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※第9話 ②

 久しぶりの外出だったこともあるし、何となくこの感情を引きずったままアパルトマンへ帰るのは嫌だった。ポンヌフ近くの酒場で1杯、2杯、3杯目のコニャックを胃へ収めた頃には、もう陽が暮れかけている。アルコールはいよいよたけなわに向かう季節へ太刀打ちできない。頬をぴしゃりと叩く秋風は頭を冴えさせ、孤独に苛まれる身を益々意固地にする。  案の定、帰宅して扉越しに聞き慣れた声が耳へ届けば、憂鬱は逆に深まった。はしゃいだドイツ語の会話に、自らは混じっていない、混じることが出来ない。 「お帰り。クロードは元気だったか」 「相変わらずだよ」  着古したステンカラーの外套から抜きかけた腕を、アリはぎくりと強張らせた。  ウーヴェとセブは、さながら玩具で遊んでいるような気軽さで、拳銃を振り回している。ウーヴェが手にしているのは黒いオートマティック・ピストル。もう一回り大きい回転式の、鈍い銀色に輝く銃口をアリに突きつけ、セブは片目を瞑ってみせた。 「『俺に言ってるのか?』なあんてな」 「やめろよ、危ないだろ」  窘めに冗談など欠片も含ませたつもりはなかった。その機微はしかし、全く無視される。任務へ向かうジェームズ・ボンドよろしく、ウーヴェは慣れた手つきで弾倉を銃把に押し込んだ。 「明日の晩だ。もしかしたら、しばらく帰らないかもしれない」 「ったく、そんな辛気臭い物言いするなよ。大丈夫だって、どんなに荒れても、ほとぼりを冷ますのに一週間も掛かりゃしねえよ。何せミンダさんの采配なんだ。向こうも心得てる、殆どやらせみたいなもんさ」  頬をぴたぴたと叩くセブの掌は見かけより固く分厚い。じっとアリの目を覗き込む瞳はやはりわくわくしたものだが、その奥にとてつもなく恐ろしい輝きがあるように思ってしまう。 「10万フラン。しかも一人頭だぜ。しばらく遊んで暮らせるぜ」 「こんなことは良くないよ、セブ」  そう呼びかけながら、アリが向き合って欲しいと願うのは、ぞっとするような静謐さを崩さないウーヴェの横顔だった。 「これはやり過ぎだ、いくら何でも……ヤクの売人をちょっと小突くのとは訳が違う。引き金を引いたら、例え相手を殺さなくても、もう戻れない」 「ハジキを使うのは初めてじゃないさ。ま、これは東側のパチモンコルトっぽいけどな、大した問題じゃねえよ」  平然とした物言いは、アリを安心させるどころか、更なる恐慌へ追いやる。心底ぞっとした。これまで気軽で楽しいだけの関係に甘んじていたら、今になってこんな目に遭うとは。  何がいけなかったのだろう。焦りで徐々に熱を上げつつある脳内から、分岐点を必死になって見つけだそうとする。自らはもっと彼らに優しくすべきだったのか。金をたっぷり渡すべきだったのか。それともさっさと家から蹴り出して、金輪際僕の前に現れないでくれと怒鳴りつけるべきだったのかも。そうすれば独りきりの平穏を崩されないで済んだのに。  でも、独りはもう耐えられない。例えほんの短い間だけだったとしても。行かないでくれと訴えたくて、胸が焼けそうになる。  くすぶる炎は熱く痛いばかりで、喉より先に出て行こうとするのを徹底的に拒んだ。泣き言を喚き散らすなんて、まともな男の取るべき振る舞いではない。 「そんなもの振り回して、刑務所へ逆戻りか。君は堅気になるつもりなんだろう、ウーヴェ」 「これが最後だ」  露骨な非難に晒されても、こんな時に限って鋼の意志が発揮される。一度ジーンズの履き口に押し込んだ拳銃を、ウーヴェは再び取り出した。