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第5話 ①

 だから早々に修理しておくべきだったのだ。傷だらけの車で高級住宅地になんか行きたくない、でも今の時期は整備工場なんか軒並み閉まっている。  アリが散々嘆いて見せたのがお呼ばれの3日前で、根負けしたセブが紙やすりやらパテやら塗料やらを購入してきたのが2日前。アリが5人の男の汗を身体へ浴びているに、一晩掛けて仕上げてくれた。樹脂製なんてと腐していた割には上々の出来映え。かつて彼はほんの短い期間だが、天下のダイムラーで働いていたことがあるのだという。 「これなら最初から君に頼めば良かった」 「もう二度とやらねえ。次にぶつけたら新車を買うぞ」  パリの中心地から40分程走るだけで、暴動や殴り合いは消える。この街では麻薬中毒患者すらも絹のパジャマにくるまっている。  メゾン=ラフィットにあるマニュ・ミンダの別宅へ招かれたとき、最初は無論断るつもりだった。けれどクロードは、電話口の相手が難色を示す前にさらりと言ってのける。「あなたはあくまでおまけよ。マニュが会いたがってるのは、ドイツのお友達」  では尚のこと拒絶すべきだ。ミンダは生きのいい若者を好み、大勢を周囲に侍らせていると言う。彼が求めているのは閨の奉仕ではない。忠誠心。貪欲さ。自らが指一本を動かすだけで駆け出し、標的の頭を拳銃で吹き飛ばしてくる向こう見ず具合。  アリが懇々と説いて聞かせたにも関わらずセブはすっかり舞い上がり、喜んで馳せ参じますなどと遜る。挙げ句の果て、「だってよ」と子供のように尖らせた唇をアリの耳の裏に押し当てながら、昨晩ベッドの中で言ってのけたものだった。「お前だってかっこいい車は欲しいだろ」  サン=ジェルマン=アン=レーの森から程近いその邸宅が、先祖代々ミンダ家の持ち物であったとは思えない。フェンスの向こうでオレンジ色の屋根と白い羽目板の壁は落ち着き払って経年を誇っている。しょんぼりした葉の棕櫚、生い繁るままにされたカエデやトチも、買い取られたときからあまり積極的な手入れを施されていないのだろう。確かに古びた物は価値があるし、広がる緑の葉は私生活を覆い隠すのに一役買っているに違いないが。  周辺の通りへ停められた車が、自らの物と似たり寄ったりであることに、アリは心底安堵した。「若い人たちの慰労なの、肩肘張らずに来てね」とのクロードの言も嘘ではなかったらしい。  昼過ぎの時間帯で、既に敷地内は盛況だった。広々とした庭には若衆だけではなく、青い胸や尻の女の子も多い。そして連中を束ねているのだろう中年の男女も――その群の中をハチドリの如く飛び回っていたクロードは、3人の姿を見つけるとにこやかに歩み寄ってきた。 「来てくれたのね。マニュは今、書斎で応対中なんだけど、降りてきたらすぐに紹介するわ」 「盛況だな」  そぞろに挨拶するセブは、きょろきょろと辺りを見回すのを止めようとしない。彼を誘惑するのだろうものは山とある。レコードから流れてくるニュー・オーダーの新曲、コンロの上の磯臭いムール貝、通りすがりざま秋波を投げかけてくるホットパンツにビキニのトップだけを身につけた女の子。 「さすがに天下のミンダ氏」  一刻も早く中へ混じりたいと言わんばかりに、すり減ったコンバースの中で、爪先がもぞもぞと蠢いている。  一方のウーヴェは堅苦しい態度を崩せないようだった。そこそこ良いシャルドネを差し出しざま、「お招き頂きどうも」と精一杯の愛想を発揮する。 「まあ、ありがとう。クーニッツさんでしょう、弟へとても親切にしてくださってるって聞いてる」 「アリはとても良い心根の人物ですよ」  彼が首を竦めたのは、信じられないものを見るようなアリの目つきに耐えられなかったからだろう。一方のクロードは、口元へ柔らかな微笑を湛えるだけだった。 「そうだといいんだけど。この子、糸の切れた凧みたいに流されやすくて……あら、ちょっと、マニュったら」  一昔前に流行った、光沢のある緑色の旗袍風ドレスは彼女の小さな膝骨を隠したり隠さなかったり。15センチのハイヒールを履いて、芝生をちょこちょこ早足に踏みしめる姿は、纏足を施された女のように見える。