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ゼロ④
そんな陸の心情を見透かしたように、零がグラスを顔の前まで持ち上げ、ワイン越しにこちらを覗き込んだ。
「佐伯さん、緊張してます? それとも警戒してるのかな。こんなところで寄り道してたら、恋人に怒られちゃいますか」
「そうですね。白状すると、緊張も警戒もしてます。恋人はいませんけど」
「恋人はいない? 本当に?」
零の声のトーンが微妙に変化する。
その声色を聞き、陸の中で小さな違和感が芽生えた。喉に刺さった小骨のように、何かが引っかかっているのだが、その何かが掴めない。
「いませんよ。本当に」
「嘘吐き」
不機嫌そうに零が前に向き直り、ワインを一気に呷った。なぜ嘘吐き呼ばわりされるのか解せないまま、陸もつられたようにグラスを空にする。
すかさず零が、陸のグラスにワインボトルを傾けた。流れ出る赤い液体を眺めていたが、ハッと気づく。
「一杯だけの約束でしょう」
「そうでしたっけ」
零は自分のグラスにもワインを継ぎ足しながら、しれっと言ってのけた。
陸は黒髪で半分以上隠れてしまった零の横顔を凝視する。瞬きをしたのか、伏せられた長い睫毛がゆっくり上下した。
にわかに陸の鼓動が早くなる。
陸は黒い髪を掻き分けたい衝動に駆られて、零に向かって手を伸ばした。しかし黒髪を横へ流そうとした指は、その手前で止められてしまう。
「どうしたんです? 私に触れたいの?」
「すみません、つい。酔ったのかな。飲み過ぎたみたいです」
誤魔化すように、陸はグラスに口を付けた。これを飲み切って早く帰ろう。
一瞬だけ生じた疑念は、きっとただの願望だ。
「帰ります」
本来はもっと味わって飲むべきワインなのにと、残念に思いながらグラスを置いた。立ち上がろうとした陸の体を、零が絡みつくように抱きしめる。
「まだ帰っちゃだめ」
のしかかるように体重をかけられ、陸はバランスを崩しかけた。胸に顔を埋める零を引き剥がそうとしたが、予想以上に力が強い。
疑念が少しずつ現実味を帯びていく。
陸は抗うことを諦め、ベッドに仰向けに倒れた。
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