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秋_第1話

季節は巡るよ…どこまでも… 今は秋… 長かった夏休みも終わって、明日から学校が始まる。 模型部の活動内容を報告しよう。今の進捗状況はこんな感じだ。 ・土台となる立地を発泡スチロールで作成…大まかには済 ・土台に石こうを塗る…未完了 ・レジンで海を作る…未完了 始業式放課後予定 ・レールの設計…済 ・レールの設置…未完了 ・戦艦の構成と作製…済 ・戦艦の設置…未完了 ・ゴジラの購入…未完了 ・戦車と迎撃ミサイルの構成と作製…途中 ・戦車と迎撃ミサイルの設置…未完了 ・”果たして、デゴイチは本当に空を飛ぶのか…2021“を上空に走らせる…未完了 ・町の作成とフィギュアの設置…未完了 ・山の造形…未完了 そう… 文化祭まで残り1カ月を切ったというのに、未だに未完了の物が多いんだ…。 理由は簡単さ… 思った以上の作業量に打ちのめされて、夏休みが始まった頃の情熱と勢いが消えてしまったんだ。 作っても、作っても、全体像の見えない状況に…みんなが途方に暮れている… これは、スケジュールを組んだ…僕のミスだ。 一番手間のかかる、模型の土台の作り込みを後回しにしてしまったんだ… 「春ちゃん…新学期が始まったら作業時間が削られる。ここらで、優先順位を決めて、要らない所を諦める考えはないか…?」 細かいパーツで溢れた部室の中、かろうじて座るスペースを見つけた後藤くんが腰を下ろしながらそう尋ねて来た。 諦める…? 「…どうして?まだ…まだ行けるよ…まだ、文化祭まで…20日以上ある!」 弱気になった後藤君を見つめて、僕は声を震わせて狼狽えた。 取捨選択を迫られている… それが妥当な判断だと理屈の上では理解出来てる。 でも、僕は…なにひとつ、諦めたくなかったんだ… 口を一文字に結んだ後藤君は、首を横に振りながら手元の戦車を作り始めた。 まるで、こいつに何を言っても駄目だ。とでも、言わんばかりじゃないか… 僕は、震える手を反対の手で押さえて、訳も分からず唇を噛み締めた。そして、溢れてくる不安と、動揺を、必死に隠した。 な、何とかなる… まだ大丈夫だ… 「春氏…透明のレールが調達出来ていないでござる…」 「それは…高くて…」 「春ちゃん、レジンもまだ買って無いし、石膏すら塗っていないんだ。規模を縮小しないと駄目だ。遅かれ早かれ、決めなきゃいけない時が来る!今、決めてくれっ!」 そんな陣内くんの言葉に、僕はすぐに眉を上げて言った。 「言っただろっ!2畳でやる!僕は…2畳の空間を飾るんだからぁ!」 「春氏!現実を見るでござるよ!…1週間のお盆休みは、痛かったでござる。」 伊集院くんは、手際よくNゲージの線路を組み立てながら、ため息を吐いて僕を見つめた。 確かに… 僕が、おばあちゃんの家で呑気にスイカを食べていた時間は、痛かった… でも、今更後悔したって、時間は戻ってこないじゃないか!! 「…9月に入った初めの週で、結論を出すよ…。それまでは、このペースで…」 「無理だっぺ!」 「なぁんで!」 南條くんの言葉に苛立った僕は、彼の手元のタッパーを奪って中身を全部口の中に放り込んだ。 「なぁにするっぺかぁ!」 「こんなの…!モグモグ…こんなの食べてるからぁ!モグモグ…」 「関係ねっぺよっ!ボケチンがっ!」 