身が翻された時、その後ろ姿が腰まで大きく開いているのに初めて気づいた。真っ直ぐな背骨と、染み一つない滑らかな肌の放つ磁力へ引き寄せられたかの如くセブは付き従うし、やがてはウーヴェも。  ゴリラを思わせる厳つい体躯の持ち主なのに、その気になればミンダは簡単に自分の気配を消し、辺りを歩き回ることができるらしかった。今もクリスタルのグラス片手に、ニキビ跡すら消えないガキへ何かと声をかけている。こっくりこっくりと頷くたび、鬘みたいに丈夫な茶色の髪でもごまかせない頭頂部が、真夏の光でてかっていた。  自分は程々に時代へ適応していると思い込んでいる古い人間の典型だが、少なくとも女の好みだけは先駆的だった。奥まって感情のない目は、いつもクロードを目にすると僅かに見開かれる。晴れやかな彼女の声は、喧噪の合間を縫ってこちらにまで届いた。 「マニュ、この子達が前に言ってた……」  ミンダが本当に、胡散臭い訛りの若者達へ会いたいと望んだのか、この期に及んで疑問を覚える。だが少なくとも、彼は悪い第一印象を覚えたわけではなさそうだった。すぐさま父親めいた仕草でセブの肩を抱く。セブもいい気なもので、あたかも学校で貰ってきた賞状を親に見せる子供の顔で胸を張るのだ。 「彼ならきっと、仕事を世話してくれるわ」  こちらへと戻ってきたクロードが呟いた。それで弟が安心すると思っているのだとしたら、浅慮にも程がある。 「どうせまた、どこかの店へ拳銃を持って押し掛けたりするような仕事だろう」 「そんな大仰なものじゃない。もっと細々とした、言っちゃ悪いけど、使い走りよ。集金や、荷物を運んだり……その気になればすぐに足を洗えるわ」  のろのろと一歩後ろへ付いていたウーヴェも、いつの間にか輪の中へ加わっている。あんな愚鈍そうな醜男のミンダだが、本当に若者の心を掌握する術へ長けているようだった。すれ違う水着姿の幼い娼婦達も、にっこり気取りない笑顔で挨拶を返す。 「自分を見失わなければ、すぐにお金も溜まる仕事よ。あなたもいい加減、三人暮らしなんてうんざりでしょう」 「これまでも同居人はいたさ」  短い叩き返しへ、呆れたと言わんばかりに落とされた肩が心底憎らしい。だから彼女が庭用のテーブルに散らばる汚れた皿や、飲み差しのビール瓶の間を手で探っても、わざと無視してやる。 「煙草持ってないわよね」  そう問いかけながら、結局潰れかけたジタンの箱を見つけだす。煙草を摘まみ出す左手の人差し指には、束の間留まって憩うよう羽を広げかけた蝶の、下品なほどに大振りな指輪、またもやエメラルドの象眼。ミンダは愛人の趣味を認めつつ、同時に自分の色へ染めようと攻勢を仕掛ける。 「それともあなた、あの可愛い子に惚れたんじゃ……」 「セブは愉しい奴だよ。ベッドの相手としては上物の部類に入るね」  辛辣な物言いへ反射的に叩きつけたのは、紙巻き煙草の先端に火をつけてやろうと、取り出したライターを近付けることに気を取られていたからだ。揺らめく炎の滴が、どちらの息によるものかは分からない。何にせよ、クロードは媚びるような弟の仕草が気にくわなかったのだろうし、アリも勿論言い足らない。 「姉さんも試してみたら」 「いやね、全く」  浅く呑んだ紫煙をふっと鋭く吐き出すなんて、全く彼女らしくない蓮っ葉な仕草だった。 「どっちとも寝てるの」 「いいや」 「そう。あんまり弄ぶのは止しなさいね。特にあの真面目腐った男前さんは、後が面倒そうよ」 「ドイツじゃもててたんだってさ。それに彼もムショ帰りだしね」 「やっぱり。刑務所に入ってた人間って、半分くらいの確率でああ言う風に陰気で厳しい顔つきになっちゃうのよ。塀の中で、さぞ恐ろしい目に遭って、消耗するんでしょうね」  どうかな、とそれ以上言い募ることはせず、アリはテーブルに乗せられていたクロネンブルグを取り上げた。汗すら蒸発した小瓶の中身は生ぬるく、流し込んだ喉奥へ変に苦く引っかかる。   例えナイフで腹を刺されようとも、失われないものがウーヴェの中にはある。それともあれは、刑務所で身につけた知恵なのだろうか。  彼についてはまだ知らないことばかりだ。例え友達になるにしても、いや、だからこそもっと理解したいと思う。