11 / 20
第6話 ②
テーブルは2人でも狭苦しく感じるが、3人で囲むとなると、1人は必ず棚へ押し潰されそうになり、冷蔵庫の扉の開閉を阻害する。その役目を被るのは大抵ウーヴェだった。もっともセブを冷蔵庫へ近付けると、中に入っているものを片っ端から取り出して、食卓を豪勢にしてしまう。
注文通り、フォークが沈むのも分からないまで柔らかく仕上がったオムレツを口に運びながら、アリはセブに言った。
「食べ終わったら、映画でも観に行こうと思ってさ。君も来るかい」
「あー、俺達はいい。仕事がある」
ウーヴェが居心地悪げな顔でコーヒーを啜る。へえ、そう、と物分かりよく眉をつり上げる代わりに、アリは角切りにされたトマトをフォークの背で潰した。
「それって、ミンダ氏からの頼まれごと?」
「ああ。でも心配するなって、暴力はなし、30分も掛かりゃしないよ」
重苦しい静寂がバターの匂いへ取って代われば代わるほど、セブは頑なになった。アリがトースターで温め足りなかったせいで、まだぱさついているクロワッサンを噛み千切りながら、ぐるりと食卓を見回してみせる。
「そりゃ最初はシケた仕事かも知れないけど、信頼は毎回の積み重ねで勝ち取るもんだからな……でも、大したことないって言っても、しばらくの飯代位にはならあな。そうだろ、ウーヴェ」
「仕事は道端に転がってないからな」
「そうそう……そんなに心配ならさ、アリ。お前もついて来いよ。車の中で待ってたらいいだろ」
今度こそウーヴェは顔を上げ、本心から咎め立てる目つきを相棒へ向けた。
「彼は関係ない」
「お前、こいつのことお姫様みたいに扱うのも大概にしろよ。元はと言えばこいつの姉貴の顔繋ぎだぜ」
きつい物言いに反し、伏せたアリの目を掬うようにして覗くセブの目は、外へ遊びに行くのを誘う友達が作るものと寸分違わないのだ。
「仕事の後、俺達は直接空港へ行けばいいし、その間にウーヴェがミンダさんの事務所へ金を受け取りに行ける。3人で協力すれば、今夜映画を観る時間だって作れるかもよ」
別にそこまで映画が観たいわけではなかったし、方便すら使わずとも断ることは十分可能だったはずだ。なのに気付けば、パリ北駅近くの路地に停めたルノーの中で溜息をついている。後部座席の窓から見えるものと言えばシャッター一杯に描かれた芸術的なスプレーの落書き、窓を開ければ耳に馴染んだアラビア語だって聞こえてくるだろう。
そんなことは絶対にあり得ないと分かっているにも関わらず、偶然邂逅した故郷の知り合いが窓を叩いて「お前さんこんなところで何してるんだい」と怪訝そうに眉をつり上げる、なんて妄想を拭い去ることが出来ない。
際限のない気分の下落を、上向き修正とまでは言わない。せめて取り消すため、携えたウンベルト・エーコのペーパーバックを開くが、一段落読み進めてはフロントガラスの先に連なるベランダへ山積みになった廃品を見上げ、ページを捲っては怒号が聞こえてこないか耳を澄ます。
愉快な2人組がこの寂れた集合住宅へと消えて、もう15分ほどになるはずだった。運転席の扉を閉める前に、セブは「ヤバそうになったら警笛を鳴らしてくれ」と言った。この通りから目と鼻の先にある警察署の連中が、眉を吊り上げるようなことをしでかすと宣言したようなものだ。
留守番ならウーヴェにでもやらせれば良かったのだ。この辺りで黒人が独り、何の用もなく車でつくねんと待機していると、白人が同じことをしているより遙かに目を付けられやすい。例え過激派の学生と間違われずとも、クラック中毒のチンピラと罵られたり、或いは――安手の男娼扱いされたり。
この辺りで客を引くようになったら終わりだな、と正直に思う。女装して長い付け睫をぱちぱちさせる可愛い男の子達が、トウが立ち過ぎたり病気や薬やアルコールでぼろぼろになったりした暁に、卑劣なヒモの策略で送り込まれるダカールのようなもの。アラブ男は好色な癖に財布の紐が固い。薄利多売はごめんだった、まだそこまで身を落としていない。
18の頃は、25までこんな商売を続けているはずがないと高を括っていた。仕切り台の隅っこで若い子達へ刺々しい視線を送りながら、カモにされないか恐れて声をかけられるのすら恐れているジンフィズ好きの年増達は、自分と全く違う人種なのだと。