ボロボロだ… 僕と、模型部のみんなは…ボロボロのボロ雑巾になった… 僕は、怒れる南條くんに頭を引っ叩かれ続けながら、回らない頭の中を必死に手巻きでまわし始めた。 まず…何をしたら良い… 何をしたら、この状況を変えられる…? 分からない… 分からない。 徹夜漬けの毎日のせいで、僕は、まともに考える事さえ難しくなってしまった様だ。 作りかけのジオラマの土台を見上げて、途方に暮れて、口を開けたまま放心した。 「春ちゃん、ごめん…今日、デートなんだ…」 僕の肩を叩いた陣内くんがそう言った。そして、みんなの冷たい視線を受けながら、そそくさと帰り支度を始めた。 分かるよ… デートは…楽しいからね… 僕も、経験者さ。 でもさぁ…でもさぁあ…! 「…うぉおい!今は、違うだろぉ…!?」 いきり立った僕は帰り支度をする陣内くんの背中に乗っかって、彼の髪をボサボサにかき回して言った。 「陣内くん!今が正念場だ!今、考えないと!!」 「ごめん…春ちゃん。も、今回は…ドタキャン出来ないんだぁ!!」 背中に乗った僕を振り払った陣内くんは、一目散に部室を飛び出して逃げる様に帰って行った… やるしかないだろ… ふっ…と沸き起こったやる気に縋った僕は、座り込んだ体を振り起こして言った。 「レジンと…石膏…透明のNゲージのレール、今すぐ買ってくる…」 「春ちゃん!お金が足んないよ!」 叫ぶ様にそう言った後藤くんを見下ろした僕は、悲痛な表情をする彼に言った。 「体を売って来い!」 「んな、ご無体な!」 ここで…止まったら、駄目なんだ…! 冷静になって、状況を立て直して…この窮地を乗り越えよう。とりあえず、後回しにして来た事を今すぐにやろう…。 「い、行ってくるからぁ!」 土台の板、発泡スチロールを買ったお金を差し引いた…23、480円。 そんな部費の入った財布を片手に持った僕は、手押し車を押しながら部室を後にした。 とにかく、材料を手に入れないと… ヨレヨレの体を右に左に揺らしながら、僕は手押し車を押して中途半端に走った。 午後3時…未だにさんさんと照り付けて来る太陽は、きっと僕の事が嫌いなんだ。 「暑い~~!死ぬ~~~!太陽の…ばっきゃろ~~!」 周りの人がギョッとしたって構わない。 僕は、なりふり構ってられる状況じゃないんだぁ!! 髪を振り乱しながら駅前の画材屋へ向かった僕は、商店街の一角で楽しそうに笑う部活帰りのちいちゃんを見つけた。 ソフトクリームなんて手に持った彼は、柏木さんの差し出したうんこ色のソフトクリームを舐めて、馬鹿みたいに笑っている。 きっと…うんこの味がするんだ… ガラガラガラガラ… 手押し車の車輪の音を轟かせながら、僕はそんな彼らの目の前を通り過ぎた。 徹夜してフィギュアを作っても、全然、時間が足りないんだ。 …予定では、1000体作らなければいけないのに…まだ、120体しか作る事が出来ていない。 くそっ! くそっ!! 込み上げてくるのは、自分の予想の甘さを後悔する涙… もう…夏休みが終わってしまった… もっと、早くにジオラマの土台に手を付けるべきだったんだ!!なのに、後回しにした! 理由は、簡単だ。 …段取りが、面倒臭かったからだっ!! 面倒臭い事…それが好きで、模型部に入った癖に、僕は自分の存在意義を否定した。 この状況を解決する方法も分かっている。 規模を小さくすれば良いんだ。 でも、その決断が…出来ない… 「畜生…!!」 どうしても、作りたかった2畳分のジオラマを…自分のスケジュール管理の甘さを理由に諦めるのか…?! 