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第9話 ①

「ひどい顔してる」  昼休みが明け、続き部屋で警報装置を解除しようと大理石のスイッチボードを操作しながら、クロードが指摘する。そんなはずはない、事故は半月前だ。痣も切り傷もほぼ消えている。  コーヒー茶碗を掴んだのと反対側の指を頬へ伸ばすアリに、すぐさま違う違うと首が振られた。 「最近、ちゃんと眠れてる? 何だか顔色が悪いし、急に5歳くらい年を取ったみたい」 「寝てるよ、それは確実」  寧ろ睡眠時間は過剰な程だった。ルノーをスクラップへ出して以来観光業は休業、あんな騒ぎがあった後では『ル・グライユール』へ顔を出すことも矜持が許さない。  まるで宙に放り出されたような気分に陥っているアリへ比して、セブはすっかりならず者ぶりが板に付いた態度。偉そうに鼻を鳴らしながらご高説を垂れる。「もうこの次にお前ができることって言えば、チュイルリーで立ちパンする位しかないだろ。いい子だから家で大人しくしてな」  と言うわけで、ここのところ昼間は寝て、夜になれば帰宅したセブと明け方までセックスするだけの生活を繰り返している。時には午後一番からぶっ通しでまぐわうことすらあった。薄く鈍い頭痛が恒常化し、酷使するアナルはじんと腫れぼったく、ずっと中に何かをくわえているような錯覚に陥る。金を貰って身体を開いていたときの方が、肉体的には余程楽だったように思えてならない。 「もうこの際だし、本気で仕事から足を洗おうと思うんだ」 「良いじゃないの。どこか紹介するわよ、イエナ通りのレストランテでバーテンダーにいい子がいればって話をしてたところでね」 「ミンダ氏から仕事を貰うのは嫌だよ」  昼前に訪ねてきたアリの為に、クロードは全ての従業員を30分早い昼食へと追い出してくれた。彼女の執務室――と認識する度、アリはいつでも吹き出してしまいそうになる――はベッドが無いことを除けば、カレー沿岸辺りにごまんとある、家庭的な雰囲気であったところに無理矢理格式を与えようとして失敗した売春宿の事務所を想起させる。精一杯乾拭きして艶を出した革のソファも、明らかに男性的な書斎セットも、前任者のものがそのまま用いられ続けていた。 「彼じゃない、これは私の裁量。別に沢山いるマニュの甥っ子の誰かに回してもいいのよ」 「でも店を持ってるのはあの男じゃないか」  弛んだ皮膚を思わせるソファの挾間へ益々埋まり、アリは何とか微笑もうとした。が、とてつもなく酷薄な唇の形になってしまったことは否めない。 「なあ、クロード。僕のことを哀れんで、手を差し伸べてやろうとしてくれてる気なんだろう。でも自分だって、売女に変わりないってこと、分かってるのか」 「まあ、随分な物言いね」  ぱちぱちとトグルスイッチを弾いたり、ボタンを押したり、もしかしたら監視カメラを確認しているのだろうか。クロードはことさら忙しそうに振る舞ってみせる。彼女がビデオデッキの配線も出来ない機械音痴であることを差し引いても、その軽やかな物言いから、この話題を流してしまおうとしていることは明白だった。  甘やかしてなどやるものか。今日は意地の悪い気分だ、砂糖もミルクも入れないコーヒーが頭痛を促進し、頭の芯が頑なに縮こまって感じる。 「ファビを捨ててミンダ氏のところに走った」 「彼を待って15年間も泣き暮らしてろって言うの? エミール・ゾラの小説じゃあるまいし」  思いきり傷付けてやりたいとすら思った。自分の半身とも言える存在のことを。なのに戻ってきたクロードは平然とした面持ち、絹のパンツスーツの裾は、夜会服の如く優雅に翻る。 「それに、私はあなたと違って無計画に生きてる訳じゃないの。ここは仮住まい、階段の一段に過ぎない」 「次は誰のところに行くつもりなのさ」 「計画は幾つかあるわ、どれを選ぶか考えてるところ」 「本当かい、怪しいもんだな」 「私、あなたのこと、いつだって気にかけてる」  傍らを通り過ぎざまふわっと漂わせる、嗅いだことのないパルファムの匂いに気を取らせる暇も与えない。重たげな紫檀の机の向こうに腰を下ろし、クロードはすっかり冷たくなったカフェオレを取り上げた。 「たった一人の家族を置いていきたいはずないでしょ。でもあなた、意固地になって今の場所へ留まろうとしてるように見えるわ。どうしてなの、分からない」 「どこにも行く場所なんかないよ。八方塞がりで……才能があるとか、まだ若いとかは言うなよ、もう聞き飽きた、うんざりだ」  さっき買ってきて2人で食べた鰯のサンドイッチが腹に溜まっている。クロードは一切れ口へ運んだきりいらないと言ったので、その分もたいらげてしまったから余計に。仕事を辞めてから、消化器官も衰えたような気がする。脂っこいドイツ料理を心行くまで堪能することができないのは悔しい。 「もう駄目なんだ。正直、22を越えた辺りから、自分が凄く老けたように感じる」 「そんなことない、さっきのは冗談よ」 「もう僕はきっと、堕落しきってるから、陽の当たる場所には戻れない。