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※第2話 ①

 ふやけるまで風呂に浸って、結局店へ顔を出したのは4時半頃。ウーヴェは帰ってこなかった。伝言を頼むにもセブは盛りのついた猫よろしく外へ飛び出したくてうずうず、アリが浴槽へいる間にもう洗面所で髪に櫛を入れていたから、期待できそうにない。  熱く乾いた洗濯物を抱えたウーヴェが、暗い部屋へ帰ってくる姿を想像するとき、覚えたのは間違いなく哀れみだった。  バーの暗がりの中で頭の片隅に留めておくには丁度いい物憂さ。傾けるシードルが倦怠を上手く持続させる。  近頃マレ地区に雨後の茸のほども登場するディスコ形式の店と違い、エリゼ宮殿に程近い『ル・グライユール』はモンマルトル式の古き悪しき伝統を継承する落ち着いた店だった。中世の王侯貴族が豚の丸焼きを貪り食うのに使いそうな、長いバーカウンターはオーク製。店が開いてから看板の4時まで、入れ替わり立ち替わり10人近い男が雀の如く居並んでいる。大抵は若く、綺麗な子ばかり。その中でも23歳のアリは上の下程の年齢だが、マグレブ(北西アフリカ民族)の容姿といつまで経っても賢い学生みたいに見える顔付きのおかげで、かなり得をしていた。 「酷い目にあった」  店に入ってきたジャノは、カウンターへ鳩尾をぶつけるようにして隣を陣取った。アリお気に入りのこの席はバーの中央から少し左寄り、スペイン風の丸く色鮮やかな陶製の傘をつけた照明は、斜め上から彼の肌を柔らかく輝かせる。一方ジャノがこのオレンジ色をした光へ当たると、さながら怯えた子うさぎのよう。茶色い垂れ目を当惑でぱちぱちと瞬かせ、バーテンダーのヴァレリーにブロンシュ(白ビール)を注文した。 「左岸に行ったら、またデモしてるんだ。ナンテールの団地で学生が撃たれて死んだだろ。あれについての抗議活動だと思うけど」 「ここのところ大学周辺は騒がしいね」 「全くさ。まさかお前、参加してなかったよな」 「よせよ」  引っかけていた片足でスツールの脚を蹴り、アリは手を振った。 「あんなやたらと闘争的で頭でっかちのブッピー(アラブ系エリート)どもと一緒にしないでくれ」 「でもお前だって大学に行こうとしてたんだろ」 「昔はね。でもこの前カルチェ・ラタンの酒場で第二大学の学生と同席したけれど、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』を知ってるかって聞いたら、『それマリファナの新しい品種?』だって。何を勉強してるのかお察しさ」 「ふーん、馬鹿ばっかりなんだな。しょせんは」  そこまで口にしたのだから、最後まで言い切ればいいものを。結局ジャノは、泡の少ないグラスの中身をちびっと啜り、動かし過ぎた舌を湿した。もちろん、その間アリはしれっとしたもの。顔をしかめたのは、渇いた喉に流し込んだシードルの酸味が、紙やすりで擦るような痛みを与えたからだった。 「で、あっち側に何の用だったの」 「ラウルのセッション聞きに行ってね、差し入れ持って行って……それから妹と飯を食う予定だったんだ。デモ隊に押し流されてとんでもない店しか選べなかったし、話もろくに出来なかったけど」 「お気の毒」  それからの会話では、いつも通り『ル・パリジャン』のコラムみたいに柔らかいパスばかり投げていた。お喋り雀のさざめきが、ジュークボックスから流れるダリダにとろけてべたっと掛かっている。  穏やかに相槌を打ち、アリは機械の傍らで退屈そうに踊っている影に目を向けた。最近見かけるようになったばかりの可愛い金髪坊やだった。ちょっと抱きたいなと思ったし、向こうもその気有りと見受けられたが、この前間近で顔を見たとき、唇にぷつぷつクラック・パイプの水膨れが出来ているのを発見したから一旦保留。  もっともテーブル席からはあの瑕瑾も分からないだろうから、何人か舐めるような視線を這わしている者もいる。