「うっうう…!!畜生…!!」 泣きながら手押し車を押す僕は、ちょっとした危険人物の様だ。 モーゼが海を分けた様に、街行く人が道を開けてくれるんだ。 渡りに船じゃないかぁ…! 「うっうう…ううう…うわぁああん…!!」 「えぇ?!…レジンが、無い?」 「900リットルなんて馬鹿みたいな量、卸問屋で買う量だよ?2リットルならある。」 画材屋のおじさんはそう言って、2リットルのレジンを掲げて僕に見せた。 どうする… どうする…? 迷ってる暇はないんだ。 「…そのレジンを貰うよ。あと、石膏と、紙粘土を1キロ…Nゲージ用の透明のレール…8本入りのやつを、3箱と…カーブ用のパーツを…と、とりあえず2箱下さい。」 項垂れてそう言った僕は、なけなしの部費の入ったお財布を手に持って、支払いをした… …なぁんでNゲージのパーツはこんなに高いんだぁ!! 透明のレールが8本しか入ってない癖に、平気で3、000円とかするもんだから部費はあっという間に底をついた!! レジンを2リットル分しか買えていないのに…もう、お金が無くなった。 こんなんじゃ、海抜1メートルの海どころか、赤ちゃんプールも作れない… 詰んだ。 ガラガラガラガラ… 僕は、背中を丸めながら、顔を俯かせて手押し車を押した。 顔中、汗と、涙と、鼻水と、ヨダレまみれになったんだ…でも、それを拭う事すら、もはや面倒で、どうでも良かった。 僕は、最低の…部長だ… みんなを、先の見えない混沌の渦に巻き込んでしまった。 浅はかで…無謀で、無計画で…先導する力もない…ただの、伸びきったもやしだ。 もやしは…大根にはなれない。 僕は…ちいちゃんの様な、リーダーにはなれない… 「…春、どうした…」 「…何でもない。」 僕は俯いたまま、ちいちゃんの靴を見つめてそう言った。 そして、彼から逃げる様に、手押し車を乱暴に揺らしながら再び学校へ向かって走り出した。 僕に…構うな! お前なんて…大嫌いだ! 女のうんこでも、食べてたら良いんだ! 精神が強靭であっても、僕は徹夜漬けのもやし… こんな暑い中、泣きべそをかきながら走ったせいだ…目の前が急に真っ暗になった。 「あ…まずい…」 「春ちゃん、どうしたの…?酷い顔だよ…」 立ち止まってふらふらと揺れている体を、そっと誰かが抑えてくれた。そして、優しい声で言ったんだ。 「もしかして…気絶してる…?」 「いや…目が見えなくなったぁ…真っ暗だぁ…」 「瞼が、閉じてるからね…」 そんなまるちゃんの声を聴きながら、口元を緩めた僕は、安心してそのままぶっ倒れた。 あぁ…まるちゃん…この前、お祭り行けなくってごめんね… フィギュアを塗らなくちゃ駄目だったんだ… 本当は、凄く行きたかった。 「せ、先輩~~?!」 「春氏!」 「あぁ…何て事だ…負傷者が出たぞ!衛生兵!衛生兵!」 「おらのべったら漬けを全部食った呪いだぁ!」 模型部のみんなの声が聞こえて来た… 口元を緩めて重たい瞼を開いた僕は、大きくて、あったかい背中の上に乗っていた。 「まるちゃ…ん…」 そっと手のひらで背中を撫でてそう呟いた僕は、そのまま再び瞼を落とした。 もう…疲れた… 目の前は真っ暗な闇…瞼の裏に漏れてくる光すらない。 きっと、僕は寝たんだ… 若い肉体を持ってしても、さすがに4日連続徹夜はまずかったみたいだ。 真っ暗闇を瞼の裏に映した僕は、自分が寝ているのか…起きているのかさえ分からなかった。 