4 / 20

第3話 ①

 せっかく早引けしたにも関わらず、質の良い睡眠を得ることは出来なかった。幸い割り開かれたアナルが慎ましく窄まろうとする、あの落ち着かない感覚は下半身から消えていたが、意気軒昂には程遠い。かと言って頭は冴えているから、このままとろとろと微睡みに引き戻されることも難しいと来る。  結局9時前にはベッドから抜け出し、服を身につけていた。殺菌された清潔な膜を一枚張ったような、柔らかく澄んだ青空が、しょぼつく目にやたらと沁みる。  空いた時間をどう潰そうかと考えたとき、姉の顔が浮かんだのは、昨夜ジャノと交わした会話のせいなのだろう。折り良く今日は店の休業日だ。まだだらけて眠っているかと思ったが、彼女は10回もベルが鳴らないうちに受話器を取り上げたし、散歩の提案も断らなかった。 「クロードに会ってくる」  シーツへ纏わりついて眠りを貪っているセブの耳元で告げる。この大胆で厚顔無恥な男は、彼女への好意を隠さない。案の定、むにゃむにゃとろけた口調で「ひるめしにはさそってくれ」などと宣う。  寝坊助と違い、ウーヴェは今日も勤勉だ。居間のソファは既に空っぽだった。また仕事を探しに行ったのだろう。無理しなくても構わないのに、せめて作戦を立て終わるまで、じっとしていたらいいのにと言うのが、ここのところアリの胸中に宿る本音だった。  誇り高い男が毎日自尊心をすり減らされ続けている姿は見るに耐えない。彼はやると決めたことは必ずやり遂げる。機会が今では無いだけの話で。蝶だって蛹でいる期間があるのだから、その間守ってやるのは全くやぶさかではなかった。  見解を披露すれば、クロードは露骨に眉を顰める。 「そうやって自分勝手な義務感に駆られた挙げ句、骨の髄までヒモにしゃぶり尽くされた女の子を、これまで山と見てきたわ」 「彼はしゃぶったりなんかしないよ。女の子が好きなんだ」  叩かれる軽口へ処置無しと言わんばかりに目が伏せられたのは、背後へ過ぎ去ったサン・ジェルマン・ロクセロワ教会へおわす天使達に憚っているのかも知れない。昔から神の威光にはとことん弱い女だった。  彼女と二人、腕を組んで河岸を歩いていれば、双子の姉弟と言うより、親しげな友達に見えるはずだ。嘆かわしいことに、想像の方が現実よりも遙かに幸せだった。  ここのところ、クロードは弟と顔を会わす度、やたらとお説教めいた口振りを作りたがる。不干渉こそが決定的な仲違いをしないこつだと、すっかり忘れてしまったらしい。  中学校を出てすぐに家を飛び出し、10年近く代わり映えのしない日々を繰り返すアリと違って、彼女の人生経験は確かに豊富なのだろう。サン・シャルル駅でスミレを売っては警察に犬の如く追い立てられていた少女が、ジュール通りにある高級宝飾店を任され、マダムと呼ばれるまでのシンデレラ・ストーリー。弱い男はお呼びではない――彼女は間違いなく、弟を社会の埒外にある脱落者だと見なしていた。口には出さなくても、きょろりと円い瞳の動きだけで十分読みとれる。 「悪い奴じゃないんだよ。真面目だし、故郷じゃトラックの運転手をしてたとかどうとか」 「季節労働ビザも持ってないのに、まともな仕事なんて付ける訳ないじゃない」  丸く結わえた黒髪を留める中国風のピンには銀細工の蝶が憩い、繊細に広げた羽へあしらわれる小粒のエメラルドを輝かせている。後れ毛を華奢な指で掻き上げながら、クロードは煌めくセーヌの水面へ眩しげに目を細めた。健康的な陽光を浴びた時、彼女は初めて年端も行かない黒人の娘に見える。 「人間、無為に生きてる間はお腹が空かなきゃいいのに」  それとも彼女が憂いを覚えたのは、河岸で手に手を取りそぞろ歩く恋人達の姿に対してだろうか。