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この心臓は誰のもの④

 夜になれば清虎に会える。  仕事中そのことが頭に浮かぶ度、陸はニヤけそうになる頬を両手で押さえた。連日の夜更かしのせいで少々体は辛いはずだが、不思議と全く苦にならない。むしろ業務は捗っている気さえする。  逢瀬の約束というものが、こんなに心躍るものだとは知らなかった。  その反面、これは劇薬なのだとも自覚していた。清虎がこの街から去って気軽に会えなくなった時、果たして耐えられるだろうか。 ――きっと大丈夫。  陸は心の中で「大丈夫と」おまじないのように繰り返す。  毎週末、清虎がどこにいたって公演している劇場に会いに行こう。日本のどこかには必ずいるのだ。新幹線や飛行機を使えば、いつでも会える。大丈夫。  言い聞かせながら今日の業務を終え、帰り支度を始めた陸は、いつの間にか隣にいた深澤に驚いて身を引いた。 「わっ。びっくりした。いつからいたんですか」 「声かけたんだけど、佐伯くんずっと上の空だったからね。何かいいことあった?」  深澤に問われた陸は「ええ、まぁ」と曖昧に首を縦に振る。 「もう帰るなら、飯食って行かない? その『いいこと』の話、聞かせてよ」 「あ……この後、約束があるんです。すみません」 「なるほど、いいことはこれから起こるのか」  深澤が意図しているのかどうかは解らないが、ゆっくり口角を上げるその表情から、悪意のようなものが感じられた。  見慣れないその表情に、陸は戸惑いと警戒の混じった目で深澤を見返す。陸のまとう空気が変化したことに気付いたのか、深澤はククッと喉を鳴らした。 「ごめん。俺、今どんな顔してた? 佐伯くんを怖がらせるつもりはなかったんだけどな」 「いえ、別に怖がっては……」 「そう? それならいいんだけど。なんかねぇ、俺もあんまり余裕ないみたい」 「余裕?」  陸の疑問には答えず、深澤は「困っちゃうよねぇ」と肩をすくめる。陸に向かって手を伸ばし、髪をさらりと撫でた。 「気を付けて帰ってね」 「はい。……お先に失礼します」  深澤が切なそうに眉を寄せるので、陸はどう返して良いのか解らず、それだけ告げて足早に会社を後にした。

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