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第96話
あの時は、怖くなってしまった。ふいに舌の景色を覗きこんでしまった時、宙に身を投げ、落ちていったその後の、つぶれてぐちゃぐちゃになった自分の死骸を想像した。誰にも知られず、思い出すことすらされず、朽ちて土に還っていく自分の有様を考えた。そうしたら、足が震えて、一歩も踏み出せなくなってしまったのだった。
しかし、今ならどうだろうか。
崖から落ちれば、血は四方八方に飛び散り、頭蓋骨が割れる。身体をずたずたにするような痛みがわずかに続き、その後、自分の意識も全神経も途切れる。どれだけ悲惨な様子を想像しても、恐怖という感情がそこにはなかった。むしろあるのは、やっと終われるという安堵だけ。
もう、自分はいなくなってもいいんじゃないか。もとから、要らないも同然だった。生まれた時から、実の父に生家を追われ、母に切り捨てられ、姉に見限られるほど、必要とされていなかった。
終いには、見ず知らずの姉の身内にまで探られる始末だ。好きだと言う嘘を吐き、オメガの発情期に付き合ってまでも、探る必要があると彼に思われているのだ。
自分さえいなくなってしまえば、わざわざ森の古びた小屋に誰かをよこす必要もないだろう。向こうは、アンリがまだ姉を恨んでいるんじゃないか、いつか何かしてくるんじゃないかという疑いを持つこともなく、良いこと尽くめだ。
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