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第6話 ①

 独りぼっちのウーヴェ。彼にこの国で友達が出来た気配は未だない。セブの如くあっという間に土地の水へ馴染んでしまうのも問題だが、それにしたって寂しくはないのだろうかと、ぼんやりと電話台の前に立つ後ろ姿を眺めて思う。  部屋へ入ってきた気配を、ウーヴェは一顧だにしなかった。だからアリが一瞬、舐めるような視線を注いだ事にも気付いていないはずだ。  シャワーを浴びたばかりなのか、彼はシャツを身につけていなかった。胸元をうっすら覆う体毛が背中には全くなくて、すべすべしているから、別人のように見える。固く締まった腰から伸びる頑丈な脚は、手持ち無沙汰にぶらぶら、汚れたスニーカーの爪先が床で拍子を取ったかと思えば、底のゴムがちぎれてしまいそうなほどぐっと曲げられたり。台へ乗せた新聞を強く握りしめているが、そこに意識が向けられることはない。瞳は苛立たしさでくるみ込んだ不安をめい一杯湛え、どこともない虚空を上目で窺っている。  ソファへ腰を下ろし、アリは眠気と決別する最後の大欠伸を漏らした。テレビを付けるのはさすがに可哀想だと思って、昨日セブが買ってきたきりコーヒーテーブルへ投げ出してあった『フランス・フットボール』を広げる。結局マルセイユ・オリンピックはマラドーナを獲得し損ねたらしい。クロードは地団駄を踏んで悔しがるだろう。それとも、あんな手でボールを叩いたりするような卑怯者はいらないとツンケン鼻を突き上げ、負け惜しみを口にするだろうか。  アルゼンチンへの恨みなら、西ドイツ生まれの彼の方がよっぽど蓄えているだろうが――こんな朝方から連絡しなければならない故国の知り合いとは、一体誰なのだろう。母親だろうか? 電話口から聞こえてくる女性の声は枯れた音色で、話している内容は分からずとも、辛辣なものであることは想像するに容易い。  明らかにウーヴェは守勢へ回っていた。口ごもり放たれていたドイツ語が、やがて縋る色を帯びる。新聞の縁をくしゃりと丸め潰し、広い背中を丸めながら吐かれる溜息すら、相手へ憚っているのか遠慮がちだった。  ところで今、彼は「カリーナ」と口走ったのではないか。  結局反撃に出る機会は与えられず、通話は一方的に終わったようだった。沈黙は立てている聞き耳すらに痛い。ぐっと詰めた息を無理矢理吐き出すのに、ウーヴェはかなりの時間を要する。落とされた肩が動き出したのを見て取り、アリは膝上の雑誌へ目を落とした。  ソファの背もたれへ引っかけてあったシャツを頭から被り、ウーヴェは初めてアリの存在を認識したと言わんばかり。気まずい事を表明する、固く噤まれた唇が開くことは結局ない。どすんと隣に尻を落とすと、手にしていたままの新聞を開く。  週に一回か二回のコレクトコールではない国際電話について、とやかく言う気は勿論ない。ただ、このまま彼の横顔から硬直が解けないのは、少し気の毒だと思っただけだ。思い悩む必要はない。ばさばさと音を立てて折り畳まれた紙面で、クロスワードは完成を間近に控えている。こんな平穏な朝に、触れ合いそうで触れ合わないお互いの腕が、いつまでもぎこちなさを持っているなんて、余りに勿体ないではないか。 「溜まってるんだろう。してあげようか、口で」  雑誌のページを捲りそう口にしたとき、酷く喉が引き攣るような感覚を覚える。起き抜けで、胃に物を入れるどころか歯も磨いていないのだ。  続けた「僕、多分彼女よりも上手いと思うよ」は、向き直ったウーヴェが放つ「やめろ」と被る。結果、カウンター攻撃でより酷い痛手を負ったのは、ウーヴェの方だった。取り返しのつかないほど皺の寄った新聞が、テーブルの上へ投げつけられる。 「アリ、勘弁してくれ」 「からかってるんじゃないし、馬鹿にもしてる訳でもない。ただ、君は酷く苦しそうだから」 「平気だ。それに、そんな気分になれない」 「僕じゃ無理? 魅力を感じない?」  雑誌を閉じ、相手と膝を突き合わせる。