自らが切った期限まであと一年と少し。昼過ぎに起きて鏡を見ながら口にする、「まだ全然いけるじゃないか」との呟きが、現実逃避に過ぎないことなら理解している。
23歳の、高校もまともに出ていない男が出来ることは限られていた。かと言って、姉の勧めるまま今更大学へ行くのも馬鹿らしい。学校へ通ってマリファナとシュルレアリスムの違いも分からなくなるなら、図書館で借りてきた本を読みながら、ジョイントを吸っている方がよほど身になりそうだった。
それとも、あの2人を見習って血と硝煙の世界へ飛び込んでみるか――そんな単語を思い浮かべた自分に情けなくなる。映画の観過ぎだ。アラン・ドロンがボルサリーノ帽を目深に被っていたり、スローモーションで機関銃が乱射される類の映画を。
映画と言えば、今膝に乗せている本を原作にした作品はまだ公開していないのだったか。確か予告で観た限り、ショーン・コネリーが主演だったはず。コーラ屋のレーナックにでも尋ねれば良いのだろうが、彼も街の外へ出かけたのか、ここ10日ほど顔を合わせていない。
日焼けして帰ってきた彼に、また蘊蓄を聞かされるかと思うと、心底うんざりする。ジェームズ・ボンドとかけ離れたメソメソ男。男らしい男なんてものは、このご時世に絶滅危惧種だ。
建物の中で何が行われているかは分からない。だが、ウーヴェがワルサーで人を撃ってくれたらいいのに、とふと思う。或いはセブがナイフを片手に、ドスの利いた声で誰かを怯えさせていてくれたら。
これが非暴力を信条とする己が羽ばたかせるオブセッションなのか。風見鶏よりも向きを変える情動に、いい加減疲れてきた。まともに本すら読めやしない。ペーパーバックはまだ四分の一も読了していないが、既に表紙の角が剥離していた。
休暇にも行けない近隣のガキどもが騒いでいるのかと思ったが、聞こえてきたがなり声はどう考えてもドイツ訛りを帯びて聞こえる。
薄暗い階段を駆け下りてきたセブは、運転席へ乗り込んできた時もまだ興奮醒めやらず、早口でまくし立てている。
「驚いた! なあ、おい。やっぱりお前は度胸あるぜ、見直したよ!」
膝の上へ投げ落とされたプーマのスポーツバッグではなく、セブの視線の先の存在に、アリは身を固くした。
ワルサーなどなくても、ウーヴェは十分に力を誇示することが出来る。助手席を掴む拳は既に黒く腫れ上がっていた。安く頑丈なチタンの腕時計に飛んでいる暗褐色の染み。そして何よりも、色濃さを増した地球の本質のように青い瞳が、彼の全身を流れるアドレナリンの量を示す。
「お前も見に来たら良かったんだよ、アリ。こいつったら、部屋へ入るなりあのふてぶてしいリビア人かチュニジア人か何かの胸ぐらを掴んでさ。ゴネる暇も与えずに」
「いいからさっさと出せ!」
殆ど怒鳴りつける勢いでウーヴェは命じた。
アクセルが深く踏み込まれるのへ比例して、セブの高揚も高まる。
「あいつら、信じられないくらい貯め込んでやがった! ふてえ野郎どもだ、そりゃ上から目も付けられるってもんさ」
数センチ解けたファスナーから覗く、ハンサムなドラクロワの流し目と視線がかち合った時は、総毛立つ思いがした。
「で、いくら入ってる」
「とんでもない額だよ」
尋ねられる前に、アリは乱雑に突っ込まれていた100フランや200フランを掴み出していた。
「信じられない……詳しくは分からないけど、40万? いや、50万は入ってるかも……」
「くそっ、あのおっさんもボロい儲けだぜ」
セブが歯噛みしながら、顎を埋めたポロシャツの襟へ火のような息を吹きかけるようにして唸った。
「その鞄と引き替えに3千フランだもんな。この中から1束渡して貰った方が、よっぽど割のいい話だろ」
「これだけあったら何でも出来るだろうね」
生まれてこの方拝んだことのない量の紙幣は、握りしめられた手の中であっけなく皺を作る。からからに乾いた喉から辛うじて絞り出した声は、鈍い唸りを上げるエンジンへ執拗に絡みついた。
「どこへだって行けるよ……自由への切符だ」