すると、暗かった視界が急に開けて…眩しいくらいの明るさを帯びながら、幼い日の僕と、ちいちゃんが公園の池を覗き込んでいる姿を映し出し始めた。 あぁ…僕は、どうやら…夢を見ているみたいだ。 「ちいちゃん…隆くんたちと遊べば…?」 僕は、長い棒で池を掻き混ぜながら、ちいちゃんを横目に見てそう言った。すると、ちいちゃんはもぞもぞと体を動かして、僕を覗き込んで言った。 「なぁんで?俺は春ちゃんと遊んでる方が楽し!」 みんなと野球をするより、僕と公園の池で笹舟を作って、追いかける事の方が楽しいの…? そんなの…絶対に、嘘だ… 「嘘つき…!」 「はぁ?」 「春と居るより、他の子と居る方が楽しい癖にぃ!」 「…はぁ?誰が言ったの?」 幼いちいちゃんは眉をギッと上に上げて、僕にそう言った。すると、僕は、バツが悪くなって笹舟を見つめながらぼそぼそと言った。 「…誰も。春が、そう思ったんだぁ…」 「春ちゃんは俺じゃないのに、どうしてそんなこと勝手に思うの?さっき言った通り、俺は、春ちゃんと遊ぶ方が楽しいんだ!だから一緒に居るし、だから、笑ってる!なのに、春ちゃんは目の前の俺を見てるんじゃなくって、勝手に想像した事で怒ってる!」 確かに…そうだね… 鼻息を荒くしたちいちゃんは、僕の丸まった背中をギュッと抱きしめて言った。 「春ちゃん?俺の口から出る言葉だけを信じて?俺は、春ちゃんに嘘ついたりしない!俺が楽しいって言ったら楽しいし、悲しいって言ったら悲しいんだ。そして、春ちゃんと一緒に居たいって言ったら、俺は、春ちゃんと一緒に居たいんだよ。」 「う、うん…!」 僕はちいちゃんを振り返って…泣きながら彼に抱き付いた。 ねえ、ちいちゃん… 3年生の真理ちゃんが、まるちゃんじゃなくて、ちいちゃんの事で僕に嫌がらせをしていたら…僕は、あんな風にバットを振り回して怒れたと思う…? それとも、いつもの様に、シクシクと…ひとりぼっちで、泣いていただけだと思う…? 僕には…分からない。 「…レジンを全体に流し込む事が不可能なら、薄い板の様にして、前面と両サイド、天面に分けて、ボックスの様にするのはどうですか…?」 「ほぉ、なる程…悪くないアイデアだ…!円くん!君はなぜ模型部に入らなかったんだ!」 まるちゃんの穏やかな声と、後藤くんの感嘆の声が聞こえた僕は、重い瞼を開きながら体を起こした。 「…まるちゃん…」 「春ちゃん!気が付いた…?はぁ…良かった…」 僕のおでこを触ったまるちゃんは、熱を測る様にしばらく僕の額から手を動かさなかった。そんな彼を見つめたまま、僕は、ボロボロと溢れて来る涙をそのままにして言った。 「…ボロボロになってしまったぁ…!僕の、僕の…見通しの甘さのせいで、みんなを混沌に突き落としてしまったぁ…!まるちゃぁん…君と、花火を見に行きたかったぁ…!あの時、断った後、泣きながらフィギュアを塗ったんだぁ…!でも、でも…!全然上手くいかなくて…空回りしてる…ずっと、僕は、ひとりで…空回りしてる…!」 「大丈夫…大丈夫だよ…」 僕の背中を撫でながら、まるちゃんはいつもの様に優しくそう言ってくれた。 大丈夫…?そんな訳、無いよ… でも、不思議だな。 君がそう言ってくれるだけで、本当に大丈夫な気がしてくるんだ。 「うん…うん…!」 僕は、笑顔で何度も頷いて、両手でまるちゃんにしがみ付いた。そして、彼の胸に顔を擦り付けて、溢れて来る涙を彼の胸で拭った。 「春氏…申し訳なかった。春氏に負担を掛け過ぎたでござる…。