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仕方ない④

「綺麗な女形」  哲治が深澤の言葉を繰り返す。今度は哲治の表情を観察するように、深澤がカウンター越しに身を乗り出した。 「本当に、驚くほど美しい花魁姿でしたよ。息を呑むとは、ああいう時に使うんでしょうね。最高級の遊女に、一晩で何十両もの大金をはたいてしまう客の気持ちが解ったような気がします」 「何て言うんですか? その役者の名前」 「確か、城鐘零」 「へぇ。知っている名前ではないけど、芸名かな。ねぇ、陸。その女形はそんなに綺麗だったの? 会ってみたいなぁ。明日一緒に観に行こうよ」 ――ああ。きっと哲治は気付いてしまった。  陸は抑揚なく「一度観たから充分」と答える。もうビールの味はしない。 「勿体ないなぁ。私が浅草に住んでたら、絶対に毎日通うのに。宝の持ち腐れじゃないの、罰が当たるよ」 「じゃあ佐々木さん、本当に引っ越して来れば? ついでに哲治と付き合っちゃいなよ」  冗談めかして陸を責める佐々木に、陸もニヤッと笑って応戦した。どこか自分を俯瞰して見ているような、何もかもどうでもいい気分になる。 「もう、からかわないでよ。佐伯くんがそんな軽口を叩く人だと思わなかった」  他愛ない会話でケラケラ笑う陸は、傍からは上機嫌に見えただろう。  店は相変わらず混み合っていて、いつの間にかカウンター席も全て埋まっていた。哲治は忙しそうに手を動かし、次々とオーダーをこなしていく。おかげであれ以上追及されることもなく、陸はこっそり安堵する。  三杯目のビールを飲み干した頃、そろそろ出ようかと深澤が言った。佐々木は名残惜しそうだったが、早く解放されたい陸は直ぐに立ち上がる。伝票を掴んで会計に向かう前に、深澤が哲治に告げた。 「ご馳走様でした。また来ます」 「ありがとうございました。もっとゆっくり話したかったな。また来てください」  作業の手を止めて哲治が顔を上げる。陸は酔ったフリをして、哲治と目を合わせないまま背を向けた。笑顔で会釈する深澤の後に続いて、振り返らずに店を出る。  夜も更け、喧騒の遠のいた街の空気は、少しだけひんやりしていた。

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