或いは乳母車にぶよぶよした赤ん坊を乗せて通り過ぎる、尻のずんぐりした母親かもしれない。観光客から逃れたかと思えば、次はこの街の気取った連中だ。こちらの感情ならば、アリも大いに同調できるところであるので、あまり手厳しい攻撃は控える。 「ファビは元気? ミンダ氏は?」 「マニュは元気よ。ファビは知らない。死んではいないわ、毎週ちゃんとナヴェット(オリーブとオレンジのクッキー)を受け取ってくれるもの」 「あと15年も食らい込むんだ、たまには会いに行ってやったら」 「あなたこそ、昔はファビと仲が良かったでしょう」 「キャバレーでいきなりピアニストの頭を撃ち抜く奴となんか、まともに付き合えないよ」  軽蔑も露わな物言いに、クロードがまたしんねりした視線を投げかけていることなら百も承知だった。謝るつもりはない。泥棒やポン引きならともかく、拳銃を振り回すなんて正気の沙汰とは到底言えないではないか。これ以上風評被害が積み重ねられるのは沢山だ。そうでなくても、この国で肌の色が濃い人間は肩身の狭い思いをさせられている。野蛮で不潔な異教徒、或いは権利ばかり主張する口喧しい高尚な甘ったれども。 「まあ、そういう意味なら白いミンダ氏も一緒だろうけど」 「同じ血を分けた姉をいじめるのはさぞ楽しいんでしょうね」 「まさか」  二の腕の裏の無防備な場所へ指が抓る勢いで食い込むに及び、アリは白旗を掲げた。 「愛してる、クロード。母さんの腹から出て来て以来、僕達はすっかり別人になっちゃったと思う?」 「私達は最初から別の人間よ」  頬を撫でる春の風へは微かに生臭さが混じっていた。街路に並ぶプラタナスの木陰へ亡霊でも見たような顔で、クロードは弟の腕にますます身を預ける。押しつけられる肩のか細さが、酷く意識へ食い込んで仕方ない。 「でも、それってとても寂しい。あなたが遠く離れていくのは」 「離れないよ、何があっても。だってもう、2人きりなんだから」 「そうであって欲しいわ」  腕に取り縋る手の甲をそっと叩いてやっても、彼女の面持ちに快活さが浮かび上がってくることはなかった。  蛇の鱗を思わせる車道の石畳は、びゅんと走り抜けるランボルギーニのせいで今にもがたがたと震え出しかねない。同じくあてられ、安っぽいビニールの庇をはためかせる路駐のフードトラックで売られているのは、なんとホットドッグだった。一体どうなっているのだろう、こう言うのは普通クレープとかアイスではないのだろうか?  この辺りはますますフランスらしさを失っている。数年前に市役所前へ建設された文化センターなど、胸を張って国民性を誇示できないアリから見ても、軽薄さの極みとしか思えなかった。  幸い、時計の針が真上へ近付くのに反比例し、醜悪さから遠ざかることが出来る。旧中央市場に戻る道すがら、アリは喉を震わせるようにして姉の耳に囁いた。 「見ててご覧。きっとセブ・ヒルデブラントが待ってるよ」 「やだ、どうして呼んだの」 「もちろん、ちやほやさせる為さ」 「馬鹿ね……彼って、ブレーキが壊れてるのか、アクセルが効き過ぎるのか、いまいち分からない」  と腐しながらも、言葉はくすくす笑いを交えて喉の奥で転がされるし、どこか違う店に行こうとも提案しないのだ。モンマルトル通りへ入って、目的地の臙脂色をした軒が見えてくるまでの間、アリは彼女が口にするぐずぐずとした繰り言を心行くまで楽しむことが出来た。  昼前という時間が時間だ。テーブルが5卓しかないル・コション・ア・ロレイユの一階席は全て埋まり、カウンターも八分入りの盛況だった。その中で、予想通りセブは呼んでもいないのに待ちかまえている。壁に掲げられた19世紀のフレスコ画より少し奥で、あたかも生粋のパリっ子じみた顔をしてグラスを傾けていた。