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第6話

 とりあえず、薬は寝台の横にあるテーブルに置いておく。 「俺は料理に戻るから」  何の事情も知らないこの男に、何を訊けばいいのか、何から説明すればいいのか、アンリには分からなかった。何かを言おうとして、結局口から出てくるのは単純な言葉ばかり。久しぶりに人間と会話するからと溢れ出してきそうな言葉の洪水は、すぐに止まってしまった。 「待て」  だからなのだろう。去ろうとするアンリの手首を、男が掴んだ。強い力だが、振り払えないほどではないだろう。なのにそれができないのは、本能が訴えかけているからだ。「逆らうな」でも、「逆らってはいけない」でもない。ただ身体が、本能が、彼に触れられていることを喜んでいるようだった。  こんな感覚は知らない。しかし、知識としては知っている。オメガが、相性の良いアルファと出会い、触れられた時の現象だ。 「やっぱり……」  男が小さく呟いた。 「君はオメガか」  あまりにも不躾な物言いに、頭に血が上る。 「あんたがどこの貴族だか商家の出だか俺は知らない。でも、坊ちゃんは小さい頃に教わらなかったわけ? 初対面で、第二性を直接尋ねるのは失礼だって」 「俺が貴族だろうと、今は関係ないな。君のことを聞いているんだ」  面倒臭いなと、アンリは眉をひそめた。しかし、横暴な貴族の男が、この場を譲るとは考えられなかった。 「……そうだよ。お察しの通り、俺はオメガだ」  その後、男は何と言うのだろうと思った。  貴族社会でも、平民の社会でも、オメガの地位は低い。特に貴族の間では、政治や権力の闘争に、オメガの嫁入りが道具のように使われる。少しでも身分の高い家と縁を結ぶために、貴族は社交界を渡り歩いて、自らの子どもであるオメガを売るのだ。  貴族の中には、オメガを見下す者も珍しくない。アルファがいるから、オメガは生きていけるのだ。だから、オメガは大人しく、アルファに身体を渡せばいい。そう言って憚らない貴族のアルファを、アンリは何人も見たことがった。  目の前の男も、そんなアルファと同類だろうか。「オメガの世話になんかなるものか」と宣おうものなら、すぐに追い出す準備はできている。  しかし、男の反応は、アンリが予想していたものとは違った。むしろ、真逆だったと言ってもいい。  アンリの腕を掴んだ手は、小さく震えていた。拒絶かと思ったが、真っ直ぐにこちらを見据える瞳には、喜びが宿っていた。 「ずっと探していたんだ。俺の、運命の相手を」  それから、彼はアンリの手の甲に唇を押し当て――キスをした。それは、忠誠を誓うための口づけだ。少なくとも、貴族のアルファが、辺境の森に暮らすオメガにしていいものではない。たとえ貴族のアルファとオメガであっても、そんなことをするのは、挙式時の型にはまった儀式くらいだ。  驚くアンリをよそに、さらにありえないことを、目の前の男は言う。 「どうか、俺と番ってくれないか」

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