掌で重みを味わうとき、彼の横顔はまるで宗教の儀式へ臨んでいるかの如く荘厳だった。 「これで足を洗う。君もだ、もう二度と体を売ったりしないで済む」 「僕を言い訳に使わないでくれ。ピアノの先生を目指してるお嬢さんと違って、僕は」  ウーヴェはじっと、アリの顔を見つめ返した。そこに非難はなかったが、これまでの駆け寄って毛布で包み込んでくれるような優しさもまた見当たらない。アリが屈服して視線を逸らすまで、彼はただ、哀れみ続ける。彼は間違いなく、他人を傷つける方法を知っていたし、行動することに躊躇もしない。これが男らしい鈍重さというものなのだ。 「そうだな、分かってる」  何も分かっていない癖に、と叫ぶ代わりに、アリは無言で踵を返した。  腹の奥でとぐろを巻くマグマのような熱が、正しい怒りの形を維持していた時間は幾らもない。激怒はすぐさま情欲へと変質する。耐えられないほど苦しいときは、惰性に身を委ねてしまえばいい。これは逃避ではない。証明するのだ。自らの価値を――誰に対して? 世界の全てに。取り憑いた妄執は、地下鉄へ揺られている間に頑なさを増す。夜が深まるにつれ寒さは一層厳しさを増しているが、燃え上がる肉体はまるで悪質な風邪に掛かったかのよう、今すぐ外套を脱いでしまいたかった。  アパルトマンから30分足らずで辿り着くコンコルド広場周辺を、こんな時間に訪れるのは一体何年ぶりのことだろう。街へ来たばかりの頃は、夜な夜な庭園の植え込みを徘徊しては、ひらめく手招きを見逃さぬよう目を光らせていたものだ。一回しゃぶって30フラン、尻を使わせても60フランの端金。一晩中男から男の間を飛び回れば、胃がたぷたぷと波打ち、翌朝オペラ通りで朝食を食って帰ろうという気すら起こせない。   「獲物の庭」と呼び慣らわされるこの周辺は、この疾病騒ぎにも関わらず盛況だった。殆ど葉の散りかけたアカシアの幹へ凭れて天を仰ぐ男と、彼の足下に跪き頭を上下させる青年、いやもしかしたら少年なのかもしれない。生え替わろうとする芝生が青い月の下で一層色褪せ、靴の下で乾いた音を立てては居心地の悪さを強調する。  すれ違いざま、古ぼけたオーバーを身に巻き付けた男が軽く顎でしゃくるような仕草をしたが、正面を見つめたまま微笑み、無視する。同じく今度は、まだ高校も出ていないような少年が、軽く肩をぶつけ、誘いかけてきた。自らは、本来なら今頃彼らを買う側に回っているべきなのだ。  昔を取り戻し、金を稼ぐ為ならば何でもしてやろうと腹を括ったつもりだったにも関わらず、急激に気持ちが萎える。年齢を重ねて身についた卑劣さと自尊心は、生きていく上で自らを苦しめるばかりだった。  敷地を突っ切って、旧宮殿の先、駐車場の辺りを目指せば、もう少し金を持っている客が見つかるだろう。何よりも彼らは車に乗っている。この寒さに野外で肌を露わにするのはさすがに怯んだ。  靴屋でスニーカーを品定めするのと同じだ。宮殿へと続く小径にずらりと並ぶ、テールランプの連なりを見渡し、アリは内心嘯いた。選り取り見取り、好きな相手を自分で選ぶ。直接足の裏で踏んでいるかの如く、砂利が不愉快にきしきしと鳴った。  ことさら涼しげな顔で、外套の裾が車体へ擦れることなどお構いなしに、さっと通り過ぎる。4台目の堅苦しそうなポンティアックが、助手席の扉を僅かに開けた。  座席へ滑り込んだ先にいる中年男は、車同様真面目腐った見かけだった。顎で示されたグローブボックスを開くと、車検証明書やティッシュボックスの傍らに、剥き出しの紙幣がきっちり折り畳まれた状態で入っている。30分で口を使いイカせた後、好きに身体を触らせてやり100フラン? 「冗談だろ?」  