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第4話 ①
また際限なくデモがあり、際限なく男達が体を通り過ぎる、季節が通り過ぎる。街の住人が海へ山へと逃げ出して、空白を埋めるように観光客が流れ込むにつれ、郷愁が手の打ちようがないほど激しくなる、憂鬱な夏。たまには里帰りしようぜと電話口で誘いかけたら、クロードは頭の出来の悪いガキへ説いて聞かせる言葉付きで答えた。
「そんなこと言ったって、何しに行くのよ。もうあっちには父さんも母さんもいやしないわ」
例え核爆弾を雨霰と降らされ、草一本残っていない有様になってしまったとしても、ただふるさとの太陽を浴びることで得られるものがあると、彼女は理解していない。
それに、こんな良い時候にせせこましい街へ留まっているなんて、負けたような気分になるではないか。マクドナルドのコマーシャルが誘いかけるように「日常を脱出しましょう」と夢想することの、何がいけないのだろう。
せっかくのいい天気だ。カリカリしているのも勿体ない。一杯だけと流し込んだパスティスも、気楽になれよ、と囁きかける。背中へぽつぽつと吹き出した汗がシャツを染め、麻の上着を当世風に腕まくり。開放的とまでは言わずとも、辛うじて上向き調子と呼べる位にまで気分を高め、ホテルの道のりをそぞろ歩く。
白髪交じりの黒髪を溶けた整髪料でぺったり撫でつけた中年男は、絡められた腕を解こうとせず、奏でられる鼻歌へ当惑混じりの薄笑いを向けていた。
「宝くじでも当たったみたいな顔してるな」
「当たってたら今頃ニースにいるさ。貴方こそどこかに遊びに行かないの」
「来週からコートレへ、家族と一緒に」
「山か。日焼けして帰ってきたら、背中の皮を剥いてやろうと思ったのに」
「一週間で戻ってくるさ、そのときはまたお相手してくれよ。日焼けの代わりに、タマがパンパンに腫れ上がってるだろうからな」
あけすけな物言いに笑いながら、腕の時計へ視線を走らせる。一仕事終わらせてホテルから出ても、日暮れまでまだまだ猶予はあるだろう。店に戻って30分もしないうちに捕まえた2人目の客、至って順調だった。現実逃避の手段として一番有効なのは多忙だ。逃げ出したいと思った時、走る前にやってみるべきなのは、今が上手く言っていると信じることだ。
上機嫌が乱気流へ突入したかの如く揺さぶられたのは、『マルタ』の前でうろついている太鼓腹と、野暮なサスペンダーを目にしたからだ。アリはますます隣の肩に身を押し付け、鋭い息と共に耳元へ言葉を叩きつけた。
「あいつは刑事だ。僕の名前はアレクシ・ナイベト。僕達の間に金の受け渡しはない、後で返すから」
男が目を瞬かせている間に、その嫌らしいデカは、食い意地の汚いブルドッグよろしく贅肉を揺すって近付いてくる。手帳を見せ、じろじろと這わせる視線の何て不躾なことだろう。胸元に触れた男の二の腕が、固く強張るのを感じる。こりゃ駄目かな、と、頭の中へ氷のように冷たい諦めが差し込んだ。
「ここのところ、界隈は物騒でね。特にデモだなんだと」
「ああ、学生が騒いでますよね」
脈絡のない台詞の繋がり方を、男は理解することが出来なかったようだった。代わって答えるアリが、内心胸をムカつかせているのへ気付く余裕すらない。
「僕の親父も言ってましたよ。こんなのは60年代以来だ、あの時みたいに、通りの敷石が全部なくなることがないのは有り難いけどって」
薄っぺらい世間話とアピールに、もちろん機嫌の悪い刑事が誤魔化されてくれることなどない。身分証を一瞥したどんぐり眼が、男の左手で輝く結婚指輪に向かう。
「で、あんたらは恋人同士って訳ですかな」
先ほどまでの調子良い軽口はどこへやら、言葉は喉奥で軒並み引っかかってしまったようだった。日に焼けた首の血管が今にも破裂しそうに膨らんでいる。
