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第92話

「待って……」 「……っ!」  アンリが伸ばした腕は、何も掴めなかったけれど。 「な、何……?」  姉の目にあったのは、怯えだった。  今のアンリなら分かる。たとえ信じていたとしても、まだ犯人は捕まっていないのだ。自分の身を守るために全てを疑ってかかるのは、人間としての本能だろう。  母だって、かつて嫁いだ屋敷を追い出され、やっと見つけた居場所なのだ。ましてや、母は義父のことを好いていたのかもしれない。そんな男の隣を、疑わしい息子を切る捨てて守ろうとする判断は理解できる。  だから、全部仕方がなかったんだ。  今だからこそ、そう言える。しかし、当時のアンリはそうではなかった。ただ呆然とするしかなく、自分がこれから言おうとした言葉は――安易を言っても、彼女には空々しく響くだけだろうと諦めた。 「……何でもないよ、姉さん」  「待っている」とも、「迎えに来て」とも言えなかった。本当に言いたかった一言すらも。  ただ遠く離れていく馬車を見送ってから、ようやく少し泣いた。涙が一粒、二粒と流れて終わる。そんな泣き方だった。ひとり森に取り残されたこの状況を、まだ現実だと思えていない。ひとりで生きていくだけの決心も、ついているはずがなかった。

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