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第8話 ①
自分のことを何とかするので精一杯なのに、そんなにメソメソされたら声を掛けざるを得なかった。『ル・グライユール』のトイレはこの手の店にしては比較的清潔だし、泣き過ぎて詰まった鼻はアンモニアや精液の匂いも知覚させない。
ジャノが目頭を押さえながら店の奥へ駆け込んで半時間。わざわざ様子を見に行った訳ではない、飲み過ぎたシードルが膀胱を圧迫していただけ――ここのところ不作だ。夏も終わって財布の紐が固いのか、馴染み客もあまり店へ顔を出さない。
「もうあんなパンク・ロッカーの追っかけするの止めたらいいのに。あいつ、格好付けてバイだとか言ってるけど、どう考えてもノン気じゃないか」
個室が2つだけの狭苦しいトイレで、手洗いの前には彼ら2人、しかも片方は荒い息で嗚咽を堪えているとなれば、既に酸素が薄く感じる。
アリが差し出したペーパータオルを、ジャノはひったくるようにして受け取った。威勢のいい音で鼻をかみ、正面の鏡と改めて向き直ることで、さっさと無様な状況へ気付くがいい。腫れぼったい目は、流された涙の量を物語る。もしかしたら、姿を見せなかったこの数日間、ずっと泣き明かしていたのかも知れない。ひくひくと鳴らされた鼻は赤くかさついていた。
「ノン気が男にしゃぶらせるもんか。ラウルは女の子相手でもアナルでやってるって言うし」
「じゃあもう一押しだね。彼がスピードボールでぶっ飛んでるときにでも迫ってみたら、案外行けるかも」
毎度の話、軽口の裏にささやかとは言え励ましがあると、ジャノだって分かっているはずだ。それなのに病的に血の気の上った眦には、また涙の滴が盛り上がる。
「彼、僕のことを汚いって。最近やたらとにきびだらけで、まるでレモンみたいじゃないかってさ」
アリの第六感がぴんと掻き鳴らされ、引いた血の気が喉元で爆発しそうになる前に、ジャノは伏せていた顔を持ち上げた。滂沱に潤んでいたものの、その瞳は相手を射殺すような色を湛えている。頬に出来た大きな吹き出物へ乗った、血混じりの膿と同じどす黒さ――木の実くらいの大きさがあるそれに、今まで気付かなかったのは何故だろう。
「自分だって風呂へも碌に入ってない癖に、よく言うよ」
「薬中は不潔だものな」
「そうさ、針だってバンドのメンバーと使い回ししてるんだぜ」
掠める手がかりを投げつけておきながら、彼は頑なに顔を逸らし続けた。唇が頑是無い子供の仕草で強く噛まれて赤く充血し、血の気の失せた顔の中で毒々しく膨らんでいる。今にも爆発しそうな色へ、アリは脳を精一杯回転させ、慎重に言葉を選ぶ努力を続けていた。
「でも、肌荒れが酷いのは確かにそうかも……肝臓を傷めてるんじゃないか。顔色も悪いし、一度病院に行ったら」
「大丈夫さ」
「今更注射が怖い年でもないだろう。何なら僕も付き添ってやるよ」
「嫌なんだよ! 肝臓だなんて馬鹿らしい!」
黄ばんだ洗面台を拳で殴りつけ、ジャノは声を張り上げた。
「頭文字がAのアレだって言いたいのか。そんな訳ない、掛かってから10年経ってから症状が出てくる病気だぜ。まだ僕は21年しか生きてない……ラウルは踏ん切りが付かないだけさ。確かに彼は、男と寝た経験がないのかもしれないから」
「分かったよ」
悲観的になる必要はない。実際、この商売をやっていたら、不摂生で少し体調を崩すことなんか日常茶飯事だ。一週間ほどニース辺りで日光浴でもして、毎日たっぷり眠れば、若者の体力は疲労など簡単に癒す。
そう、彼には日焼けが必要だ。壁に貼られた翡翠色のタイルは、凭れかかるジャノの肌を一層青く、艶を失せさせて見せる。こんなにも頬が痩けていただろうか。ふっくらした丸顔の輪郭はいつの間にか切り削いだようになり、大きな目を一層大きく、ぎらついて見せた。