髭を剃ったばかりらしく、つるりとなったウーヴェの顎は、普段にも増して男らしい輪郭が強調されている。触れたいと、その時アリは明確に思ってしまった。それから、揺れて色味を増した青い瞳へキスを。出来ることならば瞼に触れるだけでなく、眼球そのものを口に入れてしまいたい位だった。  返事が戻ってこないので、願望を実行に移す。仕事では絶対に触れさせない唇を、冷ややかさすら感じる相手の唇へ寄せる。鼻先が掠めそうなるまで顔が近付いた頃、見つめ合っていた目が見開かれる。思い切り肩を掴んだ手は、引き剥がした後も離れていこうとしなかった。痛みよりも、Tシャツ越しに感じる掌の熱が、アリにとっては百倍たちが悪かった。 「君は綺麗だ。魅力的だと思う……違う機会で出会っていたらと思うよ」 「金があったら買ってた? それとも友達になれたか」  自然と唇は歪み、あざ笑うような声が出てしまう。本当のことを言うと、こんな態度を取りたい訳では全くなかった。 「じゃあ、家賃代わりに身体で払うってのはどう。買うのは僕、君は仕方なく話に乗った。それなら君も、良心の呵責を覚えなくていいだろう」  額を押さえ、ウーヴェは歯噛みした。 「君……ああ、くそっ、英語だとデリカシーって言うのか? 酷いもんだな」 「いい言葉を教えてあげるよ。フランス人はこんなとき、C'est la vieなんて言うのさ」  筋が浮き、血の気が引くほど力んだ指を辿るのは露骨な誘惑の仕草だった。期待はしていなかったが、やはり効果は薄い。少し緩んだ指先が、肩の骨の窪みに沈むと、しがみつかれているかのように感じる。もっとこうしていて欲しいのか、振り払いたいのか、アリは自分でも分からなかった。 「僕は泣き虫が嫌いなんだ。昔の女のことを忘れろとは言わないよ。けどいつまでも未練がましく追いかけ回してるなんて、馬鹿らしい」  ああ、どうして彼は今、本気で傷ついた表情を浮かべるのだろう。そんな弱さは断じて認めたくない。彼はもっと、強い男であるべきだ。どっしり構えて、ここぞと言うときは決して動じない、胸に秘めた鋼のような意志を貫き通す、殺し屋みたいにクールな男。  いっそのこと、手酷く侮蔑的に拒絶された方が、どれほどすっきり諦めがついたことだろう。そしてこの期に及んで、アリは自らが手を出されなかったことに、怒りながらも満足しているのだ。  アリが身を捩る前に、ウーヴェは手を開いた。 「君は、誰かを心から愛したことがないんだな」 「身体を売ってる人間だから、純情なんか枯れ果ててるって?」  そういうことを言ってる訳じゃない、と律儀な抗弁が戻ってくる前に、アリは手を振った。 「惚れた腫れたはともかく……クロードのことは、今持ってる何物にも変えられないくらい大事だな。産まれたときからずっと一緒だし」 「彼女はしっかりした人だ」 「そう信じたいけどね。なんでやくざ者になんか……彼女なら、他にいくらでも身を立てられるだろうに」  せっかく身を清めたのに、ウーヴェは洗濯していないシャツへ袖を通した。胸元へ浮いた汗染みは粗野さを強調する。まだ湿り気を残した髪が普段よりも黒ずんでいるのと相まって、どうにも目の毒だった。 「君だってそうさ。あんな男と付き合うべきじゃないよ。チンピラになりたいならともかく、堅気を目指してるんだろう」 「前科者には厳しい世の中さ」 「そりゃそうなんだろうけど……この前、名画座で観ただろう。ジャン・ギャバンが保護監察司でさ、刑務所から出たアラン・ドロンの社会復帰を助けるんだ」  ちょっと考え込んだ後、ウーヴェは静かな口調で返した。 「あれは、最後ドロンが死刑になるんじゃなかったか」 「そうだっけ。途中で寝たから覚えてない」  暗い話は好きではない。裸足の足指で臑をつついてやっても、ウーヴェは逃げなかった。 「朝飯食ったら何か観に行こうよ、仕事は昼からだし。アンドリュー・マッカーシーの映画が掛かってたんじゃないかな」  気に食わなかったらしく、低く唸って考え込んでいる様子は、余計に困らせてやりたくなる。ぱんと張った太腿に踵を投げ出してやったら、さすがに振り落とされるかと思ったが、ウーヴェは好きにさせた。