十席ちょっとの丸い2人掛けテーブルは既に半分近く埋まり、中にはカウンターへ歩み寄って交渉を始めている者もいた。  まだ午後の疲労が拭い切れていないこともあり、今日はゆっくりしようと思っていた。本当は一晩に5、6人は客を取れれば理想なのだが、最近始めた『観光案内』の実入りがいいので、つい油断してしまう。  のんべんだらりとした態度でいられる時間も残り僅かだと、無論アリは理解していた。女に生まれてこんな心構えでいようものならば、あっという間に身ぐるみ剥がされ、今頃サン=ドニ辺りで一晩に五十人ものペニスをしゃぶる羽目に陥っていただろう。  同じく身を売るにしたところで、もっときっちりした所へ行けばと勧められたこともある。長いドレープをひきずる中年女性に腕を取らせ、劇場へ足を運ぶような。  蝶ネクタイを締め、プッチーニについて一頻り講釈を垂れている自らの姿を想像したら、吹き出す他ない。でも、悪い生活では無いのだろう。  出来るかな、と怯えた声が、頭の片隅で囁く。小さいが、はっきりとした口調だった。ああ出来るさ、と心の中で言い返す。少なくともプルトンは読んだことがあるし、移民の権利運動がどうとか捲し立てて、保守的な年輩のご婦人をおびやかしたりもしない。  善は急げで、とっとと始めるべきなのかもしれない。あのドイツ人達を追い出し、綺麗なシャツを買い揃える。部屋だって素敵に模様替えしよう、何なら引っ越したっていい――前のルームメイトと暮らしていたときはそこそこ整然とした様相だったのに、セブがやってきてから、あの部屋はすっかり荒廃してしまった。ウーヴェがどれだけ洗濯物を拾い集めても汚れる方が早い。そして自らはどちらに感化されたかと言うと、間違いなく前者の方なのだ。  気持ちよい部屋でのびのびと暮らす一人の生活。しかし理想を描けば描くほど「寂しい」という言葉が後をつけてくる。数ヶ月で、彼らはすっかりアリの生活へはまっていた。これまで援助を申し出てくれる人間こそおれど、まさかヒモを持つなんて思いもしなかった。それも一度に2人も。パリ東駅近くの酒場で飲んで意気投合し、一晩泊めてくれてと頼まれたのを快諾したのが、こんな事態になるとは。  性交で頭を疲れさせたつもりだったのに、余計なことばかり考えてしまう。もう少しアルコールを効かせた方が良いのかもしれない。まだ酔眼には程遠い。その証拠に、ドアを潜る見知った顔へすぐさま気付くことが出来る。  最初からレーナックは、アリの姿だけを見ていた。小柄で、若い頃は猫みたいに敏捷だったことを偲ばせる身体には40絡み相当の肉が付いている。この店には少なくとも週に一回必ず来て、安い化繊のネクタイを少女のお下げの如く振り回していた。  今夜最初の客が彼で良かった。 「いつものだろ」 「ああ」  コニャックと、もう一杯注文されたシードルに財布を出すのはレーナックだが、アリも100フランをカウンターに滑らせた。ヴァレリーが頷き、席を軽く顎でしゃくる。一回の請求額の三分の一であることを考えれば馬鹿げたチップなものの、これのおかげで店をつまみ出されずに済む。  こつこつと赤いタイルへ足音を響かせ、二人は隅の方のテーブルへ向かった。 「先週貴方が言ってた映画を観たよ。確かにあれが遺作なんて、サム・ペキンパーも情けないな。やっぱり彼のキャリアって『ゲッタウェイ』以降は下り坂な気がする」 「どうかな、『戦争のはらわた』があるから」  薄笑いへ、アリは降参の証に片眉をつり上げることで『お気に召すまま』を表明する。コカ・コーラに雇われているレーナックは、毎日トラックを運転して市内の映画館を回っていた。 「でもこの前の映画も、冒頭は好きだった」  いつの間にかジュークボックスからダリダは引っ込み、もっと古い曲へと遡っている。コニャックがグラスの底を隠すか隠さないかまで減るのに、そこまで時間はかからない。そわそわと、机の下で丸っこい膝が三拍子で揺れていた。