Nゲージのレールなぞ、自分でいくらでも調達する機会などあったのに…申し訳ない。」 伊集院くんはそう言って僕の前で頭を下げた。すると、後藤くんが立ち上がって僕に言った。 「俺もだ…レジンの使い方をもっと考えるべきだった…。円くんが良いアイデアをくれたんだ。その方法だったら、大量のレジンを用意する必要はない。それに、ジオラマ自体の重さも、気にする必要が無くなる。」 「んだなぁ…おらも、も少し春ちゃんを手伝うべきだったなぁ…悪かったっぺ!」 「せんぱぁい!ぼ、僕たちにも…仕事を振ってくださぁい!」 南條くんや、1年生の子たちは、まるちゃんにグズグズに甘ったれる僕を見つめながら、やや呆れた顔をしてそう言ってくれた。 「ほら…春ちゃん。一度、褌を締め直そう?とりあえず、今日は帰って寝た方が良い。健全な精神は、健全な肉体にしか宿らないからね…」 そんなまるちゃんの言葉に頷いた僕は、半開きの瞼を一生懸命見開いて、模型部のみんなに頭を下げて言った。 「みんな、ごめんなさい!…今日は帰ります。でも…明日から、また…よろしくお願いします!!」 「もちろんだ!ひとまず休んでくれっ!」 そして、僕は、まるちゃんに支えて貰いながら、フラフラと帰りの道を歩き始めた。 「え?…何日だって?」 「…ん、4日…寝てなかったぁ…」 そんな話をしながら、僕は、すっかり安心してしまったのか…もたれかかったまるちゃんの腕に頬を付けて、半分寝ながら歩いた。 「1000体、全て統一したクオリティにする必要は無いよ…。要所要所の人物だけ描き込んで…後はぼかして良いんだ。春ちゃん?その他大勢は俺が作るから…スケールを教えてよ。」 「んぁあ…むにゃむにゃ…分かったぁ…ぐうぐう…」 やけに本格的な話を始めたまるちゃんにニヤニヤした僕は、彼の腕に頬ずりしながら言った。 「造形師みたいな事を言う…そんな、まるちゃんが好きだぁ…むにゃむにゃ…」 そして、僕は、まんまとそのまま眠ってしまったみたいだ。 気が付いたら家のある最寄り駅の商店街を歩いていた。 僕じゃない… 僕を背中に乗せた…まるちゃんが、だ。 「…まるちゃん、ごめんね…寝てしまった。もう…歩けるから大丈夫だよ…」 「…」 大きな背中を手でナデナデした僕は、何も言わずに歩き続けるまるちゃんにクスクス笑いながら言った。 「見通しが甘かったんだ…。だから、みんなに迷惑をかけてしまった…。本当は、もっと…余裕を持って…楽しく、作りたかったのに…。何かに追われる様に物を作って…うっうう…こんなの、苦行でしかないよ…!僕は、みんなと一緒に楽しく作りたかったんだ…!ちいちゃんみたいに…みんなと、楽しく…やりたかったんだ。うっうう…まるちゃぁん…」 込み上げてくる涙のせいで、上手く口が動かせなくなった… 言葉を紡げなくなった僕は、まるちゃんの背中に涙を擦り付けてクッタリと脱力した。 そして、何も言わないままの…彼を、不思議に思った。 「どして何も言わないの…」 「…」 力の入らない両手を伸ばした僕は、まるちゃんの肩を掴んで、ぐったりと伸びきった体を起こした。そして、僕をおぶる彼の顔を覗き込んで言った。 「…なぁんだ。ちいちゃんだったのか…」 そう。 僕をおんぶしていた人は、ちいちゃんだった。 いつの間にか…僕は、まるちゃんからちいちゃんに、バトンタッチされた様だ… ちいちゃんはそのまま何も話さないで、僕をおんぶしたまま歩き続けた。 