3 / 20

第2話 ②

 幸い次の二人はアリのペニスよりも尻へと興味を持ったので、それ以上煩わされることは無かった。  拭き跡がまだらに模様をつける飾り窓を指で叩けば、ウーヴェはクロスワードから顔を上げた。瞠られた目はやはり、頭蓋骨の裏まで見通せそうなほど澄んでいる。 「今日はもう打ち止め」 「そうか」  新聞を持ち上げようとした手を押し止め、アリは対座に腰を下ろした。 「僕も一杯飲んでから帰るよ、いいだろう」 「ああ」  頷きは投げやりさすら感じ取れ、彼の意志は見あたらない。殊勝だと褒めることが、けれどアリはどうしても出来なかった。 「問題はなかったか」 「うん。代わり映えしない、工場でねじ回しでもしてるみたいだ」  アリが受け取ったグラスと同じものによってつけられた輪が、新聞紙に幾つも刻まれている。クロスワードは半分も埋まっていなかった。 「どれが引っかかってるの」  「ん?」 「クロスワード」  指で示してやると、ああ、とウーヴェは頷いた。 「自分で解けるさ」 「その調子だったら、絶対今晩中に終わらないよ。縦の3、『港から見送るとき、去りゆく船を隠すもの』は」  取り上げられた鉛筆が書き込む前に、汗で波打つマス目に慌てて掌が被せられる。 「そうじゃない、その、つまり……自分で解きたいんだ、最後まで」  彼の手は大きくはなかったが骨が太く、その癖無骨さはさほど感じられなかった。間が悪く手の甲を丸くなった鉛筆の先端で突いてしまったところで、びくともしない。 「ならお好きに」  肌理の荒い、肉体労働者風の皮膚へつっと滑らせてから、アリは筆記用具を投げ捨てた。誘いと取られるかもしれない戯れの慰撫は、幸い望んでいたとおりの鈍重な眼差しで受け止められる。 「何にせよ、半年でこれだけ分かるようになったなら大したものだよ」 「この国の言葉は難しいな、話し言葉と書き言葉が全然違う」 「でも美しいだろう。ドイツ語はちょっと、響きが怖い気がする」  歯に衣着せぬ物言いにウーヴェは面食らい、紡ごうとしていた言葉を舌の上で混線させた。アリがビールを半分以上飲み干した頃、ようやく唇は慎重な動きで開かれる。 「それは君の思い違いだ、絶対に……君は、生まれたときからこの国に?」 「うん、両親はモロッコ生まれだけど。今はもうどちらともいない、姉が1人だけ」 「なるほど」  と口にしてから、また少し考え込む。もどかしさを覚えたとき、その薄い下唇を噛む癖が、彼にはあるらしかった。 「俺の家族は、父親も母親も生きてる。それと、兄弟がいる」  一つ一つ指を折って数えるような物言いへ、アリは真剣に耳を傾けた。少し前のめりになってしまうほど。 「兄弟は俺より小さいんだ。今、3歳下だ。10が2と2……」 「22歳(vingt-deux)だね」 「そう、ヴァン・デ」  口の中で繰り返し、ウーヴェはほっとしたように頷いた。 「じゃあもう立派な大人だ」 「ああ。一人で親の面倒を見てる」  伏せられた目元に過ぎる影の理由を、大まかに察することは難しくない。詳しく説明されずとも、彼が決して前向きな理由から故国を出奔してきたのではないことなら、セブから聞きかじった程度の知識で十分窺い知れた。  もっとも、暗い表情はさして長い間持続されなかった。自分の心にしっかり据えた意見を、必要な時以外は主張することのない男なのだ。 「この国の言葉は難しい」  もう一度そう呟くと、ウーヴェは今度こそ新聞を畳み、傷だらけの天板に乗せた。 「でも、確かに聞いていて眠くなりそうだ」  無声音が有声音に濁りがちな訛りで、形良い唇がそう言った時、アリは2つのことに気付いた。この台詞が褒め言葉であること。そして青年が、自らと懸命に会話を続け、意志の疎通を図ろうとしているということ。 「君がフランス語を勉強するなら、僕もドイツ語を勉強すべきなんだろうけど」  彼の心遣いを無駄にしたくなくて、気付けば思ってもないことを口にしていた。 「それこそ覚えるのに100年くらい掛かりそうだな。英語、分かる?」 「多少は……ロッド・スチュワートやイーグルスのレコードを聞いてたくらいで」 「上等だ。じゃあこうしよう、この国の言葉でどう言えば分からなくて、英語で分かる単語があるなら、そっちを使って。僕の言ってる言葉が分からなかった時も、同じように言い直すから、聞き返してくれ」  ぬるくなったビールを飲み干し、辺りを見回す。狭い店の中に若い男が2人。この店は同性愛者向けではなく、カウンターを含めて10ほどの席には、もっぱら年金受給者の酔いどれが潰れているばかりだった。けれど界隈では、いつその前提がひっくり返るかなど分かったものではない。 「もう出よう。コナかけられるのはごめんだ」 「何だって?」 「つまり……英語だとピック・アップかな」  ウーヴェは最初怪訝な表情を浮かべたものの、朧気には理解したようだった。  店を出てすぐ、ジュークボックスの金髪坊やがちらとこちらへ流し目をくれる。今からホテルでお相手するのだろう、粗野な中年男を引き連れているにも関わらず、堂に入ったものだった。  最初アリは自らに送られた秋波だと思ったのだが、何のことはない、やはりウーヴェが目立ちすぎていた。くたくたの革ジャケットと色あせたジーンズ姿でその魅力を押さえ込むなんて、どう足掻いても無理に決まっている。  これまでよく何も無かったものだと今更呆れる。当の本人もまごついた、素早い視線を辺りへ走らせているところからして、目配せには気付いているのかもしれないが。  そう、彼は間違いなく決まり悪い思いをしている。なのにアリが腕を組んでも、一度身を強張らせただけで、振り解こうとはしなかった。 「マルゼルブ通りを抜けるまでいいから。3人でやろうなんて誘われたくないだろ」  ウーヴェは黙って歩き出した。出来る限り相手の顔を見ないようにしながら。嫌悪ではなく、礼儀に則って。  盛りは峠を越し、街灯が柔らかく腑抜けた色で石畳を照らしていた。明け方まではまだ時間がある。セブの運転する車で空港まで観光客を迎えに行くのが15時の予定だから、少しは眠れるだろう。  酒気はもう抜けたが、鼻だけはまだ少し腫れて、冷たいような感覚が残っている。軽く頭を傾けると、すっきりしたウーヴェの項から、古びた革と、もっと獣臭く、それでいて熟しすぎて踏み潰された果実のようにも思える彼自身の匂いがした。 「それにしても、イーグルスだって?」  耳打ちすれば、「イーグルスの何が悪いんだ」と苦い笑いが返される。とても下品な表情筋の崩れ方だった。新たな発見は欠点に分類されるものなのに、何故かアリは、一緒になって笑い出したくなるのを抑えることが出来なかった。

ともだちにシェアしよう!