かつて知ったる友達がここにはいない、いなくなる――そう考えて、自らがこの青年を友と認識していたのだと、アリは今更気付いた。ジャノは家の電話番号も知っているし、仕事終わりに連れ立って早い朝食を食べるため河岸の店を訪れたことも数え切れない。店で彼が飲むビールのグラスを横取りしたこともあれば、酔っ払って肩を組みながらモンマルトルを練り歩いたことも。
「病は気からって言うものな」
呆然とした脳は、辛うじて陳腐な慰めの言葉を弾き出す。動揺が作る空回りの中、恐らくは本能が警鐘を鳴らし、大声で叫んだ。「今すぐここを立ち去れ、二度と彼を顔を合わせるな」
普段ならば従う忠告を、アリは力業で捻じ伏せた。魂の友人になろうとまでは言わない。けれど、彼を傷つけることは何が何でもしたくなかった。例え縋り着くような上目遣いが、もはや習い性になってしまった媚びの仕草だとしても、今この場で彼が孤独になる必要はない。
「でも気分が悪いなら、無理しない方がいいぜ」
「もう三日も家でゴロゴロしてたよ」
「誰か遊びに連れてってくれる人と、気晴らしして来たらいいのさ。まだカレーの辺りはいい気候だし」
「最近はそういうおっさん達ともあんまりね。正直、この仕事もそろそろ潮時かもしれないと思ってるんだ」
弱々しげな微笑みで、ジャノは無頓着に言葉を振り回す。アリは黙って腕を組み、洗面台に尻を預けた。
「お前は凄いよ、アリ。何でも涼しい顔でやってのける。最近は観光客相手に上手くやってるんだろ。格好いい子を二人も侍らせてるし……変な意味じゃなくてさ。ただ、みんなが噂してる。レジスの店で待ってる恋人のこと」
「恋人」と言われて思わず頬が赤らんだのは、全く忸怩たる話だった。
「あれはルームメイト。顔が良いのは認めるけどね」
「ただのルームメイトなら、あんなに毎晩付き添ったりしないだろ」
「でも一度も寝てないし」
「嘘だ、あんな素敵なのに。彼インポなのかい」
「あそこにアナコンダを飼ってるよ」
「うわあ、ますます勿体ない」
へにゃりと下がった眉に、ようやく普段の調子が戻ってきたと思ったのも束の間。本来温かい色の瞳は焦点を失い、泥濘の如く底が見えなくなる。
「僕も恋人が欲しかったな。優しくて、自分ではどうしようもないことへ意地悪を言ったりしないようなさ」
「出来るよ。まだ君は若いんだから」
縊られているかのような声になってしまった気がしてならないが、ジャノは自分の感傷をたゆたうのに忙しく、聞き逃したようだった。ふうっと浮上した意識から染み出した彼の微笑みは、ぞっとするほど屈託がない。
「取り越し苦労にしてもさ。さっきお前が、病院に付いていくって言ってくれて、嬉しかったよ」
肩を叩く手を、身を捩って避ける真似こそしない。けれどアリは怖気を抑えることが出来なかった。
いや、これは目の前の青年が得ている何かを厭う訳ではない。アリが願うのは、これ以上ジャノが自らに心を開かず、変な恩情や愛着を抱かないで欲しいということだった。もしも彼が苦しみへ突き落とされたとき、奈落の底から自らのことを友と呼んだら――想像するだけで膝が震える。そのまま足を掴まれ同じ地獄へ引きずり込まれるよりも、遥かに恐ろしく思えてならない。
図らずも親密になった2人の間の空気は、バーに戻って来ざまぶつけられた陽気な声に粉砕される。
「どんだけ長いんだよ、クソでもしてたのか」
セブは居並ぶ雀の間で屈託など一切持たず、もしかするとここの暗黙のルールを知らないのかもしれない。ヴァレリーに手を振り、アリはテーブル席へと引っ立てた。
「珍しいじゃないか、ここに顔を出すなんて」
「仕事の帰り。お前がどんな澄まし顔でマネキンやってるのか見てやろうと思って」
3分1まで減ったビールグラスはまだ一杯目だろうに、いつもに増して威勢がいい。ぐるりと辺りを眺め渡し、汗ばんだ顔に大輪の笑顔を広げる。
「シケた店だけど、お前は白鳥だ。そりゃみんな、奢りたいって思うよ」
「お褒めの言葉どうも」
