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*第七話* 金木犀

 劇場前に到着すると、昼間話した年配の男性が相変わらずチケット売り場に立っていた。二人に気付くと嬉しそうに手招きする。 「良く来てくれたね。こっちこっち」  言いながら、劇場の裏手に進む。陸と哲治は自転車に乗ったまま後に続いた。  コンクリート打ちっぱなしの外階段を、錆びた手すりに掴まりながら男性が上っていく。二階のドアを開け「清虎!」と呼ぶ様子を、陸は緊張しながら階段の下で見守っていた。  あの先に広がっているのは、自分の知らない清虎の世界。そう思うとそわそわして落ち着かなくなる。  すぐに清虎がドアから顔を出した。こちらを見てこぼれるような笑みを浮かべたので、陸の心臓は跳ね上る。 「塾だったん? わざわざ寄ってもろて、悪かったなぁ」  勢いよく清虎は階段を駆け下り、それでもまだもどかしいと言うように、残った最後の三段目から大きくジャンプした。自転車にまたがる陸の目の前まで来ると、嬉しそうにニカッと白い歯を見せる。舞台の後にシャワーでも浴びたのか、髪は少し湿っていてほのかにシャンプーの香りがした。  白い半袖パーカーに七分丈のデニムパンツ、足元はサンダルを履いていて、いつもの大人びた雰囲気と違いあどけない。それが陸の心をより一層躍らせた。 「清虎、これからうちの店で陸と飯食うんだけど、お前も来ない?」  清虎に見惚れていた陸は、哲治の言葉で我に返った。断らないで欲しいと祈るような気持ちで清虎を見る。 「俺もええの?」  清虎は陸と哲治の顔を交互に見ながら、驚いたように問い返した。陸が「もちろん」と何度も頷く。清虎は、あとからゆっくり階段を降りて来る年配の男性を振り返った。 「行って来てええ?」  微笑んで頷いた男性が、財布から千円札を取り出して清虎に手渡す。 「ああ、ええよ。けど、あんまり遅くならんようにな」 「じーちゃん、おおきに! 陸、哲治、早く行こ」  貰った千円札をポケットに捻じ込むと、清虎は哲治の家の方角へと駆け出した。 「清虎、走っていくの?」  慌てて自転車の向きを変え、清虎の後を追う。サンダルでよくそんなに走れるものだと感心するほど、清虎の姿はあっという間に小さくなった。「早くー」と遠くから呼ばれ、自転車を漕ぐ速度を上げる。  ライトアップされた浅草寺の横を突っ切り、既にシャッターの閉まった商店街を駆け抜けた。人通りのない夜の仲見世通りはどこか浮き世離れしていて、跳ねるように走る清虎の姿はあまりに綺麗だった。夢の中にいるような錯覚に陥り、急に全ての輪郭がぼやけてしまいそうで恐ろしくなる。 「清虎、そんなに急がないで」 「なんや陸、泣きそうな顔して」    お願いだから、置いていかないで。そんな言葉を飲み込んだ陸の顔は、どうやら泣きそうに見えたらしい。店に到着して走るのを止めた清虎が、大きく息を吸う。 「金木犀の匂いがする。俺この匂い好きやなぁ」 「うん、俺も好き。多分、哲治の家のだよ」 「ああ、うちの庭にでかい木があるから。この季節は窓を開けっぱなしにしてると、酔いそうになる」  店の裏手の玄関ポーチに自転車をしまいながら、哲治がうんざりした顔をした。陸の自転車も隣に並べ、鉄の門扉を閉める。この場所だと香りは一層濃く感じられ、「酔いそう」と言うのもわかる気がした。

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