僕は、ちいちゃんの背中に頬を付けたまま、目の前を流れて行く景色をぼんやりと眺めるしかなかった… てっきりまるちゃんだと思って、話してしまった。 君の様に、上手くやりたかった…だなんて、そんな思いを聞かれたくなかったよ。 でも…良いや… 僕は、ちいちゃんの背中に口を付けて…ぼそぼそと、ずっと伝えたかった…後悔の思いを、彼に伝えた。 「…ちいちゃん、ごめんね。反省してる…。全てを君のせいにしてしまった。ちいちゃんは何もしていないのに…僕はいつも、理不尽に…君に、八つ当たりをしてしまった。」 「も…良い…」 ふふ…久しぶりに彼の声を聞いた… いつも傍で聞こえて当たり前だと思っていた君の声は、久しぶりに聞くと…胸の奥が痛くなるくらいに、心地良かった… 僕は、口元を緩めて…彼の背中で涙を拭った。 「うん…」 震えて止まらない唇を噛み締めて、僕は、そのままちいちゃんにおぶられて自分の家まで帰って来た。 「…た、ただいまぁ…」 「あらぁ~…千秋がおぶって来たのぉ?ほぉ~!へぇ~!」 僕をおぶったまま部屋に上がったちいちゃんを見たお母さんは、興味津々に目を輝かせてそう言った。 そんなお母さんの事なんて無視したちいちゃんは、僕を部屋まで運んでくれた。 ガチャリ… 「うわ…春…これは、どこで寝てるんだ…」 そう…僕は、寝ずに4日もぶっ続けでフィギュアを製作してる。 だから、机の上にも、床の上にも、ベッドの上にだって…乾ききらないフィギュアを突き刺したオアシスが、所狭しと置いてあるんだ。 足の踏み場も無い程にね… 「ん…」 ウトウトして来た瞼を閉じた僕は、困った様に唸るちいちゃんの背中を撫でながら、眠りに落ちた。 だって、君の背中は…思った以上に、僕を安心させてくれたんだ。 「駄目だぁ…。ねえ、春の部屋は使えない!仕方ないから、俺の部屋に寝かすわ!」 「あらぁあらぁ…まぁ、あらぁ…ちょ、まじで、うちの子に、変な事しないでよっ?!」 「はいはい…何するってんだよ…!ほんと、馬鹿だな!」 そんな悪態を吐いてゆさゆさ揺れるちいちゃんの背中は、僕には…慣れた場所だ。 きっと、彼も…こんな僕をおぶる事に慣れてる… それは、幼い僕とちいちゃんが、お母さんたちと一緒に商業施設へ遊びに行った時の事だ… もともと歩くのが嫌いだった僕は、そうそうに、ねをあげたんだ。 「んぁ、も、やらぁ!」 「なぁんだぁ!春!お母さん、絶対、抱っこしないからね!フンだ!」 僕のお母さんと、ちいちゃんのお母さんは仲良し。 このマンションに引っ越して来た、妊婦の時からの付き合いだと聞いてる。 うちのお母さんをデデちゃん、ちいちゃんのお母さんをボボちゃんとお互いに呼び合って、姉妹の様にいつも一緒に居た。 ちなみに…どちらの名前にも、そんなあだ名を連想させるような音は無い。 うちのお母さんはさと子で、ちいちゃんのお母さんは、まゆみだもの。 「…はぁ、デデちゃんに似たのね。すぐに疲れるんだわぁ。」 ちいちゃんのお母さんは、僕のお母さんを見ながらそう言って呆れていた。すると、僕のお母さんは、頬を膨らませながら首を傾げて言ったんだ。 「んだぁ!ちっがぁう!春は輪をかけて…ぐうたらなの。春生まれだから…きっと、性根が日和ってるのよ。」 やいのやいの言うふたりの母親は、地面に座り込んで疲れたと抗議をする僕を呆れた様に見下ろした。 すると、どこからともなくやって来た君は、僕に背中を向けてこう言ってくれた。 「…春たん、おいれ?」 