冷ややかな口調でそう言い放つときは緊張して、声が震えなかったのは奇跡だった。少し欲張り過ぎだろうか。いや、何もしおらしくなる必要などありはしない。ここでは何もかも地に堕ちている。  幸い男は渋面を浮かべたまま、くたびれた外套の内側から財布を取り出し、20フランをもう何枚か出す。碌に数えもせず、元金と共にジーンズのポケットに突っ込むと、アリはすぐざま男の股間に顔を埋めた。あんまり深く考え始めたら、大声を上げて泣きたくなるかもしれない。  ペニスへ微かに残るアンモニアを、今にもひくつきそうな喉へ唾液と共に流し込み、集中しようとする。結局のところ、やることは古びた酒場だろうと空港だろうと、どこで客を取っても変わらないのだから。  柔らかい手が後頭部に回り、数度撫でたかと思えば、ぐっと引き寄せる動きを作る。焦らずに、とアリは上目で微笑み掛けた。ここで多少長引かせてくたびれさせれば、後戯をする気も失せさせることが出来るだろう。目の前で自慰してくれとか、もう少し面白いことを命じられるかもしれないが、今日は気分が乗らない――自らも随分と贅沢になったものだ。半年前までは、感情なんか徹底的に殺して、生きるためにひたすら稼がねばならなかったのに。独りで生きるとはそういうことだ。  それにしてもこの男はなかなか自分本位で、忍耐がない、そして早漏なのかも。まだ柔らかさを残した竿を喉の奥へ突っ込んできた。味蕾のない場所へ流れ込む先走りに噎せそうになるのを堪える。まさか面倒な男ではないだろうか。  手を振ったらウーヴェが飛んできて扉をこじ開け、男を引きずり出して殴り飛ばしてくれるという光景は、全くの絵空事でしかない。そんなものさ、と呟きを何度も何度も胸の内で繰り返せば、身体が冷たくなる。恐怖ではない、これは哀しみだと認めることがアリにはどうしても出来なかったが、事実は否応なしに迫ってくるのだ。  肝心なときにドジを踏むウーヴェ。コンコルド広場へ舞い戻って10分、噴水の縁石へちょこんと腰を下ろし、金を数えるアリを、彼は黙って見下ろしていた。酒でも飲んだかの如く赤くなった目は、血色の上った顔と相まって息を飲むような気迫を放っている。だがアリは恐れない。紙幣をポケットに戻すと、頬杖の上から眇めた一瞥をくれてやる。 「準備は出来た?」 「帰るぞ」  その一言で相手が従うと思っているのだから、彼は随分と甘やかされて来たに違いない。そして返された踵に、大人しく続く自らのお人好し具合と言ったら。  帰りの地下鉄でも、アパルトマンまでの道のりも、無言は続く。並んで座席に腰掛けたウーヴェは一度も隣を振り返ろうとはしなかった。明らかに、彼は怖がっていた。もっとも、それは自らも同じこと――粘ついた感触がまだ残っている喉は締め付けられているかのようだし、膝の上で丸まった掌は汗で洪水のようだった。ちらと走らせた視線の中、彼の頬はまだ紅い。端正な横顔はかつてなく少年めいて見える。  今すぐその腕に取り縋りたかった。彼に相応しい無垢な存在となりたかった。映画の中の恋人達のようにぴったりと身を寄せ合い、現実なんて全く度外視した愛を囁き合うのだ。  現実。自らの胃の中には濃い精液が収まり、24時間後経てば隣の男はピストルを振り回す。今からでも遅くない、やめるんだ。そう叫べば彼は思い留まってくれないものだろうか。  同じ言葉を、ウーヴェは何度も何度も口にした。そのたび自らは、煩わしさを覚えた。何も知らないくせに。何も出来ないくせに。  今は知りたいし、やりたいと強く望んでいる。もう手遅れなのだろうか。

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