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※第3話 ②

 オルリー空港のドロップ・オフでセブがベックスの白昼夢を見ている間、アリはただただふてくされ続けていた。  約束通り、青い上着を身につけて『フィガロ』片手にエスカレーター脇のブティック前に突っ立っている自分が、酷い間抜けに思えてくる。さっきまで隣の本屋で今週号の『パリ・マッチ』をぱらぱらしていたが、気鬱は全くと言っていいほど晴れなかった。昔、ベルスンスの集合住宅にあるゴミ箱からこの雑誌を拾ってきて、姉と一緒に読んだことを思い出す。  昼食の件について後悔はしていたが、謝罪欲求は微塵も湧いてこなかった。自らは事実を口にしたまでだ。  それに、心配をしているのが自分一人だと彼女が思っているならば、お門違いも良いところだった。マニュ・ミンダについての噂ならば、掃いて捨てるほど耳に入れている。あの男がクロードに食指を動かしたのも、美貌に惹かれただけでは決してないのだろう。マルセイユの海風には、興奮の匂いがする。ミンダのような白人が好む、白い粉の作る異様な興奮だ。  「結局のところは金か」阿呆のような顔で聞き惚れていたセブの姿が脳裏に浮かび、忌々しさは一層膨らむ。そんなことは百も承知だ。世間で常識と呼ばれる言葉を実行することの、どれだけ難しいことか、アリは嫌と言うほど思い知らされていた。  怒りは中途半端な閾で停滞すると、脳の活動を停止させる。腹もくちくなり、良い感じの眠気が全身に蔓延してきた。  店内に吊られる色とりどりの傘を被った照明へ、吸い寄せられるように意識を奪われていたから、反応が遅れてしまう。 「ワトビルさん?」  お互い、電話口で耳にした声だ。自ら話し掛けておきながら、アリが名前を呼ぶと、その男は間違いなく表情を動揺へ染めた。年齢は30代後半、いかにもミラノ男らしい小綺麗なスーツへ併せたルイ・ヴィトンのトランクケース。 「旅は快適でしたか。こっちはド・ゴール空港と違って分かりやすいでしょう」 「ああ、カルロが言ってた通りだ」  彼を紹介してくれた客の名前を出す時だけ、ワトビルの英語は鋭いスタッカートを帯びる。男よりも遙かに流暢な発音で、アリは『very well』と呟いた。 「それじゃあ、早速ホテルに。『クレイジー・ホース』の予約は8時ですから、ゆっくり着替えて」 「その予定なんだが、実は今日、疲れてて……」  トランクを差し出す時、手が触れ合うことすら恐る恐ると言った呈なのだ。じろじろと顔を見つめ渡す視線は、余りにも露骨だった。 「どうやら……飛行機の中で飲んだスコッチが回ったらしい」 「何なら明日に予約を取り直しますよ」 「いや」  気のないことを最低限隠した提案に、同じような口調が返ってくる。なるほどね、などと訳知り顔で頷いてやることなど、もちろんアリはしなかった。恨みは寧ろ、常連と化しているあの毛織物商へと向く。  人種位は事前に教えておいてやればいいのに、こっちだって暇じゃないんだ。  憂鬱は車寄せのところで待っているルノー・5が、先刻だべっていた店の軒と同じ色をしていることで頂点に達する。南ターミナルのガラスにきらきら反射する太陽は、暇な闘牛士が毎日ワックスを掛けている車体をも不相応に輝かせていた。全く下品だ。ワトビルも同じ意見のようで、後部座席の扉が開けられた途端、ぎくりと肩を揺らす。 「ホテルへ向かってくれ。それと、今夜はキャバレーには行かない」  別に珍しい展開でもない。セブは助手席へ視線を走らせた。まずアリの、仏頂面との縁に爪先立つ微笑みへ。それから手の中で皺を刻む『フィガロ』へ。フランス語で放たれる「了解」は、ワトビルの警告として十分事足りるぶっきらぼうさだったから、少しだけ溜飲が下がる。  空港から市内まで掛かる30分は、お喋りしながら自らの感情を封印するのにちょうどいい時間だと言えた。最初はあからさまな警戒心を抱いていたワトビルも、やがては頬を緩める。結局のところ、カルロ・ビアジェッティは、アリの知性や事務処理能力よりも、肉体的な魅力を評価して知人に推薦したのだ。それは彼が生来持つ資質だけではなく、後天的に身につけた技巧も含まれている。  サン・ラザールのホテル・コンコルドまで辿り着いた時、セブはこそっと耳打ちをした。