12歳の時、上の階のウフキル爺さんに、ボンボン3粒と引き替えであそこを触らせてやった時から、僕は生粋の男めかけさ」 「そこまで言うなら、今更どれだけ派手に失敗しても、怖いことなんかありはしないでしょ」  俯いてしまったから、姉がどんな表情を浮かべているかは分からない。ただ、背後の窓から差し込むきつい午後の光を、平気な顔でしょい込む彼女のことが、怖いと感じた。母の腹の中から共に在ったはずなのに、今はひどく遠い。 「何と言おうと、あなたの前にはチャンスがぶら下がってる。掴まないなんて馬鹿よ」 「僕にだって自尊心がある」 「私を頼るのって、そんなに屈辱的? あなたがどう思うかは勝手だけど、私は自分のことを惨めだなんて思ってないからね」 「そうじゃない」  絞り出した声がいっそ泣き声だったら良かった。気持ちの上では今にも大声で嗚咽してしまいそうだった。なのに胸が痛めば痛むほど眼球は乾き、ぴりぴり引き攣れるような不快感で心を焼く。 「そうじゃない、姉さんは悪くない。ただ僕は……自分が情けないよ」  自分でも持て余す感情は電波に乗って、彼女の心にそっくりそのまま飛んでいったのかもしれない。立ち上がり歩み寄るクロードの足取りはやはりなめらかで、安っぽいビニール張りの床など一歩も踏んでいないかのようだった。  足下へ小鳥のようにしゃがみ込み、軽く首を傾げて見上げてくる姿勢なのに、彼女の方が遙かに大きい存在であるかの如く感じる。アリの膝へ力無く落ちる手に、ひんやりした指先が重ねられる。エメラルドも蝶も今日はいない。母の形見である、濁った色のトルコ石が填まった指輪を、彼女はまだ売らずに持っていたらしい。久しぶりに目にした。 「こんな苦労を味合わせたくなかった」 「だから、やめてよ。人をか弱いお嬢さんみたいに言うのは」 「ファビが捕まったとき、姉さんはもっと幸福になれたはずなんだ。あんなクソ野郎から離れられたんだから……それなのに、僕はただ手をこまねいてるだけだった」 「『どうか僕を幸福にしようとしないで下さい。それは僕に任せて下さい』」 「アンリ・ド・レニエだっけ、それ」  思い出そうと頭を巡らせれば、一瞬哀しみがふっと途切れる。まるでその瞬間を目にしたように、クロードはにこっと微笑んだ。 「あなたったら、信じられない傲慢さね。他人の運命なんて、おいそれと変えられやしないわ」 「そんなの嫌だよ」  コーヒー茶碗に濃く残った澱を睨みつけながら、アリは言った。 「それに僕の肩にはセブとウーヴェの命運が掛かってる」 「呆れた。彼らったら、すっかり一端のヒモになってるじゃない。マニュはちゃんとお金を渡してるはずよ、家賃くらい取り立てなさい」 「彼らが幾ら稼いでいるかなんてどうでもいい。これは僕の問題なんだ」  僅かに目線をずらすだけで、あの慈悲深いと謳われているチョコレート色の瞳が待ち構えている。2人はそっくりだな、と以前セブは言った。確かに見目は生き写しかもしれないが、中身は違う、別の人間なのだ。 「YMCAを飛び出して路頭に迷ってたあの2人と一緒にいるようになってから、僕はこの街に来て以来、初めて寂しくも、不安でもなくなった。誰かの力になることが出来る、一人前の大人になれたんだと思えた。僕は子供じゃないんだ、クロード。もう心配しなくていい」 「あなたが立派な男だってことは分かってる」  胸の中から溢れた言葉をすんでのところで噛み潰している、歯切れの悪い口調をクロードは作った。 「でもそれは、誰かの差し伸べる手がいらなくなるってことじゃないでしょ。助け合うのよ、それが生き延びるコツなんだから」 「分かってる」  はばかることない溜息と共に、アリは益々俯くしかなかった。 「分かってるさ。でも……どうしてこうなっちゃったんだろう」  弟の苦しみに呼応するよう、見上げるクロードの瞳が、柔く悲しげに瞬く。彼女は年相応に成長し、美しさは増すばかりだ。一方の自らは、取り残されていた。置いていかないでと言いながら、何もかもに背を向けている。本来共に在るべき姉にすら。  これが理不尽な感情だとは勿論分かっていた。だが怒りの矛先は颯爽と前へ進む彼女へと向かう。 「嘘つき。僕が遠くへ行ったら寂しいって言う癖に、さっさと先へ進んでるのはクロードじゃないか」 「そうよ、ぐずぐずしてたら置いてっちゃうわ。私、泣き虫は嫌いだもの」  脅しつけながら花が綻ぶような笑みを口元に塗りつけることで、この話題を素敵な帰結へ押し込めようとする。  アリも笑いながら、内心胸をむかつかせていた。もう彼女には二度と頼らないと固く決意する。こんな自分本位で差し出がましい女には――どうせ一週間も保たない誓いだが、それでも心の中で唱えないと、剥き出し傷を撫で回されるような不快感に耐えることはとても出来なかった。

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