シードルをちびちび啜りながら仕切台へ目を走らせると、ジャノが腫れたまなこで意味深な目配せを送る。格好いい男その2はその騒がしい態度を差し引いても、十分注目を集めていた。
「お前が引退しちまったら、おっさん達はさぞがっかりするだろうな」
「その時は『マダム・アルチュール』を貸し切ってパーティーでもやろうかな」
「おーおー、いいじゃねえか。盛大にやろうぜ」
テーブルの下でぶつけられる爪先は貧乏揺すりの結果だろうが、まるで誘いかけているようなのだ。今すぐ店を飛び出そう、そしてここではないどこかへ――
「なっ、そうしたら垢を落としにテキサスへ行こうや。国から出たことないんだろ。あっちに何があるのかは分からないけど、きっと面白いって。少なくとも凱旋門へ上るよりはよっぽどさ。仕事だって見つかるかも」
「本気なんだ」
林檎の酸味で喉がちりつくから、アリはその一言を作るのに、かなりの慎重さを要した。なのにセブの頷きは全く事も無げだった。
「クロードとも話してたんだけど、いつまで経っても誰かの使い走りってのもな」
「ああ……全くその通りだよ」
「近々デカいヤマがある。あのおっさんに顎でこき使われるのも、これっきりだ」
思わず身を乗り出したアリへ、セブは素早く手を突き出し「分かってる」と言い募った。
「俺は阿呆じゃない。一発ドカンと当てたら、欲を掻かないで、それを元手に何か始めようかと思う。ウーヴェも同じ意見さ」
「危ない真似はよせよ。あの男は人の命なんか道端の石ころくらいにも思ってない。これまで何人が、奴に唆されて綱渡りをした挙げ句、刑務所送りになったか」
「でもクロードの取りなしだぜ」
「僕と彼女、どっちを信じる」
詰る物言いは、まるで嫉妬しているかのような抑揚に響いてしまう。だからセブは、真面目に捉えない。椅子の背凭れへだらしなく身を預け、ふんぞり返った先から放たれる下目遣いの、何と憎たらしいことだろう。
「心配しなくても、彼女とは何もない」
「だろうね。君はクロードの好みじゃない」
「さあて、どうだか……ともかくさ。もう信じるとか信じないとかの話じゃない。一度腹括ったら、最後までやり遂げないとな」
「馬鹿馬鹿しい」
アリは思わず吐き捨てた。
「意地じゃ食べていけないよ。闘牛士かカウボーイか、何を気取ってるか知らないけど、くだらないね」
席を立って向かったのは、照明の当たらない隅の方のテーブル。肩をいからせブランデーグラスを抱えている壮年の男は初めて見る顔で、1時間程前から店の中をしんねりした目つきで見回している。アリが対面に腰を下ろすと、底が見え隠れするグラスの中身から固い動きで目線を上げる。
「ちょっと避難させて。分からず屋と話をするのはうんざりだ」
中肉中背、額は広め。吊しのスーツは体に合っていないが一応手入れを施している形跡、爪が機械油で汚れていることもない。強張った顔は緊張故だろう、内気な性質のかもしれなかった。何にせよ、ウーヴェと2人掛かりで何とか対処できるだろう――今やすっかり彼を戦力として見込んでいる。今日レジスの店に来ているかどうか、確認してもいないのに。
「連れの子は友達かい」
「まあね。でも靡かないと思うよ。素人堅気だから、一応は」
「それは残念だな」
とんでもないノルマンディー辺りの訛りへ、アリが内心吹き出しそうになっていることなど知りもしないのだろう。完璧な職業的微笑みを真に受けてくれたらしく、男の口調は言葉を重ねるごと滑らかになる。
「彼も君と負けず劣らず魅力的な子だね。2人並んでいると、まるでチョコレートとヴァニラのアイスクリームみたいだ」
「ヴァニラならあっちに山盛りだけど」
相変わらず辛気臭い顔でビールグラスを舐めているジャノへ掲げようとした手は、幸い気付かれる前に引っ込めることができた。彼はあまり加減が良くない。重労働へ巻き込むのは可哀相だ――本人だけではなく、この場にいる全ての人間の為にも。
「うん、貴方の考えてることが段々読めてきた」
「本当に、彼は承知しないかな」
「金額によるかも。いくら出せる」
