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第4話 ②

 予想に反して、アトラス通りに面したアパルトマンの窓には温かい黄色の光が点っている。出迎えたセブと言えば薬でもやっているのではないかと訝しむ有頂天だった。隣で目つきへ陰気さを増したウーヴェさえいないなら、アリへ飛びついてキスでもしていたかもしれない。 「かましてやったぜ、ざまあみろだ!」  投げつけられた橙色や赤色の紙幣は皺くちゃになったせいで嵩増しされていることを差し引いても、本人の自慢通りかなりの枚数であることは間違いなかった。 「どんなもんだい、これが俺の実力さ。ピエールの奴の苦々しい顔、傑作だったぜ……ほらよ、これでこの前の借りはチャラだ、利子付きで返すからな」 「何だと。お前また金を借りたのか」  詰め寄るウーヴェに、セブは未だへらへらとした態度を崩さない。暖かい懐は心までも寛大にする。 「いいじゃねえか、ちゃんと返したんだから。細かいことは言いっこ無し」 「博打で勝てたのは、たまたま運が良かっただけだろう」 「俺はお前と違って最後のツキは絶対逃さないのさ。何だよ、堅物ぶりやがって。お前なんか」  次の言葉はドイツ語で短く、まるで石を投げつけるかの如く放たれる。アリは意味を理解できなかったが、それはウーヴェを激昂させるのに十分事足りる文言であったようだ。猛然とした突進は地響きを立てそうな勢いだし、胸ぐらを掴む手は今にもTシャツを引き裂きかねなかった。  すんなりとした体格の持ち主ではあるが、セブは喧嘩っ早いし、腕っ節も強い。今も相手が挑発へ乗るや否や、嬉々として迎え撃つ。ウーヴェのシャツを引き寄せると、「本当のことだろ!」と雄叫びを上げ、力任せに額へ頭突きを一発食らわせる。  ウーヴェは束の間よろめいたものの、闘志を挫かれてはいなかった。思わずアリが息を飲んだのは、鳴らされたゴングのせいではない。顔を覆う指の隙間から覗く青色が、爆発しそうに煌めいていたからだ。想像通り、高ぶった彼の瞳はとてつもなく美しかった。  我に返ったのは、セブは萎れかけた菫を刺してある小さな花瓶を、追撃用に取り上げたときだった。 「暴れるなら外に行けよ、物を壊すのはお断り!」 「表へ出ろ!」 「おう、上等じゃねえか!」  吼えるウーヴェにセブも応え、嵐のように部屋を飛び出していく。結局彼は、興奮のあまり花瓶を持ったまま出て行ってしまった。  あの綺麗な白磁は、結構気に入っていたのだ。ミンダが新しいレストランを開店したからと、姉がくれた物だったことを思い出し、せめてもの慰めとする。  あともう一つ後悔するとすれば、この調子だと今夜はコートレットを食べることが難しそうだと言うことくらいだろうか。宵っ張りの生活であるとは言え、健康のため、夜の10時以降は重い食事を摂らないようにしているから。  喧嘩自体には取り立てて思うところもなかった。アリ自身乳母日傘で育てられたわけでは更々ないし、あの二人の争いに的を絞っても、控え目に言ったところで「珍しい話でもない」の次元の話。  勿論、彼自身は暴力へ晒したり、晒されたりする当事者になることを好まない。自分が原因で揉められても、正直言って迷惑なだけだった。  あんな風に煽り立てるセブが悪いのは当然として、ウーヴェも理想的な行動を取ったとは到底言い難い。ついさっき、尻尾を股の間へ挟むようにしながら口にした宣言を、もう忘れてしまったのだろうか。  ウーヴェとの間に適切な距離があるのと同じく、自らとセブもまた、双方同意で関係性を成り立たせている。ウーヴェ本人はアリの怒りを肩代わりしているつもりなのかもしれないが、それは余計なお節介と言うものだった。  でも、そんな無骨なところもまた好ましい。彼が怒っているのを見るのは悪くない。小さな本棚から、ウンベルト・エーコの小説を引っ張り出し、ソファに腰を下ろす。近々映画になるからと客が言っていたのでこの前買ってきたのだが、辛気臭い話だった。