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第7話 ①

 進退窮まった瘋癲から、今日を死に物狂いで生き延びる使い走りへ。アリが過去も未来もないような生活を送っている間に、二人は着々とミンダの仕事をこなしているようだった。ウーヴェはアリの仕事へ付き添えなくなることが増えたし、セブに至っては「たまには仕事休んでゆっくりしろよ」などと泣かせる台詞を言ってくれる始末。  お言葉に甘えて静かに過ごす時間を、しかしアリは間違いなく持て余すのだ。今になって、自らの交友関係の狭さをここまで実感させられるとは思いも寄らなかった。お喋りの相手と言えば『ル・グライユール』の雀達。素面かつ金銭の授受が為されない状態を保ちながら、夜を共に過ごす誰かを見つけるのは一苦労だった。  ならば1人でいればいい、人間、考える時間が必要だ。ようやく腹を括った矢先に、決意はあっけなく破られる。帰宅したセブは肩越しに本のページを覗き込み、憎たらしく鼻に皺を寄せた。 「そこ、昨日も読んでなかったか」 「うるさいな」  さっき彼と共に帰ってきたウーヴェは、居間をすうっと横切って風呂場に籠もったきり、20分も出てこなかった。意地悪をしてクロスワードを完成させておいたが、気付きもしないだろう。室温に戻されない卵が鍋で煮え立つ熱湯の中、ごつごつと揺れながらヒビを作る。夕飯は軽めにサンドイッチだろうか。  暇になるとムラムラ来て、寂しさ故に誰かの体温が恋しくなる。振り仰ぎざま唇を重ねようとすれば、セブはお上品にも、子供へ与えるようなキスを頬に落としてきた。時には猛烈に興奮し、帰宅しざま手も洗わずがっついてくることもあるのだが、今日は分別のある振りをする日らしい。 「どうだった」 「ああ」  さっき洗ったばかりで、うねりがいつもより強いアリの髪をするりと指先で撫でてから、隣へ腰を下ろす。付けっぱなしにされていたテレビに映る古い白黒映画へなどさほど興味など持っていないくせに、ぼんやりした視線が外れることはない。 「今日もミンダさんは上機嫌だったよ。『ドイツ人は勤勉だな、パリっ子達にも見習って欲しいもんだ』だってさ。お前の姉貴も元気だったぜ」 「ふうん」  アリが少し遅れて「それは良かった」と口にしたのは、間近の肌から汗と共に染み出すアルコールを嗅ぎ取ったからだ。 「ウーヴェも問題なし?」 「本人に聞けよ」 「彼はここのところ、少しピリピリしてる」 「そうか? 今日は何杯か引っかけてるし、気分だって良いんじゃねえの」  飛んだり跳ねたりレイピアを振り回したりしているジャン・マレーへぼんやり見とれながら、セブは言った。 「て言うかさ。昔はあいつ、すごい楽天的で、滅茶苦茶ちゃらちゃらしてたんだぜ。ムショでの生活がよっぽど堪えたんだろうな」 「もう二度と戻りたくないって言ってた」 「そんなの誰だってそうだろ。俺だって、お前だって」 「僕を一緒にしないでくれ。一晩以上警察に拘束されたことなんかないし、少なくともこの区では前科もない」 「物は言い様だな……でもよ、そりゃ精一杯足掻いて、そんな事態は避けなきゃならないだろうけど、どうしようもないときってあるだろ。名誉ある撤退って奴が必要な時は」  薄い風呂場のガラス扉越しに、迸る水道の音が聞こえてくる。シャワーでも浴びているのかと思ったが、どうやら洗面所を使っているだけらしい。 「あいつがいい奴で、いざとなったら途轍もなく大胆になれることは認める……でも、ちょっとビビり過ぎだよな」 「ナイフで刺されたんだ、当然だよ」  毅然とした物言い、曖昧に竦められる肩でいなされる。 「おまえ、あいつのこと白馬の王子様か何かと思ってるのと違うか」  まるで計っていたかのように蛇口が捻られ、ガラス扉が開く。