……」
思わず溜め息が零れた。
釣りの話がしたくてたまらなかっんだろう。兄が食事に誘ってくれた。
その、あくびをした当人は今、この店のオーナーとグリーンインテリアの苔玉について話し込んでいる。
苔をベースに花を活けてあるのが気に入ったようで、オーナーが兄のファンでもあるらしく。それは、それで、仕事にも良い刺激になるだろうから良いのだけれど。
「けど、あいつ、学校ではしょっちゅうあくびしてたけど?」
「はいぃ?」
「あははは」
あははは、じゃないです、って怖い顔をしたのに、環さんはニッコリと笑っているばかり。
「だって学生だぜ? あくびくらいするだろ」
「僕はしません」
「確かにな。お前、小さい頃から、背筋は真っ直ぐ、座るなら背中は直角、背中にでかい定規でも背負ってんのかと思ったくらい。けど、一回だけ、お前も居眠りしたじゃん」
「はっ? なんっ」
「ガキの頃、覚えてねぇ? 俺がお前んとこ遊びに行って、三人でゲームしてた時。敦之と俺で対戦したら、お前眠くなったらしくて、そのまま俺の肩に寄りかかって」
「はぃぃぃ?」
そ………………んな、昔のこと。
「寝こけてた」
「そんっ」
言われても。
だって、それは。だって、子どもの頃で、隣に大好きな環さんがいるのなら、そうなってしまうでしょ。
「だから、まぁ、仕方ないだろ。好きな相手と一緒にいたら、油断もするんじゃないか?」
「す、好きじゃないですっ」
「そうなの?」
「すっ……っ……」
好き、でしたけど、もちろんその時から。
僕の初恋は環さんだし、それはずっとずっと幼い頃からずっと続いていた片想いで。
「にしても、釣りねぇ。あいつそういうのすげぇ苦手そう」
「上手でしたよ?」
「へぇ」
「俺は一尾でしたけど」
「あいつは?」
「………………四……尾」
「っぶ、あははは」
「上条当主なのに、たったの四尾」
環さんは大笑いをしている。
僕は兄に「こらっ」って言いたかったけれど、好きな人の隣で居眠りをした油断しきっていた自分の幼さがとても気恥ずかしくて。なんだかそれどころではなくなってしまった。
「あ、いやっ、あの、全然、すごいんですっ、本当に気長な釣りなので」
「あははははは」
「上条当主なのに四尾」
「いや、あのっ、なのでっ」
環さんが覚えているあどけない僕。貴方の中にそんな幼い僕がちゃんといることがくすぐったくて仕方がなかった。
「なんだか楽しそうだね」
「四尾男が来た」
「上条当主なのに何をしてるんですかっ」
「? ヨンビ?」
だから、そのくすぐったさを誤魔化すように僕は口をへの字に折り曲げた。
酔っ払って歩くのは苦手。ふわふわ、ふらふらしていて、上条の人間としてだらしのない、と叱られてしまうから。
外はまだ暑く、夏の名残が夜の空気にしっかりと残っている。
「すげぇはしゃいでたな」
「はい。釣り、とても楽しかったみたいですね」
「あはは、あいつ、何話しても釣りについて語ってたな。あと、町内会」
「本当」
あ、でも、少し風は夏真っ盛りでない、落ち着いた風だ。繁華街で、お酒とはしゃぐ声、それから車の行き交う騒音に濁ることのない、爽やかな風が、酔っ払いな僕の頬を、ほら、少し酔いを覚ましなさいな、っていうみたいに撫でていく。
気持ちい……。
「あいつ、あんなふうに笑うことが多くなったな」
「……」
「澄ました笑い方がお面みたいにくっついてたのに」
凛とした、美しいばかりの笑顔。
今の兄は本当に楽しそうに、目元をくしゃくしゃにして笑う。
「……雪も、変わった」
「え?」
頬を撫でる風の心地に浸っていたら、環さんがそんなことを低く、落ち着いた、この風よりもずっと優しく僕の頬を撫でながら呟いた。
それは、どんなふうに?
変になっていたらどうしよう。
僕、だらしのない人なんだ。自分を律するのがとても不得意で。
「俺の惚れた相手は、頑固でいじっぱりで、自分のことを世界で一番わかってない」
「……」
「仕事となると優秀なくせに、恋となると、途端に鈍くなる」
「……」
兄は、拓馬さんの表情ひとつ一つにいつも兄は宝物でも見つけたように嬉しそうな顔をする。
嬉しそうに笑う。
「ったく」
環さんもよく笑ってくれる。僕に、まるで宝物でも見つけたように嬉しそうに、笑ってくれる。
「こっちは、いつだってそばにいて、悪い虫がくっつかないようにって見張ってたいくらいなのに」
「ぇ?」
「いーんだよ。お前は周りのこと気にしなくて。俺だけ追っかけてて」
「……」
「昔も今も」
ほら、笑ってくれた。
「雪」
環さんが僕を見つめて、笑って。
「おいで」
酔っ払って歩くのは苦手。ふわふわ、ふらふらしていて、上条の人間としてだらしのない、と叱られてしまうから。けれど。
「はい」
環さんがそんな僕の手を引いて、とても楽しそうに笑いながら歩いてくれるから。
「すげ、お前、相当酔っ払ってるな。手、あつ」
「ぁ、ごめっ」
「気持ちいい。一生握ってたい」
「……」
酔っ払いながら歩くのも悪くないなって思ったりして。
「あの……」
「?」
「はい。ぜひ、ずっと握っててください」
今日は飲み過ぎてしまった。素直になんでも口に出して言ってしまいそうで、だから嗜めるように口をへの字に。
「あぁ、もちろん」
への字に曲げておきたかったけれど、環さんがとても、とっても嬉しそうに頷いて、僕の手をしっかり握ってくれるから。
「あ、ありがとう、ございます」
「あぁ」
だから、僕はへの字どころか、綻ばせながら、夏の夜の散歩道に胸を躍らせるんだ。
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