ドイツ語の罵り合いと、ゴミ缶でもひっくり返したような甲高く騒がしい音、それらに抗議する近所からの怒号をBGMにしていると――律儀にも、2人は通りまで降りて試合を再開したらしい――薄い現実感が余計に鼻へつく。  小難しい文章の羅列へは、全く集中できなかった。うるさいし、腹は減ったし、それにソファも何だかへたりを増しているような気がする。毎晩用いられているせいかもしれない――今朝ウーヴェがここに寝ていたのだと意識すると、何となくそわそわした。活字に眼を落としながら、さりげない風を装って、座面をそっと撫でてみる。粗い目地と浮いた毛玉が掌に引っかかって、心地よいとは言えなかった。  取っ組み合いはいよいよ佳境に入り、ガンガンと薄い金属のゴミ缶が立てているらしい響きと、この世の物とも思えない悲鳴混じりの喚きが夜の闇を裂く。この声はどちらのものだろう? 恐らくセブだろうと当たりをつける。と言うより、ウーヴェのそんなみっともない姿を見たくないとの願望が強いだけなのだが、自信はなかった。  遂に好奇心へ屈し、窓から覗きに行こうと腰を浮かしかけた時、大量の細かい物が地面を打つ響きが辺りを埋め尽くす。事実あの2人は、水を差されたのだろう。それっきり、声も物音もぴたりと止んだ。  結局アリは立ち上がり、本棚の上から救急箱を取り上げた。怖い顔をしてやろうと固く心に誓うが、入ってきた濡れ鼠達の姿を見るともう駄目だった。  げらげらと腰を折って笑うアリに、セブは鼻血を啜りながら、精一杯の捨て台詞を吐いた。 「俺、お前のそう言う、いつでも高みの見物してるみたいなツラと態度、死ぬほど嫌いだよ」 「だって、自業自得じゃないか……ああおかしい、君達、野良猫と同じ扱いされたんだぜ」  反省している様子は全く見られなかったので、手当の際に加減はしないし、絆創膏も適当に貼り付ける。負けず劣らず憮然とした面持ちのウーヴェも捕まえ、擦り剥けた拳の関節にオキシフルの脱脂綿をぐりぐりと押しつけた。 「僕はいい加減腹が減ったよ。君はどう?」 「何か作る」 「そうして。セブはワインをお願い。ウーヴェのでも良いんだけど、あの白、軽過ぎて鶏肉には合わない気がする」  セブはしばらくの間もごもごと口の中で言葉を噛んでいたが、やがてくるりと身を翻し、玄関へと向かった。 「せっかく儲けたんだから、奮発してくれよ」  返事はばたんと乱暴に閉められた扉が代弁する。  体中の痣を庇う慎重な動作で、ウーヴェは肌に張り付いたシャツを脱ぎ捨てる。広い肩や背中、がっしりした骨組みに意識が向くが、彼もまたセブ同様、贅肉とは縁遠い。腕を上げた際に、胴から脇腹へ掛けて鱗のような筋肉が浮き上がる。よく日に焼けた顔や腕と違い、彼本来の肌は案外白い。臍から少し左に逸れた場所へ付けられた傷が、酷く目立つ。  盲腸の術創などでないことは一目瞭然だった。まだ生々しい桃色を保つその跡は10センチほどで、永遠に消えることなどないのだろう。縫合はジグザグで、ふっくら膨らむ合わせ目に突き破られそうだった。  まじまじと見つめる視線に気付き、ウーヴェは気まずげに目を瞬かせた。 「刑務所でいざこざがあったんだ、馬鹿をやったものさ」  新しいシャツで覆い隠した時、けれどその眼差しにはもう、弱々しさなど欠片も見受けられなかった。 「もうあそこには戻らない、二度と、絶対に。そんなことになるくらいなら、いっそお巡りと撃ち合いをして死んでやる」  馬鹿げたことを言うのはやめてくれよ。そう訴えようとした口を、結局アリは噤んだ。自らが彼の介入を拒んでおきながら、その逆を行おうなんて、どう考えても虫が良すぎることはさすがに分かる。  先ほどの大立ち回りにしたって、もし警察に通報されていたらと、今になってぞっとした。彼らがいなくなってしまうなんて、想像もしたくない。  これが適切な距離であるかどうか、深く考えることをアリは放棄した。贅沢な夜食を戒める理性と同じく、それはじっくり深い油の臭いで、簡単に打ち捨てられる程度の存在だった。

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