腹いせに巻き込まれてしまった彼を哀れむべきなのだろう。けれどこの手の男は、8区の警察署へ引っ立てられた暁に、自分だけ助かる為わんわん泣き叫ぶものと相場が決まっている。魔が差したとか、向こうから誘ってきたのだとか。客にそこまでの仁義を求めてはいない、それに彼は来週から家族と共に、ピレネー山脈でハイキングをしなければならないのだから。
香水の匂いとケジラミの蔓延したブタ箱へぶちこまれるのは不本意だが、仕方がない。もしかしたら顔見知りの、余計な説教などしてこないお巡りに当たるかもしれない。あまり暗いことばかり考えていたら、本気で手首を切りたくなる。
「ええ、でも彼は……分かるでしょう」
嫌悪と侮蔑の眼差しを弾くため、ことさら朗々とそう口にしながら、アリは巻き付けていた腕を解こうとした。
「遅いぞ。20分も待たせて」
背後からかけられた声へいの一番に飛び上がったのは、家族思いのパパさんだった。仰ぎ見た先で警察を睨みつけるウーヴェの目に怯みはない。寧ろ蒼い瞳から放たれる、光線の如く鋭い眼差しに、刑事は間違いなく意識を逸らした。
「アリは俺の友人だ。これから奴の家で飲むつもりだった」
「彼はハンブルグの工業大学時代の仲なんです」
怪しげなドイツ訛りはこの場で有利に働く。抱えた安物ワインの瓶を今にも逆手へ持ち替え、刑事の石頭へ振り下ろしそうな勢いに、アリは慌てて助け船を出した。
「休暇で遊びに来てるから、余りこの辺りの事情に詳しくない」
咄嗟の戯言が、どこまで信じられたかは分からない。だが物怖じしない挑発は、淀んだ空気を押し流す。
引っ張るようにして通りを後にしたとき男はまだ呆然としていたから、金を返すのを忘れてしまった。そうでなくても、腕を掴むウーヴェの手の力は余りに強い。
「君、度胸があるな。うっかりすると身分証を要求されて、そのまま国外退去だぜ」
「もうこんな仕事はやめろよ」
同じ年頃の学生が闊歩するランビュトー通りまで来た頃、ウーヴェは強張った口元から声を押し出した。
「殴られたり、警察へ捕まりそうになったり。馬鹿げてる。まともじゃない」
「この界隈でまともな人間を求める方が間違ってるよ」
「そんな風に言うべきじゃない」
「あのさ、君が心配してくれるのは分かってるんだ。それはすごく有り難いと思う」
引き戻す腕の力が思ったよりも強いことに驚いたのか、ウーヴェは足を止める。この手の色味が薄い虹彩の持ち主には珍しく、彼の目元は酷く表情が豊かだった。苦痛と憤慨が混ざり合った発露である眦の皺は、相手の心にも同じ感情を刻み込もうとする。
「でも、僕は自分の意志でやってる。こうやって金を稼ぐって言うのをね」
「君ならもっと、方法があるだろう」
「そうでもないさ。学のない黒人には……そんな仕事があるなら、先に君みたいな真面目なドイツ人へ回ってると思うよ」
取り返した腕の手首を強く握りしめ、アリは息をついた。ひどく乾いて感じる舌先に、自らが緊張していたのだと、今更ながら意識する。
「だから、もしも僕の友人でいたいと思ってくれるなら、このことについては金輪際口を出さないでくれ」
ウーヴェは間違いなく納得などしていなかった。けれど彼の拙い語彙では、こんな時に投げかけるべき台詞など、到底ひねり出すことは出来ないだろう。もどかしげに薄く開いては、ぐっと噤まれる唇ですら美しかった。これは知性のない美なのかもしれない。けれど、馬鹿と言えば自らも変わらないではないか。
結局彼は、肩を大きく上下させて踵を返した。
「余計なことを言って悪かった」
向けられた背中は巌のような厳しさを持っている。眺めていたら、悪いことをしたな、と思ってしまった。自らの稼ぐ金で飯を食っている男から、偉そうな説教をされたにも関わらず! 本来ならば殴り倒しても文句は言われないだろう。