アリが気を惹かれたのは、水滴の残った掌をデニムの尻で拭う子供っぽい仕草だったのだが、何かを勘違いしたらしいウーヴェは露骨に顔を顰めてみせた。 「今日は郷土料理って気分じゃねえよ。外で食おうぜ」 「いいね。ヴィクトル・ユゴー通りの『オットマン』で海老と、キャビアを塗ったじゃがいもが食べたい」 「あの凱旋門の真ん前の? ぞっとしねえな」 「良いんじゃないか」  コンロの火を止めながら、ウーヴェが溜息混じりに最後の一票を入れる。 「眺める分には、凱旋門も悪くない」 「何が眺める分には、だ。お前、あそこに行ったことあるのかよ」  なんて偉そうな口を叩くセブも、「観光業」のお供でアリと共に登ったのが初めてだったらしく、客そっちのけで双眼鏡を覗いてはしゃいでいたと記憶している。 「いや、ウーヴェが正しいよ。あんなとこで喜ぶのは田舎っぺくらいさ。まだエッフェル塔のほうが景色もよく見えるし」  そう口にしてから、アリはウーヴェが浮かべる渋面の意味にようやく気がついた。ジーンズの尻ポケットに両手を突っ込み、さも体裁の悪そうな顔で顎を引く姿を見て、同情しない人間がいるのだろうか。  ということで地下鉄に乗り込み、エトワール広場まで一っ飛び。日はとうに暮れたにも関わらず、地下道すらバックパックを背負ったり観光案内所を手にした外国人でごった返していたのだ。地上に出ればそこに見えるのは長蛇の列、最後尾についたとうんざりしている側からどんどんと後ろに人が並ぶ。途中で買ったクロワッサンをスコッチの1パイント瓶で流し込み、セブが呻きを発した。 「アメリカ人のオバハンって何でみんなあんなデカいヘアピース付けてんだ? あれで景色が見えなくなったらどうしてくれる……」 「エッフェル塔は行ったことある? ヴェルサイユ宮殿は? ルーヴルは?」  隣に並んだウーヴェへ、アリはこそっと尋ねた。羅列される観光名所の名前一つ一つへ、首は律儀に振られる。 「いや……ルーヴルは行った。でも、芸術はあまりよく分からない」 「深く考えなくてもいいと思うよ。最近モネやルノアールを買い占めてる日本の金持ち達も、多分分かってないと思うし」 「考えるな、感じろってブリディ(黄色い吊り目野郎)が言ってたんじゃなかったっけか」  瓶を差し出しながら、セブはわざとらしく怖気を震って見せた。 「それにしてもよ、お前がここに来たがらなかった本当の理由って、あれだろ。高いところが怖いんだろ」 「怖くない」 「嘘付け、この国へ来る飛行機でも真っ青になってた癖に……それともあれは、初めて乗ったからか」 「食い物が当たったんだ」  安いウイスキーを煽って、ウーヴェは憮然も露わに返した。 「空港で食ったメット(豚のたたき)が悪かった」 「故郷最後の飯で腹壊すとか最悪だな」  前で順番待ちしている女の子4人組は外国人らしい。セブが微笑むと、困ったような、照れたようなくすくす笑いと共に、お互い目配せし合う。 「ここ一番って時にヘタこきやがって……あーあー、知ってたよ。お前はそう言う奴だってさ」 「俺はお前と違って、すぐに逃げ出さない」 「文句言うなら酒返せ、1人で飲みやがって」  本当のことを言うと、瓶の中身は半分がウーヴェの腹に収まり、三分はアリの胃へ流し落とされ、残りがセブの喉へ。日が落ちれば半袖だと肌寒さすら感じる気候なのに、アリは自らのTシャツの背中へ斑に汗が浮いているのを見ずとも知ることができた。 「ウーヴェ、君ったら目が真っ赤だよ。もしかして酔ってるの」 「酔ってない」 「嘘付け、ミンダさんの家でも、むっつりした顔でずーっとブランデーの瓶の首っ玉へかじりついてた癖に……昔からお前はそうさ、すぐ泣いた赤ん坊みたいな目になっちまうんだ」 「これから284段の階段を上るんだぜ。