「んぁ、ちいたん…!」 幼い頃は対格差なんてさほどなかった… なのに、僕は、遠慮なくちいちゃんの背中によじ登って、クッタリ甘えて満足して言ったんだ。 「好き~~!」 そんな2歳の頃の思い出を…僕は、朧げに覚えてる。 正確に言えば…その後の事が衝撃的すぎて、忘れられないのかもしれない。 僕をおぶったちいちゃんは、背中に乗った僕を楽しませようと、急に走り始めたんだ。 でも、言ったでしょ… 対格差なんて、まだ、無かった。 だから、君はバランスを崩して派手に転んだ… そして、顎を強打して流血事件を起こしたんだ。 あまりに沢山、君の顎から血が出てくるから…僕は怖くなって震えて大泣きしたんだ。 すると、君は、僕を見つめたまま、潤んだ瞳から一滴も涙を落とさないでこう言ったんだ。 「春たん…大丈夫なの…!」 ふふ…! 3針も縫った癖に… まだ、2歳の君は…すでに強かった。 そして、既に…優しかった… 「はぁ…お前の部屋は、ハリセンボンに呪われてるみたいだったな…」 ちいちゃんは自分の部屋にやって来ると、僕をベッドに転がしながらそう言った。 そして、瞼を半開きにする僕の上に、掛け布団を片手で乗せてくれた。 「…ちいちゃん…」 彼に向けて両手を伸ばした僕は、首を傾げながら体を屈めるちいちゃんに手を伸ばして、彼の顎の傷痕を指先で撫でて言った。 「…痛い…?」 「…痛くない。」 ふふ、おっかしい…! 「ふっふふふ…ふふふ…」 不気味に笑いながら彼の布団に顔を埋めた僕は、そのままぽっくりと意識を失った。 鼻に香るのは…ちいちゃんの匂い。 とても、安心してしまうのは…きっと、幼い頃から知ってる匂いだからだ。 「もしもし…あぁ、送ったよ…。え?スケール?…知らない。何それ…本人と話してくれる?春ちゃん!春ちゃん!」 布団を引っぺがされた僕は、突然、体を乱暴に揺すられた。 「んぁあ…」 重たい瞼を半分だけ開いた僕は、携帯電話で誰かと話すちいちゃんを見上げて、首を傾げた。すると、ちいちゃんは、同じ様に首を傾げて僕に言った。 「まるちゃんが、フィギュアのスケールはいつくかって聞いてる。」 「ま、まるちゃぁん…1/35だよぉ…ぐぅ…スヤスヤ…」 「…だってさ!…はぁ?春の部屋はハリセンボンの呪いで寝られなかったんだ。だから、俺の部屋に寝かせてる。…んな事言ったって、春の家のリビングはデデちゃんの健康器具の段ボールで散らかってて足の踏み場もないんだ。仕方ないだろ?…えぇ?面倒くせぇな…はいはい、分ぁかったよっ!」 乱暴に電話を切ったちいちゃんの背中を朧げに見つめながら、僕は再び眠りについた… 寝るって大事だ… だって、僕は少しだけ頭がハッキリして来た気がするんだ。 明日までに回復して…まるちゃんが教えてくれた方法で、レジンの海を作ってしまいたい…。そして、そこに…ゴジラを… ゴジラ…? 「ねえ…ちいちゃん、昔持ってたゴジラ、まだ持ってる…?」 ムクリと体を起こした僕は、暗くなりかけの窓の外を見つめながら、僕の隣で寝転がって漫画を読むちいちゃんにそう聞いた。すると、ちいちゃんは首を傾げて、僕を片手で布団に沈めて言った。 「寝てろよ…!」 ヤバい…! 僕は、うっかり…ゴジラを買うのを…忘れてたぁ…! 「ん、ゴジラが要るんだ…。ちいちゃんの、まだ持ってたら僕に頂戴よ!」 「はいはい…分かった!分かった!寝ろ寝ろ!」 ちいちゃんは僕の胸の上に腕を乗せて、起き上がれない様に押さえつけた。