だが正当な立腹は、遅れてやってきた啓示によって一瞬で掻き消される。隣へと追いついて、いかった肩へ肩をぶつけると、アリは沈痛な横顔を覗き込んだ。
「君、僕と友達になりたいの」
振り向いた彼が虚を突かれたような表情を浮かべていたものだから、こちらが戸惑ってしまう。そもそも、自らがどうしてこんなくだらない質問をしたのかすら、アリにはさっぱり分からなかった。
真面目に答えなくても良かったのに、ウーヴェはしばらくの間、難しい顔で逡巡を繰り広げた。
「そうなのかもしれないな」
酷く歯切れの悪い口調は、重ねられる弁解で更に往生際の悪さを増す。
「でも、俺達がなれるとは思えない」
「尻を掘られそうで怖い?」
「そうじゃない」
乱暴に手を振りながら、逃げるように逸らされた顔はチョコレート屋の飾り窓に向かい、結構長い間留まっている。彼は自らやセブよりも遙かに甘いものが好きな性質らしいというのが、近頃一際励むようになった観察でアリが出した結論だった。
「そうじゃない。でも人間、金が絡むと」
「ああ、そういうこと」
「友情は壊れる」
「君は律儀だなあ」
からっと笑い飛ばせば、ウーヴェは明らかにむっとして唇をねじ曲げる。だからもう一度、アリは意地の悪い笑顔を突きつけてやるのだ。
「セブなんか、まるで自分の財布みたいに人のポケットへ手を突っ込もうとするのに」
「あいつと一緒にしないでくれ」
ぶっきらぼうに言い捨てた彼の隣に並び、ガラスの向こうを覗き込む。店は看板間際で、陳列棚に並べられた丸いパンやチョコレートはもう数も少ない。暖かみのあるクリーム色の壁や最小限に絞られたオレンジ色の照明だけで、口の中は十分甘ったるくなった。
「ここのブリオッシュは有名なんだ。このピンク色のプラリーヌが混ぜ込んである、信じられないくらい甘い……プラリーヌって分かる?」
「もしかしてプラリネのことか」
「ふーん、ドイツではそう言うんだね」
「故郷でもよく食ったな」
立ち去るとき、彼は明らかに後ろ髪を引かれている様子だった。蓋付きのジョッキへ注いだビールばかり飲んでいそうなという民俗的偏見を、本格的に改めるべき時なのだろう。
「買って帰ろうよ、朝食用には……少し厳しいな。これって、どう考えてもお菓子だ」
「別にわざわざ……」
「話してたら、僕も食べたくなってきたよ」
それ以上の制止が掛けられる前に、アリは店へと足を踏み入れていた。幾つおいりようですかと尋ねられ、少し考えてから、結局3つ購入する。
とは言うものの、スキレットほどの大きさもある、この砂糖の塊のようなパンを一人で食べる自信はない。紙袋から一つ取り出して半分ちぎり、更にもう2つへ分けて差し出す。少し躊躇いはするものの、誘惑には勝てなかったらしい。「ありがとう」の言葉が、ひどく真面目腐って響き、おかしかった。
紫色の夕闇に包まれ始めた街でぶらぶらと、甘いパンを齧りながら川へと向かう。まるで小さな子供に戻ったかのようだ。いや、あの頃は買い食いするとなると必然的に母親の財布から小銭をくすねることになり、帰宅するやいなや頬を張り飛ばされたものだった。今自らは、この上ない自由を謳歌している。
彼も同じ風に感じてくれていれば嬉しいのだけれど。こっそりと窺った先で、ウーヴェは無心にパンを口へと運んでいた。ごろごろ練り込まれた木の実が生地からこぼれ落ちないよう、がぶりがぶりと豪毅に齧る姿は、肉食の大型獣を思わせる。ところが今彼が頬張っているものは、舌が溶けそうなプラリュリーヌと来ているのだから。
あと一口か二口を残すばかりになるまで、視線へ気付くことも無かったのだから重症だ。唇にこびりついたパン屑を舌先で舐め、それでも取れなかった分を親指で擦り落としてから、ようやく罰が悪そうに眉尻を下げる。
「今度また何か奢るよ」
「気にしないで。そうだな、これはさっきのお礼」
