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第7話 ②

 少しかさついた感触がまだ残る頬を押さえなかったのは、なけなしと言え自尊心が残っていたからだ。まるで今足をかけている螺旋階段のように、心の中でぐるぐると煩悶は果てしない。  前を行くセブとウーヴェはドイツ語でぺちゃくちゃ。どちらも、少なくともウーヴェは間違いなく普段よりも高揚して、会話も滑らかだった。観光客を連れて行くときは退屈に目眩のしそうな距離が、まるで縮めたかの如く短く感じる。  眼前へ突きつけられる広い背中は、自らの抵抗など堪えもしないことを知った。本気で捕まえられたら、絶対に逃げられない。例えほんの戯れ程度の気持ちで伸ばされた腕であろうとも。  どうしよう、とじりじり炙る焦燥と、それでもいい、と凪いだ安堵が胸の内でせめぎ合う。  牙を抜かれ、慎重になった軽薄男。抱き寄せられた時、アルコールが廻ってすっかり体温の上がった肉体は、あまりにも簡単に情事を想起させた。そして常にひんやりしていると思っていた自らの身体が、案外熱くなる。これは彼に中てられたのではない。自ら燃える、両端に火を灯された蝋燭のように。見る見るうちに溶ける蝋ほども流れ行く自らの心に、アリはただただ困惑するしか出来なかった。  やがて夜風が頬を叩き、青く柔らかな月の光が身を包む。  思ったよりも観光客は少なく、皆ざっと景色を見渡し、写真を撮ったら、さっさと階段を下りていく。吹き上がる市井の喧噪は天上のちっぽけな人間を簡単に飲み込み、さして広くも愉快でもない展望台よりも更に高い場所へと吸い込まれていく。 「『翼よ、あれがパリの灯だ』だっけか」  既に来たことのあるセブがはしゃいで、隣の肩を叩く。 「せっかくこの街にいるんだ、やっぱり一度は来ておくべきさ」  それはウーヴェも同感らしく、眼下の町並みや、まっすぐどこまでも貫いて見えるシャンゼリゼ通りへ、目を細めている。 「なあ観光案内人さん、エッフェル塔も見えたはずよな」 「塔はあっちだよ。サクレ・クールは北側」  放っておくと1人で駆け出して行こうとするセブを、アリは苦笑と共に追った。汗はなかなか引かない。もしかしたら、案外酔っているのは自らなのかも知れない。  後ろを振り返ると、一歩遅れた場所にいたウーヴェと目が合う。 「やっぱり高いところは怖い?」 「いや」  額に浮いた玉の滴を手の甲で拭い、彼は首を振った。 「素晴らしいと思ったんだ。この街にあるものは何もかも」 「さすが花の都」  柵へ額を押しつけながら、セブは残り少なくなったウイスキーの蓋を開ける。 「国と大違いだ。ここなら至る所にチャンスが転がってる……金を貯めてさ。車買って、旅行しようぜ。俺はテキサスに行きたいんだ」 「テキサスってアメリカの? どうしてまた」 「親父が住んでる。それに多分じいさんも。メキシコ一の闘牛士だったんだぜ」 「何にしろ、車じゃアメリカには行けないよ」 「馬鹿だな、船に乗せるんだよ。豪華客船で毎日ルーレット回したり、日光浴したりしながら、のんびり海を渡るのさ」  ぐいと一口飲んでから、酒はまたウーヴェに回される。 「お前は金持ちになったら何するよ、ウーヴェ……アリに借りを返した後の話だぞ」 「家に送るかな」  瓶は真上を向くまで傾けられたが、彼の声はまだ嗄れて聞こえた。 「親父やお袋には迷惑を掛けたし、弟を学校に行かせたい」 「けっ、つまんない奴だな。もっとあるだろ、女とか、服とか」  ウーヴェの悩む時間は長かったから、その間にセブなど欠伸を3度も連発したほどだった。 「ダイムラーでボンネットの中を覗いてたときでも、こんな真面目に人の話聞いてなんかやらなかった」 「靴を買うよ。ナイキのスニーカー」  おもむろな宣言は、信じられないくらい真面目腐って寄越される。続きを待ちかまえる沈黙はウーヴェをたじろがせたらしい。酔いでもたつく舌も相まって、いくらか威勢悪く響く。 「別に今履いているのに穴が開いているとかじゃない。ただ、いい靴が欲しいと思って」  思わずアリとセブは顔を見合わせた。 「お前、面白いな、ウーヴェ」 「靴なんか明日にでも買いに行けばいいのに」 「そういう君はどうするんだ」  そんなことは一言も口にされていないのに、アリはウーヴェのぶすっとした物言いから、「もしも俺達がいなくなったら」という含みを読み取った。だから、思わず黙り込んでしまったのだ。まるで胸を鋭いナイフで一撃されたかのようだ。元から酩酊で動きの鈍かった舌が喉奥へ落ち込み、息すらままならない。 「こいつに金をやったら、高いアパルトマンに引っ越して、流行の服を買って、レストランで豪遊してさ、それから何だ、犬か猫でも飼うか? きっと一瞬で無くなるぜ」 「ああ、それもいいね」  けらけらとそっくり返るセブは、アリが上手く笑えなかったことに気付かなかったようだ。