途中でばてないでくれよ」  入場口までを遮るのはあと何人だろう。軽く爪先立ち前方を窺った時に目が合ったのは、相手が先ほどからずっと、こちらを窺っていたからに他ならない。  一瞬、女の子かと見紛ったのは、ほっそり華奢な体格と身につけた服装が暗がりの中で中性さに一層の拍車を掛けたからだ。ぴったりしたデニムに蛍光色のシャツ、きらきら輝く金髪はこれまた派手なスイングトップの肩口に触れるかという程度だし、間違いなく薄い化粧も施している。  『ル・グライユール』でいつも踊っている坊やは、恐らく悪意など微塵も持ち合わせず、にっこりと笑みを浮かべた。腕を絡めた男へ耳打ちする時、その両手に入ってしまいそうな顔は益々愛らしさを増す。  肘で小突かれ怪訝な表情のセブに、アリは唇を悪辣にねじ曲げてみせた。 「見てみろよ、あそこにいる金髪」 「え……あのシンディ・ローパー似の?」 「あいつは男。一緒にいるおっさん、ミラノのワトビルだ」  しばらく考えていた後、あー、と間延びした声が、ざわめきに加わる。「お前を鞭で引っぱたいた野郎か。ぶん殴ってきてやろうぜ」 「そこまでしなくてもいいけど……可哀想に。あの子しばらく、踊れなくなるな」  同情的なのは口先だけで、本音は「いい気味だ」に他ならない。これが意地悪な考え方だとは思わない。どういう伝なのかは知らないが、とにかく彼は人のお得意様を奪ったのだ。  あんな子がお好みならば、初対面でふてくされても仕方ない、のだろう。納得は行かないが。同じく首を伸ばして、一瞬よろめいたウーヴェの肩がぶつかった時、喉元から薫る燻したような汗の匂いが、余計に心を掻き乱させた。 「あの子供、まだこっちを見てる。君に惚れてるって言ってなかったか」 「そうかもね……本当は影で笑ってたのかも知れないけど」  半袖の腕へ身を押しつけると、アリはテレビの中でベイビーとかシュガーとか言われる存在がやりそうな、甘ったるい仕草で額に張り付いた髪を振り払い、囁いた。 「妬かせてやりたいな。ちょっとの間、彼氏のふりしててよ」  ウーヴェが目を瞬かせるのも当然のことだ。一体何やってるんだと内心自嘲した。虚しさへあっという間に引きずり込まれ、喧噪が一瞬遠ざかる。  一番下まで到達する寸前に、腰を抱き留められ、強く引き寄せられた時は、水の中へいるように、何も聞こえなくなった。  頬に押しつけられた唇は、酔っぱらっていい気分になりながら、傍らの親友へ与えるものだと言われても、辛うじて許容できるかもしれない。それでもアリは触れられた場所へ、まるで炎に嘗められたかのような熱を感じた。  間近で見る瞳孔は青黒く見える。美しい変化だった、いっそ怖くなるほどに。  振り解こうとした腕は頑丈でびくともしない。彼の望む時に解かれ、解放される。 「ウーヴェ」  もっと呆れ果てた声で愚弄してやろうと思ったのに、その名は信じられないくらいぶっきらぼうに響く。頬を燃え立たせているのはアリ1人だけだった。ウーヴェの横目は羞恥を通り越し、いっそ憤然とした色を讃えている。 「恋人のふりをするんだろう」 「そこまでしろとは言ってないよ。酔い過ぎだぞ、君」  金髪坊やはもう入場したのか、もう影も形も見えない。ウーヴェは肩を竦めるだけで、やはり反省しているそぶりもみせない。乱暴に振られる手の動きは、アリを非難しているかのようだった。 「酔ってなんかいない」 「なんだよおい、恋人役ならこんな野暮男より俺だろ!」  ふざけて飛びつきながら肩を組んでくるセブへ「馬鹿、最低、ぶん殴るぞ」なんて、怒りと笑いを混ぜて叫び、押し退けることへ気を取られなければ、取り返しのつかない言葉を吹っ掛けていたかも知れない。

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