よく動く、長い親指がくるくる回されるのへ気のない一瞥を与えている。 「今週一杯、世間じゃみんな休暇を楽しんでるさ。僕らがのんびりしたって何の罪になるんだい」 「君はのんびりすればいい」  ウーヴェは新聞へ手を伸ばした。 「俺も早く、電話代で頭を痛めなくてもいいようにならないと」 「焦らず焦らず」 「君には感謝してる……金を稼いだ暁には、一番に恩を返したい」  書き込まれる前に先端が舐められた鉛筆は、けれど升目を一文字、二文字埋めただけで動きを止める。 「『実った作物を取り入れること』、収穫(recolte)で合ってるよな」 「r,e,c,o,l,t,e」  宙空に放たれた綴りが正確に写し取られたか視線を投げかければ、まだいくつもの空白が目に付く。時間はあるのだから完成させればいいのに、結局もうしばらく睨みつけられた後、パズルは再び放棄された。 「卵、目玉焼きでいいか」 「オムレツにして、よだれを垂らしてるみたいな半熟のね」  立ち上がりざま漏らされた唸りは不服の表明だ。彼はオムレツも、生っぽい食べものも余り好まない。数ヶ月も一つ屋根の下で暮らせば、それくらいは知ることが出来る。  彼の後ろ姿が台所へ消えてから、打ち捨てられた新聞を拾い上げる。海から襲ってくるスウェーデン人、「海賊」。豆の形をしていて2つある臓器、「腎臓」。以前あった勢いがなくなること、升目の数からして「廃れる」だろう。「燻る」なんて言葉は分かる人間が、さして頭をひねらねばならない設問でもないと思うが、まあ、そこは感覚の問題なのかもしれない。 「なあ、これもう埋めちゃっていいだろ」  返事が戻ってこなかったので鉛筆を取り上げ、ぱっぱと書き込んでしまう。彼は怒らないだろう。証拠に台所からは、温められたバターの良い匂いが、壁に沿って居間へと這ってきた。  辿り足を踏み入れた台所で、ウーヴェは流し台と食卓へ挟まるようにしてフライパンを揺すっている。不意にアリの胸で堰を切ったのは、言いようのない大きな慕わしさだった。怖い夢で目覚めた真夜中、べそを掻きながら名を呼べば、隣で寝ていた姉が毛布の端を捲り上げてくれたような安堵。真剣にこなされる作業を邪魔してはいけない、美味しい卵を食べたいならば。理性の忠告は、簡単に凌駕されてしまう。  らしくもない気後れした歩みで背後に立ったとき、ウーヴェはいとも呑気な口調で「コーヒーを沸かしてくれ」などと呼びかける。だがすぐに、アリが纏うものに気付いたのだろう。後頭部へこつりと額を押し付けられても、拒絶しない。次に起こることを、じっと待ってくれる。 「君のことが好きだよ、ウーヴェ」  後ろに組んだ手の中で新聞紙は汗を吸い、くたりと萎れている。どういう抑揚でこの台詞を言えばいいのか、予行演習もしていない。ぶっつけ本番で出した声は、自分でも嫌になるほど弱々しかった。 「別にセックスが目的じゃなくて……まあ、あったら嬉しいかもしれないけど。例えどんな関係であったとしても、君みたいな人間が人生にいたら、僕は嬉しいし、ほっとする」  凝らしていた息を、ウーヴェは可能な限り静かに吐き出した。そこから先の行動を取るのは、彼にとってかなり大きな決断だったに違いない。操っていたフォークを流しに置くと、右手はそろそろと背後へ回る。頭を軽く叩く手つきは、まるで馬でも宥めているかのようだった。色男だとの噂が信じられない不器用さで、思わず声を立てて笑ってしまう。  ぎしぎしと必要以上に床板を軋ませ足音が近付いてきたのは、遠目からも室内の光景が見えていたからかも知れない。寝癖のついた髪を引っ掻き回しながら、セブは入り口に身を凭せかけた。 「俺にも作ってくれよ。固焼きで頼むぜ」 「珍しいね、こんな早く起きてくるなんて」  身を離したアリが棚のカフェオレボウルに手を伸ばすと、セブは欠伸を噛み殺そうとして失敗した声で呟いた。 「そりゃお前のことだろ」

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