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第8話 ②
「くそったれめ、あんな奴に股開く必要なんかねえよ。お前そんな、自分を安売りしちゃ駄目だ、絶対に」
ぷりぷりと喚き、隣の通りに路駐してあるルノーのワイパーから駐禁切符をむしり取る。
「だってお前は白鳥なんだから」
「黒い白鳥なんていないよ」
「黙れって、アリ!」
車体が揺れるほど乱暴に扉を閉め、今度こそセブはアリに向かって真剣に怒鳴りつけた。
「それ以上言ったらぶん殴るぞ!」
まるで本物のヒモのような言い草だ。そう内心独りごちた時、本来感じるのはもっと暗いものであるはずだった。なのに発作じみた笑いはせり上がり、胸を窒息しそうなまで一杯に満たす。声を上げて助手席で身をそっくり返らせていれば、セブは益々いきり立ち、片手をハンドルから外して振り回し、肩を殴りつけてくる。
「あのなあ! お前たまには本気になれよ!」
「だってあの、さっき伸びてたおっさんの様子ったら……」
椅子が派手にひっくり返り、哀れな助平親父は床でおねんね。実際、彼のことは哀れむべきで、無実とまでは言わないが犠牲者として十分叙勲してやってもいい。あの程度のあしらわれ方は日常茶飯事、寧ろ穏当な方と言えた。性癖だって可愛らしいものだ。
今にも狭い座席から滑り落ちそうな程身を捩らせ、涙をぼろぼろ流していれば、耳に膜が張ったようになる、頭がぼうっとなってくる。だからいつの間に、セブの恫喝が同じような馬鹿笑いへ変わっていたかは分からない。
「くそっ、やってやったぜ。もっと早くにこうすべきだったんだ!」
コシュト広場の横断歩道前で危うく酔っ払いを轢き殺しかけたところ、ブレーキで何とか回避する。ボンネットを一発叩いて怒鳴った男は、未だ狂ったかの如く爆笑を続ける2人の様子を目にして、気味悪そうに顔を逸らし立ち去った。
なげやりに始めたにも関わらず案外質が良かった性交の際感じる、急激なオーガズムへ似た、不随意な全身の筋肉のひくつき。いい加減壊れてしまいそうだった。徐々にだが引き始める波へ引き寄せられるまま、アリはぐったりとシートに身体を沈めた。
「君は本当に馬鹿だよ」
「うるせえ」
まだひくついている喉から、セブは震える声を絞り出した。目尻に滲んだ涙を拭う段になり、流石に理性が戻ってきたのだろう。照れ臭そうに逸らした目で、フロントガラスを睨んでいるふりをする。
「俺はお前を守ってやったんだぞ」
「ああ、本音を言うとさ……君が白馬の王子様に見える」
そう自ら口にしても、噴き出す元気さえ残っていない。停止した思考は簡単に付け入られる。突如デカい顔をし出した静寂は、車内へ充填されるだけではなく、穏やかな調子へ戻った呼吸に連れ、体内へ潜り込んできた。
「あのさ……さっき君のこと、下手くそなんて言ったけど、本心じゃない」
「知ってる」
「君が好きだよ、セブ」
ぎゅっと握り潰されたように息苦しくなる胸へ促されるまま、アリは言った。
「君となら死んでもいい。どこへも行けないなら、いっそこのまま2人で死のう」
「変なこと言うんじゃねえよ」
返すセブの言葉付きは酷くぶっきらぼうだが、まだ興奮の片鱗を残し、場違いに明るかった。
「死ぬくらいなら殺してでも生き延びてやる。大丈夫だって、そんな怖がんなくても」
こちらを振り向き、ふざけて唇を突き出してきたセブよりも、正面を見据えたアリの方が先に気付いた。今度は人間ではなかった。それがせめてもの幸運だ――この車がここまで敏感な操縦安定性を持っていたなんて思いも寄らなかった。
道のど真ん中に蹲っていたのは猫だろうか。急ハンドルにセブが舌をもつれさせながら小さく口にした「まずいまずいまずい」の呟きが、タイヤの不愉快な軋みを押しのけてまで、やたらと頭の中へくっきり刻み込まれる。
縁石を乗り越えて街路のプラタナスへ激突した次の瞬間には意識を失っていた、ほんの短い時間だけ。グローブボックスへ胸をぶつけたせいか、その後跳ね返されて座席のヘッドレストで後頭部をしたたか叩きつけられたせいかは分からない。
何にせよ大したことがないと、アリは危機へ直面したその瞬間ですら理解していた。再び目を開けた時、車はサン・マルタン運河へ飛び込んでいたなんてことはなかったし、炎上もしていない。運転席のセブは呆然と目を見開き、粉々になって何一つ外が見えなくなったフロントガラスを眺めている。
「まずいぜ、こりゃ」
最後にもう一度そう口にしたセブを後目に、アリは助手席の扉を押し開いた。ぶつけた胴体はそこに心臓が生まれたように重いずきずきとした響きを放つが、肋骨が折れたわけではなさそうだ。駆け出しの頃変な客に当たって、ちょっと殴られたときに感じた程度の痛み。
幽鬼じみた地へ足の着いていない歩みで車外に出ると、アリは事故の元凶となったその塊へ向かった。伏せて広げられた黒い革の背表紙。金の箔押しで刑法が云々とか、裏表紙にはパリ第二大学の蔵書票が貼られている。
大学生の癖に本の扱いも知らないのか。憤慨は苦痛を凌駕する、とまでは言わないが、少なくとも振り返った車の状態を改めて確認する気概は湧いて来た。鼻面がひしゃげ、エンジンは煙を噴いている。街灯もない暗がりの中、対岸の集合住宅に居並ぶ明かりを運河の水面が反射して、ちらちらと鬱陶しいことこの上ない。
ようやく脱出してきたセブは、まだ正気を取り戻していないようだった。近付こうと踏み出した足を、アリはよろめかせる。ようやくはっとなって駆け寄ってきたセブに支えられなければ、その場で膝をついていたかもしれない。
腕と腰を抱えられ、力強い肉体へ全面的に体重を預ける。セブはびくともしない。ただ自らの腕の中の身体を、じっと見つめているだけだ。
「大丈夫かよ」
静かな口調は、軽く捻ってしまった踝についての懸念ではない。こめかみを一しずく伝う汗が不快で、口角へ止まったのを良いことに舌先で舐め取る。ひどい鉄錆の味がした。そしておかしなことに、舌で辿った己の唇は、ぞっとするほど晴れやかな弧を描いているのだ。
「大丈夫」とまでは口に出来る。その後に「最高だ」なんて続けることがさすがにまずいと、アリも理解していた。そもそも、自らですら不可解に感じ、説明することも出来ない感情を表すなんて、とてつもなくおかしな話ではないか。
ようやく人が何人か通行人が駆けつけてくる。もう説明も自分の感じ方も、どうだっていい。大仰に申告した負傷を幸い、アリははばかることなくセブに身を凭せ掛け、彼の首へと甘く腕を回した。
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