三拍目で広く脚は開き、すり減った靴底が固く小さな音を立てる。くつろげばいいのに、なんて優しい言葉を掛ければ良いのだとは分かっていたが、今日は億劫に感じた。彼が勃起しなくてもこちらの責任ではない。 「2人で抱き合ってる場面。あのイギリス人俳優はセクシーだよね」  誘惑的な表情、と相手が見なしてくれることを願いながら、アリは男の目を覗き込んだ。 「そろそろ行く?」 「そうだな」  いつも男を連れ込む『マルタ』は2筋向こうにある。店を出ざま、振り返った先でジャノが肩を竦めているのが見えた。彼の相手も馴染み客らしい。店で屯していると、贔屓客と一見さんが半々ほどの割合になった。ディスコで跳ね回りながら相手を物色するより遙かに安全で、その気になれば吹っかけることも出来る。橙色をした1枚の紙幣は安全料だ、例えその恩寵が、ローマ教皇の賜する十字架より幾らかは信頼の出来る、という程度であったとしても。  通りを歩く2人の姿は、売買の関係など見あたらない行きずりの関係に見えるはずだった。この界隈だからとの色眼鏡さえ外せば、年の離れた友人同士にすら思えたかもしれない。『ル・グライユール』でTシャツの上からジャケットを羽織っている人間は少なかった。  コンパスの違いを生かし、アリはせかせかとした足取りのレーナックから半歩遅れ、わざとのんびりした歩みで通りを下る。時々ちらと振り返る男の目は決まり悪げに、それでいて間違いなく好色に細められ、ネクタイの端が膨らんだ腹の上で跳ねる。今から暗い店へ馳せ参じようと、鮫の目つきですうっと行き交う喧噪のど真ん中で、彼は一番ご機嫌な人間に見えた。  まだ夜は始まったばかり、闇は水のように爽やかな青みを帯びている。そう言えば今日はいい天気だったんだな、とアリは改めて思い至った。部屋に閉じこもっていたからすっかり忘れていた。まともに太陽を浴びる生活が羨ましくないと、嘘をつくつもりはない。  宿代はレーナック持ち、また部屋へ着いたら取り出さねばならないのに、彼は札へ皺をつけないよう丁寧に財布を折り畳み、ポケットに入れる。アリも催促はしなかった。ドアへ入りざま、手を突き出すより先に、まず窓際へ向かいカーテンを開く。  このホテルはどこの部屋を取っても、向かいにあるレジスのバーを見下ろすことが出来る。夕闇の中へ目を凝らせば、ビールグラス片手に窓際の席へ陣取る男の姿が確認できた。  2ヶ月ほど前、初めての客にストーブへ縛り付けられ、陰毛を全部剃り落とされたとアリが愚痴をこぼして以来、ウーヴェはあの店へ日参するようになった。そんなことしなくていい、この商売、多少の危険は覚悟の上なのだからと断っても、ゲルマン人の頑固さを発揮して頑張っている。レジスもドゥミ(250ミリ)の修道院ビール二杯で何時間も粘られるのはいい迷惑なことだろう。  店主同様に、アリも近頃は何も言わない。それでただ飯食いに関する良心の呵責が慰撫されるならば、まあ人助けをしてやるつもりだった。少なくとも彼は金を稼ぐ努力をしている。そのビール代は誰が出してると思ってるんだい、なんて意地悪を言ってやるのも可哀相な気がした。  今回は大丈夫だろうが、アリは合図代わりに脱いだジャケットをハンガーへ掛け、窓の桟に吊した。一時間してもこれが窓辺から消えなかったら、忠実な番犬は部屋に突入してくる。  ウーヴェが気付いてから一時間というのが肝だった。今彼は、テーブルへ頬杖をつき、広げた新聞に目を落としている。この国の言葉を覚える為、自己へ課した毎日のクロスワード。台所の食卓へ同じ格好で陣取っている彼の姿を、まざまざと脳裏へ浮かべることが出来る。何かへ一生懸命取り組む時、厳しさが勝る端整な横顔の中、瞳だけが年相応に見開かれるのだ。  あの綺麗な目を今すぐ見たいと思ったが、背後のレーナックはもう、スラックスを下ろしている。向き直り、アリは微笑みかけた。