露骨な提案に、男は間違いなく気後れする。幾分低めた声で500と答えられたのを聞き届け、アリは肩を竦めた。
「ちょっと厳しいかな。近々大金を手に入れる予定があるから、調子に乗ってるんだ」
何て意地の悪い物言いだろう。自分で口にして心底うんざりする。こうやって魅力的な誰かへこれみよがしの横目を投げかけ、陰湿に罵るようなおかまになることこそ、心底恐れていたのだ。
とにかく、文字通り悩みを吸い取ってやれば男なんて生き物、細かいことを気にしなくなるものだ。
「あそこに並んでる子なら、絶対断らないよ。白黒ショーがお好みなら、一人誘って来ようか」
「踊ってる金髪の子は?」
「ああ、可愛いよね」
くそっ、ジョニー・アリディなんか聞きやがって、このご時世に。いかにも持て余し気味に体を揺すっている坊やは、視線に気付くとやはりにっこり。そう、彼はいつでも微笑み返すのだ。率先して口角を持ち上げたことなど一度もない。
自惚れの季節は過ぎ、気付けばそろそろ街路樹の楓が緑を褪せさせている。どちらにせよ、悪い気はしていないのだろう。折半しようと持ちかければ、きっと首を縦に振るに違いない。それに、可愛いと言ったのは嘘ではないのだから。
浮かしかけた腰は、肩を押さえ込む手でまた落ちる。目の前で男が浮かべる驚きの表情の中、口元が嬉しそうに綻んだことで、アリは最悪の事態を理解した。
「悪いけど、こいつはもう看板だ」
「セブ」
「出ようぜ。今日はもういいだろ」
『今日は』という言葉へカッとなり、手を振り払う。気まぐれにはうんざりだった。その度につい期待してしまう自らにも。
「いいから帰れよ。何ならクロードと飲んでくれば」
「酒なら奢ろう。ビールで良いかい」
何でこの男は、よりによって最悪の機会で最悪の提案をしてくるのだ。
「彼のこと、そんなに気に入った? 猿みたいにすぐ勃起するのだけが取り柄なのに」
声の尖りはもはや隠しきれない。最初からこの男は、ヴァニラ・アイスクリームを狙っていたのだ。
安い男娼扱いされたセブには当然、お気の毒様と言うより、ざまあみろという感情が先立つ。普段はあれだけ喜怒哀楽の豊かな瞳から、感情がすっぽり抜け落ちていると気付いたのは、見下ろす眼差しがその場の人間へ満遍なく放射されてからのことだった。
「え、おっさん、こいつのこと気にくわないのか。こんないい男なのによ」
「いいんだ、セブ」
大挙して押し寄せてくる向かっ腹を溜息の下に無理矢理押さえ込み、アリは首を振った。
「誰にだって好みはあるさ」
「うるせえ。若い奴らの生き血を啜る吸血鬼野郎。黙って聞いてたら白黒ショーだとか好き勝手言いやがって」
ぞっとするほど薄い抑揚が、急ピッチで激昂まで跳ね上がる。まずいと思った次の瞬間、男は床へ倒れていた。
「馬鹿にすんのも大概にしろよ」
刺さる周囲からの眼差しはさながら質量を持っているかのようで、ハリネズミにでもなった気分だった。特に仕切台から出てきたヴァレリーの、徹底的に温度のない目つきと言ったらなかった。もう二度とここに足を運ぶことは出来ない。誰か取りなしてくれ、僕がいつもやっているように。
助け船を求めてうろうろと視線を走らせるが、皆知らないふりでお喋りに興じているふりをしたり、空になったグラスをまじまじと見つめたり――ジャノは酔っぱらった振りをしているのか、本当に気分を悪くしているのか分からないが、必死に俯く様子はいっそ哀れを催す程だった。
金髪坊やは独りで踊っている。曲はアリディから『アイ・フィール・フォー・ユー』へ。チャカ・カーンよりオリジナルのプリンスの方がアリは遙かに好きだったが、彼は頓着していないようで、気分が良さげに軽く目を閉じグルーヴに身を委ねている。
近付いてくる雇われバーテンダーが最終宣告を口にする前に、セブへ腕を掴まれ、店から引きずり出されていた。
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