この季節にも関わらず彼はやたらと汗を掻いていて、ゲランの石鹸の匂いに混じった香ばしいような体臭が、ふわりと鼻まで届く。 「迎えは10時くらいでいいか」 「いや……8時にここで」  短い会話は、ワトビルに理解されているのかも知れない。だがアリは平然と言ってのけ様、扉を開けた。 「食事はしないと思う」  ワトビルは再び押し黙り、荷物を運ぶアリを従えてずんずんと歩き出す。コリント式の柱が飾られるホールを突き抜ける姿は、若い弟子兼愛人を伴い講義へと向かう古代の哲学者と言ったところ。ご主人様とでも呼んでやれば、興奮するだろうか。  男が今覚えているのは怒りなのかも知れない。友人にだまされたという腹立ち、あらかじめ確認しなかった自らの不甲斐なさに対する憤り。  気にくわないなら金だけ払って追い返せばいいだけの話だ。それとも無為に財布を出すのが業腹だから、取りあえず味見だけしようという気なのか。とにかく厄介だ。対価の2000フランがなければ、適当にあしらってとんずらをこいても許されるに違いない。 「毎回思うんだが」  チェックインを済ませてエレベーターへと向かうとき、不意にワトビルがぽつりとこぼす。彼が見上げているアーチの壁面へ、アリも視線を向けた。 「どうしてあれだけは後ろを向いているんだろう」 「さあ」  描かれた名物の天使は今日も尻を晒したまま腕を掲げ、誰でもない者に祝福を与えている。例え見えなくとも、彼が堂々と明朗な表情を浮かべているだろうことは容易に想像できるのだ。アーチをくぐり抜け、アリは肩を竦めた。 「けれど、例え後ろを向いていたところで、彼がここに存在しているのは事実ですよ」  近頃改装されたばかりのツインルームは細長く、何もかもが青い。100年越しの綻びた恋ですら燃え上がらせそうな色合いに、男も煽り立てられたのかも知れない。荷物を解き一杯やるより早く、「脱いでくれ」と命じた。 「シャワーを浴びてこなくてもいい?」 「ああ」  もう一度肩を竦め、アリは上着に手をかけた。芝居掛かった真似をする気にはなれず、身につけていたものを業務的に、それでいてきっちり畳みながら、身体から引き剥がしていく。  アリが生まれたままの姿になったとき、まだワトビルは上着を脱いだきりだった。眼前に相対する肢体を視認した時、そのがっしりした首の中、喉仏が目に見えるほど上下する。 「君は美しい身体をしていると聞いた。本当だったな」 「それはどうも」 「最初は驚いたんだ、悪かったよ。黒人と寝るのは初めてなんだ」 「光栄ですね。貴方の初めてを貰うなんて」  ぱちっと、ことさら色気のない風に目を瞬かせることで、ワトビルの興奮は否応なく増したようだった。 「禁止事項は?」 「病院へ駈け込む羽目になるような真似は無し。後はお好きに、何せ貴方は、ビアジェッティ氏のお友達ですから」  刺された釘を、男がまともに理解したかどうかは分からない。初めてルイ・ヴィトンが開かれ、ぎっしり詰め込まれたシャツの下から鞭が取り出される。ちらと投げかけられた視線へ、アリは鷹揚に頷いて見せた。微笑みすら浮かべたほどだ。  結局のところ、あのおのぼりさん向けのショーへ付き合わずに済んだ訳だし、彼は自らのことを気に入ってくれた。次もまた電話をしてくれるかもしれない。たかが数時間くれてやるだけで2千フランだ、全くぼろ儲けではないか。 「椅子の背に手を突いて。そう、それでいい……黒人の子は尻が大きいな、綺麗だよ。こんな綺麗な身体の子には罰を与えなきゃ」  興奮で僅かにもつれる指示と賞賛は、最後まで聞き届けることが出来なかった。空気が切り裂かれる鋭い音と、尻が熱く焼けるような衝撃は、ほぼ同時に知覚する。  こんなこと珍しくもない。2千フラン、と何度も唱えながら、アリは崩れそうになる腕を黒檀の背もたれへ強く押しつけることで立て直した。膝から力が抜ける責めの中、笑い出しそうになったのは、古い文句を思い出したからだ。「俺にはおまえの顔が札束に見えるんだよ」。ミラノ生まれの札束。リラはお断り、基本的にイタリアは貧乏な国だ。  次々と繋がる連想は脳の表面を滑り、辛うじて苦しみを慰撫してくれる。これもまた痛みが重ねられることで消えて、やがては無になるのだろう。 考えることは辛い。小難しいことのない生活はいっそ幸せたった。