そうでないと、彼についてあることないこと口にする輩へ、まともに反論もできないではないか。 「でも、確かにあの見かけならどこへ行ってもモテるんじゃない。アレも大きそうだし」 「らしいよ。セブが言ってた」 「へえ、俺の噂か」  人混みを掻き分け戻ってきたセブが手にする紙皿には、もう大きな海老とハマグリが山盛りにされている。浮かれた言動は、ひっきりなしに傾けているビールを原因としている訳ではないのだろう。 「大した男だな。あのおっさん」 「やる気のある若者には親身になってくれるわ、上手く行った?」 「ああ、近々仕事を頼みたいって」  それは良かった、とまた笑みを口元に貼り付け、新たな接待へと向かうクロードの後ろ姿を、見えなくなるまでセブの目は追っている。組んだアリの肩へ、冷たく濡れた指を意味ありげな仕草で這わせながら。 「彼女とお前、本当にそっくりだよな。さすが双子だ」 「なら余計な回り道をせず、彼女に求愛してみたら?」  気軽な調子でそう揶揄したつもりだった。なのにセブはまるで頬を引っぱたかれでもしたかのように目をぱちくりさせる。 「なんだい、変な顔するね」 「いや、お前も可愛いこと言うもんだなあって」 「よせよ」  ふりほどかれそうになった腕へ益々力を込め、セブはアリのこめかみにぐりぐりと鼻面を押し当てた。 「お前とやってるとき、彼女のことなんか考えてねえよ。そんなことするわけないだろ……」 「分かったってば。君、酔ってるだろう」  顔を押し退けようと試みながら、アリは群衆の中へ視線を走らせた。まだミンダへ捕まっているのかと思いきや、ウーヴェの綺麗な横顔は、すっかり緊張を解いている。そのきっかけを与えたのは、ようやく高校を出たばかり位の金髪娘だった。適当にあしらっていると言うにしては、ウーヴェは真っ直ぐ彼女へ向き合っているし、彼女の方も男の瞳に吸い寄せられている。 「早速やりやがったな」  同じ方向へ目を向けていたセブは、拗ねた口調で囁く。 「うーん、でも彼女、カリーナに似てる」 「彼の恋人?」 「婚約者。ピアノの先生かなんかになりたがってた。まあ結局、奴がぶち込まれて破談になっちまったけど」  婚約者とはえらく大仰な。けれど確かに、彼みたいな堅物にはぴったりの存在なのかもしれない。ほっそり綺麗な金髪のゲルマン娘の弾くピアノに耳を傾け、競馬新聞を読みながら休日を過ごすトラックの運転手――いくらなんでも意地悪すぎるかもしれないが、脳裏に浮かんだその情景を、アリは滑稽だと感じた。  何か可愛らしい戯れ言でも聞き届けたのか、ウーヴェは眦に皺が寄るほど笑ってみせる。女の子を相手にするとき、あんな表情を浮かべるのか。新鮮さと興味深さはむしろ肯定的な感情に基付く。少なくともそう思い込むことは出来る。 「賭けてもいいぜ、あいつな」 「乗らないよ」  勝つ見込みのない事象に金を積むなんてまっぴらごめんだった。  すげない切り返しはいくらでもつつくことが出来ただろうに、セブは口を噤んだ。気付けば紙皿の中身は空になり、ビールも飲み干される。もう一度、アリのポロシャツ越しに鎖骨を指で撫で、ホップ臭い息が吐き付けられた。アルコールと炎天下と、そして紛れもない欲情によって、彼は水でも被ったように汗ばんでいる。 「どこか空いてる部屋ないのかよ」 「腹が膨れたら今度は違うものか」  あくまでうんざりとした態度を保ちながら、アリは首元へ重くまとわりつく腕を外した。自らも腰の辺りが落ち着かなくなっているのだと、相手に悟られるのはどうしても癪だった。  最後に振り返ったとき、ウーヴェの手の中には娘の華奢な指先が滑り込んでいた。ウーヴェも拒絶はしない。あの蒼い瞳は今や魔力を十分に発揮し、女の子は鷲の爪に押さえつけられた小鳥よりも抗う力を失っている。  自らならああはなれない、そんなに可愛げのある性格でもない。男には、ああやって無邪気に心酔してくれ、自尊心を満たしてくれる存在が必要なのだ。  並べた釈明は間違いなく納得の行くものだった。なのにアリは傍らの男の腕へ触れた手へ、真剣みを与えることがなかなか出来なかった。

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