ナイトテーブルに置かれた紙幣を数えてジーンズの尻ポケットに突っ込んだ時にも、その表情は崩さない。 「貴方はお利口だね。アメリカ映画についても詳しいし」 「ああ……」 「でもあの映画は、仕事をさぼって観たと」 「まあね」  いたずらが見つかった子供の顔ではにかみ、レーナックはすり切れた絨毯へ膝を突いた。ジーンズの前立てへ手をかけるときはさながら神父様の一物を取り出す侍従の目付き。アリは既にうっすらと膨らんでいる男の股間を、爪先でつついた。 「当ててやるけど、貴方、あのイギリス人になりたかったんじゃないよな?」  恭しい手つきでペニスを取り出した時、男の赤い唇は既に唾液でてらてらと光っていた。  今日は既に2回射精している。勃起するかどうか不安だった。もっともこれは商売っ気有で他者と向き合う瞬間、慢性的に抱える懸念と言える。こんな心配へ毎日苛まれなくなるというだけでも、商売を替えるのに十分な理由と言えるのではないかと、ここのところ頓に思う。  幸いなことに、今日もレーナックは上手くペニスを育て上げた。ただしアリも、男の頭が懸命に上下している間、昼間の情事を思い出して手伝ったが。セブはスプリングが入っているものを全てトランポリンと思いこんでいる節があるし、睦み方自体もさながら跳ね回っているかの如しなのだが、憎らしいほど身体の相性がいい。  彼にやわやわと歯を立てられた首筋を撫でながら、アリは男に愛撫を与えていた。途中で靴を脱ぎ、素足の爪先でぶるんとした感触の先端を押し潰したり、穴へ食い込ませたりしてやる。その間、レーナックの両腕は地の底から這い上がってくるかのようにアリの身体を辿った。肉の張った太腿から固く締まった腹を撫で回したかと思うと、ぴっちりした尻肉を揉みしだく。  そろそろ潮時だと思ったのはお互い様だった。自分の唾液と先走りが混ざり合い、ペニスをしごくアリの手へまとわりついているのへ、ちらちらと投げかけられるレーナックの視線は、すっかり熱に浮かされている。 「物欲しげな顔だね」  ベッドへ腕と膝をついた男へ覆い被さり、アリは囁いた。 「大丈夫、リラックスして。すぐ気持ちよくしてあげる」  あまり洗っていないのだろうレーナックの耳の裏は酷い刺激臭がした。  赤く充血し、ワセリンで色づくアナルへゆっくりペニスを沈めながら、次にアリが心配することと言えば中折れしないかどうか。女みたく怒り狂い喚き散らされた方がどれだけ楽だろう。だが以前、アリが苦労しながら柔らかくなったペニスを内臓から引き出した時、レーナックはしくしくと泣き出してしまった。泣く生き物は嫌いだ、性交の最中ならなおのこと。  丸みを帯びた尻たぶが鳴り響く勢いで乱暴に腰をぶつけていれば、やがて甲高い嬌声が部屋を満たす。甘ったるく潤んだレーナックのまなこはあくまで虚ろだった。その昔、彼をこうやって乱暴に抱いた誰かを、霞む視界の中へ映し出そうとしているかのように。  怪獣みたいにのたうち回ろうとする弛んだ肉へ指を食い込ませ、アリが考えていたのは青い瞳だった。あの青年のような明度の高い虹彩は、興奮すると深い色味に変わる。きっと海の底みたいになるのだろう。見てみたい、なんてこと言えば、本人は嫌がるに違いない。  男が呻き、猫さながらに背筋を反らす。出来るだけ身体を垂直に保ったまま、アリも素早くペニスを体内から引き抜いて数度擦り、精液を背骨の窪みへぶちまけた。眼下の身体がぐったりと、かび臭いシーツへ沈んだのを確認してから、とっととジーンズのチャックを戻し、服を着込む。  所用時間は四十分足らず。ジャケットを取り上げざま、カーテンを捲って外を確認しようとした手を、アリは結局すぐに引っ込めた。何となく申し訳ない気がしたのだ。例え自らの貸しと借りを全てはかり皿に乗せ、更に今の感情を上乗せしたところで、天秤はびくとも動かないと分かっているにも関わらず。

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