それはあくまで例え比喩として、冗談として、自嘲として口にしたつもりだった。なのにバックミラー越しに合ったセブの瞳は、思いがけないと言わんばかりの色に染まっているのだ。その眼差しは直截的で、大真面目で、自信ありげだった。
冗談だよ、なに本気になってるんだいと笑い飛ばしかけた頬が固まってしまったのを、アリはどうすることも出来なかった。膝の上の紙の束が、ずっしりと重みを増す。
今から彼らは空港へ行く。それは全くおかしなことではない。13時からド・ゴール空港で日本人と会う。出っ歯で糸を使い縫いつけたような吊り目を眼鏡の奥から覗かせる、上着のポケットにいつもウイスキーの小瓶を忍ばせているチビの男。ノートル=ダム聖堂、ルーヴルの良いとこ取り、クレイジー・ホースのリベンジを済ませた後は三つ星ホテルへ。エッフェル塔詣でが無いだけましと言うべきだろうか。
退屈で時間を浪費するくらいならば、出迎えるのではなく、飛び出す側になって何が悪いと言うのだろう。「ここから逃がしてください」と涙ながらに訴えずとも、自らには立派な脚が二本生えている。泣き言を漏らさず、堂々と胸を張って出て行けばいい。
「馬鹿なことを言うな。殺されるぞ」
この場において一番まともな意見は、ひどく憎々しげな抑揚で響く。ウーヴェの態度も未だ沈静には程遠い。助手席のヘッドレストを殴りつけながらの怒声は、弱々しい空調の風量を押し退け、空気を燃え上がらせる勢いだった。
「やくざの金を盗むなんて。それに、これは試験だ。俺達がきっちりと仕事をこなすか……これに合格したらきっと、もっと大きな仕事を任せられる」
「分かってら、ムキになるんじゃねえや!」
セブが癇癪混じりに怒鳴り返すのは、ばつの悪さを感じているからだろう。その点、沈黙に逃げ込むことの出来るアリは幸せだと言えた。
「東駅で降ろすから、ミンダさんのところに行っちまえ。馬鹿正直に持ってったら、さぞ喜ぶだろうよ」
「お前が何をしようと勝手だが、アリを巻き込むな」
ちらと投げかけられる視線へ、アリは卑屈さを曲解した。こんな時に僕の名前を盾に使わないでくれ。そう詰る代わりに、紙幣を再び鞄の中へ戻す。一枚二枚ポケットへ入れたい誘惑に駆られたが、結局そのままジッパーを閉じた自らも、ウーヴェに劣らず律儀だ。泣きたくなってくる。
宣言通り下ろした駅前の雑踏で、スポーツバッグを抱えた彼の姿は緊張した面持ちと相まり、夢破れて路頭に迷うおのぼりさんじみて見えた。
そこから先は予定通り。観光地巡り、夜遊び、平凡な性交。ムッシュ・ヤマモトは早漏で、ことの後すぐシャワーの下へ立ち股間を一生懸命に擦るが、帰国したらセイコーの腕時計を送ってくれるという。心遣いは間違いなく嬉しかったのに、あまり気のない態度を取ってしまって申し訳ないと思う。その感情も結局は、ベッドの中で金を数えている間に霧消する。半日を費やし、汗水垂らして稼いだ金は、さっきこの手で無造作に鷲掴んだ分の足下にも及ばない。
帰りの車中で金を渡されたセブも、似たり寄ったりのことを考えていたのだろう。近頃また掛かってくるようになった督促の電話を止めることが出来るのに、対向車の前照灯に浮かび上がる表情は全く冴えない。
「ウーヴェは家に帰ってるかな」
ぼんやりした口調で放たれるアリの問いかけへ、セブは自分がセックスしてきたかの如く気だるげに鼻を鳴らす。
「奴に他へ行くあてなんざありゃしねえもの」
仁義を貫き依頼を完遂すること、度胸を見せつけて何もかも捨て去り独り姿を消すこと。どちらが男らしいと言えるのか、アリには分からない。ただ、ヴィレット通りから家へと続く路地へ入ったとき、アパルトマンの窓に明かりがついているのを見上げたとき、途轍もなくほっとしたことは確かだった。
もしも部屋が暗いままだとしたら、それはウーヴェが自ら浮浪者へ身をやつしたことを意味する。彼をそんな状態へ追いやるなんて許せない。例え見飽きたジョコンダへ欠伸を連発し、出っ歯に唇を切られてでも、その手へ掴んでおくことに意味がある男だ。
そう、一度は確かに掴んだと思った。なのにどうして、浮腫んだような掌は今、空っぽなのだろう。
ともだちにシェアしよう!