早くその境地へ到達できればいいのに……けれどやはり、空っぽになった頭への恐怖を消すことは、恐ろしく難しいのだ。  今や尻の感覚は失せ、皮膚がかっかと燃えるような熱を帯びている。「もう許してください、ご主人様、もう悪いことはしませんから」そう芝居気を込めて口走れば、高揚し上擦った笑い声と共に、尻たぶの下に固いものが押し当てられる。やれやれ、やっとかと胸をなで下ろし、アリは知らずと笑みじみた形に歯を剥き出していた唇を、無理矢理引き結んだ。 「お勤めご苦労さん……おい、大丈夫かよ」  最初こそセブの声は暢気極まりない響きを作る。しかし後部座席へ頭から突っ込むかの如く転がり込んだアリに、声はすぐさま転調した。 「畜生め、あのスパゲッティ食い、とんだど変態だったか」 「どうってことない、これくらい……」  ポケットから取り出した500フランは既に部屋の中で数えていたが、俯せのままもう一度数える。2千フラン。今からギャラリー・ラファイエットへ飛び込み、ぱっと散財したい誘惑を抑えるのは至難の業たった。 「しばらくはとてもじゃないけど椅子に座れないよ」 「何でくそ真面目に叩かせるんだ、ちゃんと断れって言ってるだろ……氷買ってきてやるからな」  思ったよりも掠れて放たれたアリの声に、取り繕いは剥がれ落ちる。乱暴に車を発進させざま、もう一言二言口の中で噛み潰される言葉はドイツ語だった。それはアリが含み笑いを転がすと、すぐさま矛先を変える。 「なにニヤニヤしてやがる、心配してやってるのに」  心の底から憤る人の声を聞くと嬉しくなる。心配したり、怒ったりしてくれる存在を見つけるのは、大人になってからだと思った以上に難しい。 「別に叩くだけじゃなかったよ。彼ってさ、サディストなだけじゃなくて、マゾヒストでもあるんだ。最後には顔へ向かって唾を吐きかけてくれって」 「とんでもねえ野郎だぜ、自分を痛めつけて楽しむなんてよ!」  アリの揶揄へほとんど被せるようにして、怒鳴り声は叩きつけられる。彼のTシャツの脇はぐっしょりと濃い汗染みを作っていた。またご機嫌に喉奥で笑うと、アリは抜き取った紙幣を1枚、運転席へと差し出した。 「……なんだよ」 「この前、『アズール』の胴元から電話が掛かってきた。積もり積もった2万1千フランだっけ、利子だけでも返せって」  本当ならば、紳士的に見て見ぬふりを決め込んでやるべきなのだろう。だが電話が掛かってくるのは大抵午前の10時から昼に掛けて。せっかくの爽やかな寝覚めを台無しにされるのは金輪際ごめんだった。  それはベルが鳴る度ばつの悪そうに首を竦めているセブも同じ気持ちのはずだ。やがてむっつりした表情はますます深まった。受け取った紙幣を信号待ちの間につまんで鼻先に掲げ、溜息をついてみせる。 「2千フランあればな、しばらくは」  固く握りしめていた手を緩めるのは、非常な努力を要した。  車はオペラ座の渋滞を避けるようパスキエ通りに入り、ペルー領事館の傍らを走り抜ける。這い蹲っている自らの体勢も含め、まるで何かから逃げているかのようだ。  見上げた窓の向こうで、夜の闇を走る己の姿が見えた。黒い頑丈な領事館の扉に取り縋り、力一杯拳で叩きながら訴える。「ここから逃がしてください」ペルーについてはろくに知らない、マチュ・ピチュがあって、恐らくスペイン語を話すだろうこと位しか。それでもここよりは余程……  マルセイユの人間がサッカーに捕らわれているのと同じく、この国の人間はフランス語に捕らわれている。せめて母語が通じるところならば、などと考えているうちに、機会は失われていくのだろう。 「どっかで食って帰るか」  母親の顔色を窺う子供の声が運転席から投げかけられる。いつの間にかロワイヤル通りを彩る眩しい夜の光が車内に差し込み、オレンジ色から白色へ、青色の次はまたオレンジ色。 「ううん、家で食べよう。それよりラジオつけてくれよ、フランス語のね」  組んだ腕に顎を埋め、アリは目を閉じた。金が手に入ったからと言って、軽率に散財するのは良くない。帰宅したらきっと、温かいドイツ料理が待っている。  待ってるよな? と一瞬浮かんだ疑念は幸い、フランス・ギャルの鼻に掛かった声が、バターのように溶かしてくれたから良いものの。

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