口の中へ一抹の苦みを感じたかのように顔を顰め、ウーヴェは首を振った。
「ああいうことは、しょっちゅうあるのか」
「普段は奴ら、女の子を取り締まってる方が多いんだけどね。最近はカルチェ・ラタンで黒人学生がよく暴れてるし、それに病気の流行もあるから、二重の意味で災難だよ」
「ひどい話だ。つまり……英語だと、何だ、ああ、デンジャラスって言うのか」
「うん、本当に物騒」
ようやくべとつき始めたパンに食いつくが、まずざっくりした肌理の生地が甘い。そこから逃れようと木の実を噛み砕けば、これも溶けて固められた砂糖で幾重にもくるまれている。コーヒーが欲しくてたまらなかった。
「こんな甘いもの、よく平気で食べられるね」
決まり悪さを覚える暇は与えない。それよりも口元へ突きつけられたパンによってウーヴェは面食らい、微かに身を反らせた。
「これ以上食べたら、夕飯が入らなくなりそうだ。今晩は家で食べよう。この前君が作ってくれた、鶏肉のコートレット が食べたい」
「シュニッツェルのことか」
冷蔵庫の中身を考えて気がそぞろになったのか、熱心なお願いが功を奏したのかもしれない。もう一押ししてやることで、ウーヴェは首を伸ばした。そのまま一口かぶりつかれる。二口目は手を添えることで自ら引き寄せながら。それで残りは半分。伏せられることで濃い睫がふっくらとした涙袋に影を落とし、静謐さを醸し出す。
彼が身を起こすまでに、アリは見惚れ注ぐ視線を無理矢理押し下げた。やっぱりデニム越しでは、ものの大きさがよく分からない。ところで、彼は同じジーンズをもう一週間近く履き続けているのではないだろうか?
「え?」
「コートレットか。全然違う呼び名になるんだな」
「ああ、確かにね。プラリーヌと、プラリナだっけ」
「プラリネ」
「そう。それなら分かりやすいのに」
整った歯形の残るパンを口へ運んだのは無意識だった。舌の上でねっとり溶け崩れる生地を知覚してから後悔する。憎らしいのは、当のウーヴェが居並ぶ飾り窓へ気を取られ、意にも介していないと言うことだった。
「この街は確かに豊かだが、来る前に想像してたよりも、ずっと田舎というのか……上手く言えないが、人と繋がっていたいと望めば、親密に付き合うことが出来そうだ」
「そうでもないよ。誰かと心底心を通わせるのは難しい。特に余所者は」
彼の澄んだ瞳が、自らの横顔へ真っ直ぐに向けられたのを感じる。他人の視線には慣れていたつもりだったのに、柔らかい毛糸で肌を撫でられているような気持ちになった。
「でも、僕はそう言うところが気に入ってる」
「友人はいらない?」
「喉から手が出るほど欲しいとまでは思わないかな。確かに君の言う通り、カフェへ入って隣の席の人間とお喋りするのは難しくない街だから……でも君なら歓迎だよ、料理も上手いし」
「気に入ってくれたようで何よりだよ」
彼が次に足を向けたのは煙草屋だった。面倒臭さを隠しもしない店主の前でまず10フラン硬貨を一枚置き、そこにバラ銭を注意深く、きっちりの額だけ足していく。自ら一本振り出してくわえてから勧めるのに、結構と手を振り、アリは天を仰いだ。
「やっぱりさっきのパンは甘過ぎた」
「意外といけたけどな」
傷だらけのライターを振り閉じる動きすら様になっているのだから、全く手に負えなかった。これ以上彼の顔を見つめたら、本当に妙な気を起こしてしまうかもしれない。
まだ遠慮がちに透けるような輝きを見せているだけの月は、ゆらゆらと立ち上るマルボロの紫煙で今にも掻き消されてしまいそうだった。まさかこの美しいドイツ男の唇へ乗った甘さが移りでもしたのだろうか。刻み葉が焦げる芳香は鼻の奥へ溶けた砂糖よりもこびり付き、なかなか消えてくれなかった。
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