夜の闇に感謝しながら、頬を掻く。 「使い方なら幾らでも思いつくけどさ。本当のことを言えば、このままで十分なんだ」 「何でだよ、金があれば仕事だって……お前、あんなこと止めたい止めたいって、口癖みたいに言ってるじゃんか」 「そりゃそうさ。でも今だって生活できる位は十分に稼いでるし、観光業だって軌道に乗ってる」  よく噛んでから口にされる言葉へ、ウーヴェは真面目に耳を傾けていた。そして一言聞き届けるごとに、顰めっ面はどんどん深まっていくのだ。既に空となった瓶へ何度も唇をつけては、何もないことにへそを曲げているかの如く眦へ皺を寄せる。街の灯に背を向けた闇の中、充血した目はさながら危険なけもののように鋭く光を放っていた。  アリが居たたまれなくなるのは、彼を失望させているからではない。自らの口にする言葉が、全くの本心であると、言葉にする毎ひしひしと実感させられ、身を苛む。 「お前にそんな欲がないなんて、思いも寄らなかった」  幸い深く浸る前に、セブがあっけらかんと総括する。しがみついていた柵からぱっと手を離すと、それまでの心酔が嘘のように、さっさと踵を返した。 「もっとでっかい夢を持てよ。お前なら出来るってのに、何だかしんみりしちまった」  そう言っていた割には帰りも上機嫌のセブと違い、ウーヴェはすっかりしおたれている。上り下りの運動で酔いが回ってしまったらしく、帰宅してすぐにソファへと身を投げ出した。 「随分珍しいものを見ちゃったよ」 「あんなの昔の勢いの半分も調子出てなかったぜ」  そう言い放つセブの口調は、何故か随分と誇らしげだった。昔、昔、と全く馬鹿みたいだ。首を振り、アリは風呂場へ引っ込んだ。  もっと勢いの良いウーヴェとならば、こんな風に肩肘張らず、気楽にセックス出来たのだろうか。ここに来て、彼の思慮深さへ感謝すべきなのかそうなのか、よく分からなくなってきた。どちらにしろ、その特性は良くない環境で過ごした賜物だ。  一体君、そんな人間性が変わってしまうような、どんな目に刑務所で遭ったんだい。  もっと彼を知りたいと思う。友達ならば、辛いことを打ち明けるのも当然なのだから。  こんな時、他者への同情心が薄い自らの性質が、人間としてひどい欠点に思えて、どうにも歯がゆくなる。そしてウーヴェに理解して貰いたいのは、こんな気持ちになるなんて、これまでの人生でそうそう無かったということだ。  居間では2人が何か会話をしているのかと思っていたが、どうやら一方的に言葉をぶつけているのはセブだけらしい。低められてはいるものの早口の話しかけへ、時折鼻に掛かった唸りが被せられる。  歯ブラシをくわえたまま風呂場から顔を突き出せば、想像していた通りセブがちょっかいを出していた。まるで犬をいじめているガキだ。何事か囁かれるたび頭を煩わしげに振りながら、ウーヴェはますます眠りへ潜っていこうとする。  セブは逃がさない。不意に身を屈めると、眼下のくっきりした顎を手で掴む。意外だったのは、ウーヴェが拒絶しなかったことだ。深く重ねられる唇に舌を導き出されても、反対側の手でシャツの裾から掌を突っ込まれ、胸を撫でられても。寧ろ呻きは官能を帯びて、ソファの背もたれに引っかかっていた指先が真上の肩に掛かり、縋るような動きすら作る。  2人も背後を振り返ることはしなかった。へえ、そう、と、こんな時の常で竦めた肩から、けれどアリはなかなか力を抜くことが出来なかった。  硬直はベッドへ横たわっても消えず、上がるマットレスの軋みが全身の筋肉へ固くぶつかる。  見られていたのを知っているのか知らないのか、セブは普段と何一つ変わった様子も見せず、隣に滑り込んできた。こうなると、一人で悩んでいる方が馬鹿らしくなる。くるりと背を向けてから、アリはへたった枕を頭へと当て直した。 「ウーヴェとは寝たことあるの」 「あー、あるある、何回か」  やはりセブはあっけらかんとしたものだった。まるで条件反射のように、アリの身体を後ろから抱き込み、肩口に顔を埋めてほうっと息をつく。 「昔は奴も可愛げがあったんだぜ、本当に」  正直な会話はいっそ傷を残さず済む。だからアリは、相手が寝入るまで、その身体を突き放さないでやることにした――果たして本当に? この温もりに未練を感じずいられるのだろうか。  そもそも生真面目なウーヴェならともかく、この男にそこまでの仁義を要求しようとすることが、随分とおかしな話だ。居候、闘牛士の血を引く不誠実で血気盛んな友人。  軽い鼾はいくらもしないうちに聞こえてきたが、結局アリは、肩に回された腕へ頬を押しつけ、そのまま目を閉じた。

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