笑ってしまいそうになるのを辛うじて堪える。  つい数十秒前に「それに、山の猿みたいなところがあるし」などと言われていたとは夢にも思っていないのだろう。店に入ってきた二人の姿を認めるや否や、セブはぱっと表情を輝かせた。 「先にやってたぜ。今日も(tu)は輝いてるな、クロード」 「ごきげんよう、貴方(vous)」  未だ『貴方』と呼ばれてもセブがしれっと受け流すように、クロードも彼に囁かれる『君』へ微笑み返す。寧ろ、まんざらでもないに違いない。相手の小麦色に近い肌よりも余程白い掌で、手の甲をそっと叩く。 「なあ、やっぱり俺、絶対君のこと、『リド』で見かけた気がするんだよ。ふわふわした羽にくるまって踊ってる、最高に贅沢で素敵な君をさ」 「そんなアメリカ人みたいな文句じゃ、あの店の女の子は口説けないよ」  早速辟易してこぼすアリに、セブは悪びれるどころか、パトリック・スウェイジよろしく気障に片目を瞑って見せた。  この店で食べるとき、姉弟はいつも同じものを頼むのが常だった。示し合わせているのではなく、お互いの気分が伝染し、腹具合が同調する。ということで前菜のエスカルゴを3人で分け合った後は、舌平目のパピヨット(包み焼き)が2皿、ワインはクロードの要望で、安く美味いシャブリをグラスで持ってこさせる。 「そんなこと言ったって、体に流れてる血の半分はあっちの大陸産さ。もうちょっと軍資金が貯まったら、是非とも行ってみたいもんだね。マイアミが良いって言うぜ、太陽と海、フラミンゴ」  午後から運転手役を務めねばならないのに、セブは2杯目か3杯目かのセーズとキャセロールですっかり饒舌へ陥っていた。お喋りと、デミグラスソースの中から掬い出した今にもほろほろと解けそうな豚頬肉へ打たれる舌鼓は、見事に両立される。 「でも、この国の人間は外国へ行きたがらないよな。みんな自国愛が強すぎら」 「太陽を浴びて海で泳ぎたいならカンヌへ行くよ。国中に良いところがあるのに、どうしてわざわざ余所へ出かけなきゃならないんだか」 「私はカサブランカへ行きたいの」  魚を少しずつフォークで崩しながら、クロードは先ほど含んだ白ワインよりも爽やかな声でそう口にする。 「私のルーツだし。せっかく初めて国から出るならね」 「それで、美しき友情を始めるって訳か」  面白みもないアリの皮肉を姉は黙殺し、セブに至っては通じた様子すらない。怪訝な表情と共に傾げられた小首はすぐさま元の角度へ戻る。 「でもよお、アリ。お前だってしょっちゅう観光案内してるだろ、冒険心ってもんは湧かないのかよ」 「寧ろ幻滅するよ。ドルを使う人間は、どこのレストランに行ってもケチャップとタバスコが無いって文句ばっかりじゃないか」  賛同する代わりに、セブは空になった前菜の皿をテーブルから取り上げた。キャセロールに付け合わされたジャガイモのソテーは既にフォークで削られていたが、掬い上げられる側から次々と皿の窪みにぶちこまれ、エスカルゴバターへ絡められる。エシャロットの風味が強過ぎるソースはアリの好みではなかったが、それでも無許可の暴挙はちょっと腹に据えかねた。 「僕の故郷は地中海さ。クロードだって、オリンピック・マルセイユの試合結果がすぐに分からない場所へ行くのは絶対嫌な癖に」 「今年のマルセイユは凄いことになるわ。だってジレスにフェルスターに、それにパパンまで加入したのよ」  何を当たり前のことをと言わんばかりの顔でクロードは抗する。外面はともかく魂に関してなら、死すらも2人を分かてないとアリは自負している。だがこのサッカー狂いに関してだけはどうにも理解を覚えることができない。 「そうよ、あのパパンが来るんだから」 「羨ましいな、ったく。ヴェルダー・ブレーメンもちょっとは踏ん張って貰わないと……結局は金なのかね」 「金尽くでも力尽くでも構わない。手に入れようとする強い意志が大事だと思う」  壁画の傍らに張り付けられた細長い鏡で唇を点検し、口紅の滲みがないことを確認してから、彼女は弟へ向き直った。 「あなたは魅力的よ、アリ。賢くて、才能に溢れて、努力すればきっと輝かしい未来を掴むことができる」  普段ならば、特殊な送受信機を持つ二人の間のことだ。どちらかが胸をざわつかせたり、ぎくりと身体を硬直すれば共鳴版が鳴り響き、それきりになることが多かった。  しかし今、クロードは決して逃げようとしない。見つめる黒曜石の瞳が酔いで少々曇っていたとしても、二皮目をゆっくりと瞬かせて息を整える。 「大学へ行きなさい。お金なら出してあげるって、前からずっと言ってるでしょ」 「それ、ミンダ氏の金だろ。施しなんかお断りだ」  毅然とした口調で出したつもりの声は、結局幼稚で尖った響きを帯びる。特別に濃いデミグラスソースを口に含みながら、セブが賢しげな一瞥が投げかけた。彼はこの会食で財布を出すのが誰か知っているし、毎週水曜日に郵送される小切手の振出人へも、目を通したことがあるに違いない。 「僕はもう子供じゃない。自分の足で立ってる一人前の男さ」 「けど、そんな生活はいつまでも続けていられないわ。今は戦時中じゃないのよ、皆ダンスフロアでお互いを好きなだけ品定めして、ただで家へ連れ帰ってるのに」  その時になって初めて、クロードはセブに助け船を求めた。過度に性的ではないが、気づけばひたっと心へ寄り添っている、親しみに満ちた眼差しが、俯いた横顔へ注がれる。 「もちろん、日々努力してることは認めるけど……あなたの仕事って、そのうち絶滅するのかも知れないわね」 「確かにな。それに、あのおっかない病気もますます流行ってるだろ」  ソースを懸命にこそげ取るスプーンに、四角いシチュー皿の底が擦られる音は、セブの頷きへ被せられる不愉快な伴奏となる。 「まあ、近々副業を本業にしていけばいいさ」 「権利がどうとか言うつもりはないけど、それにしたって随分な物言いだね」  彼のことを全く笑えない。たった一杯のワインが辛く湿った口を驚くほど軽くし、心を解放する。もう魚は十分だ。皿を押し退け、アリは身を乗り出した。 「ファビが収監されて泣き暮らしてたとき、住む場所の手配から愚痴の傾聴までこなしてたのは僕だぜ」  その気になればきっと一人でも生きていける女だ。或いは堪え忍び、愛した男が出所するのを一途に待つことだって。けれど彼女は楽な方角へと流れた。涙も枯れ果てた後にまず手をつけたことと言えば、司法大臣に嘆願書を書くことではなく、恋人を顎で使っていた男へ文字通り乗り換えることだった。 「いいかい。ファビが誰の指示で、あの綺麗なチュニジア人の子の頭を弾いたか、忘れてるなら思い出すべきだよ」 「弾くとか言わないで、ギャングじゃあるまいし」 「僕がギャングじゃないなら、そっちだって宝石屋じゃないだろ」  クロードは答えず、半分近く魚の残っている皿をつつくふり。彼女が逃げ込んだだんまりへ、別にそこまでの重さは含まれていない。双子の間には彼らの為だけの様式美が存在する。  だからセブが「おいおい、よせよ」などと仲裁に入るのは、全くよけいなお世話なのだ。 「せっかくの飯が不味くなっちゃうぜ」 「まずいのは君さ、セブ。酔っぱらって事故なんか起こさないでくれよ」 「大丈夫だって」  一息で干したグラスを降ろしたとき、彼が浮かべているのは小憎たらしい笑みなのだと思っていた。予想に反して、その眉間には薄く皺が寄っている。 「こんな馬の小便みたいなビール……くそっ、こればっかりは国が恋しいな」

ともだちにシェアしよう!