そして、僕の顔を覗き込んで言った。 「寝ないと、また、倒れるぞ…?!」 「倒れた訳じゃない…寝たんだ…。ただ、寝ただけ…」 ちいちゃんに向けて寝返りを打った僕は、良い匂いのする彼の胸に思わず顔を埋めた。そしたら、ゴジラの事なんてすっかり忘れて…そのまま…ウトウトと重たい瞼を落として、寝てしまった。 「春…大好きだよ…」 …そんな誰かの声が聴こえた気がしたけど、きっと、夢でも見ていたんだ… ぐぅ… ピンポン!ピ…ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピンポン! 「はぁ~!怖いねぇ!」 そんなちいちゃんの声と共に、ベッドがきしんだ。 信じらんないね…彼は、読みかけの漫画を、僕の顔の上に開いて置いて行った… それにしても…あんな猟奇的なチャイムを鳴らす宅配便、ヤバ過ぎる。 多分、彼は殺される… ぐぅ… ガチャリ… 「あれからずっと、死んだ様に寝てんだ~。ただ、揺すって起こせば、一瞬だけ起きるみたいだ。あっはっはっは!」 「春ちゃん…」 まるちゃん…?! ガバッと布団から飛び起きた僕は、髪を振り乱したまるちゃんを見上げて首を傾げて言った。 「まるちゃん…どうしたの…?」 すると、まるちゃんは僕の隣に腰かけて、いつもの様にやさしくこう言った。 「…春ちゃんが寝ちゃったから、抱っこして駅まで行ったんだ。そしたら、千秋先輩が改札の前に居て、春ちゃんを待ってたみたいに俺に近付いて言ったんだ。はい、どうも…って。そして、そのまま背中に春ちゃんを乗せて、連れてった。なんの音沙汰もないから、無事に送り届けたのかも分からなくて、ヤキモキしたんだ。」 へぇ… まるちゃんは熱を測る様に僕のおでこに手を当てて、首を傾げた。 僕は彼を見つめたまま大きなあくびをひとつして、にっこりと笑った。そして、閉じてしまった漫画を手に取ってページを探しながら言った。 「…まるちゃん、1/35のスケールだ。隣の僕の部屋に行こう?まだ、120体しか作れてないけど…そもそも、1000体は無理だった。だから、600体に数を減らす。まるちゃんが言った様に、主要の人物だけ描き込んで…他は立ちんぼのポージングで…服と髪だけ染めるよ。この妥協は、僕の力不足だ…致し方ない…。」 項垂れた僕の髪を撫でたまるちゃんは、体を屈めて、僕の顔を覗き込んだ。そして、優しく微笑みながらこう言ってくれたんだ。 「春ちゃん、それは妥協じゃない。本来そうするべきなんだ…。際立たせる為に、わざとその他大勢を描き込まない。それは技術だ…」 まるちゃん… 「ふふっ!なんだか、まるちゃんは…ずっとプロみたいなアドバイスをくれる…!」 僕はケラケラ笑いながら、まるちゃんを見つめてそう言った。 だって、本当だ。 後藤くんに話したレジンのアドバイスも、僕に言った事も…どれも、理にかなった洗練された意見だ。 こんな事が簡単に言えるなんて…おかしいよ… 伺い見る様な僕の視線に気づいたまるちゃんは、目を点にして、不自然に視線を逸らし始めた。 そんな彼の動揺を感じた僕は、まるちゃんの膝に跨って、必死に顔を逸らし続ける彼の頬を両手で挟んで掴んだ。 そして、目を泳がせるまるちゃんを間近に見つめて、首を傾げて聞いた。 「…君は、何を隠してるの…?」 「う…」 僕の気迫に観念したのか…まるちゃんは、言い辛そうに口ごもりながら言った。 「お、親父が…プロモデラーなんだ…」 は…?! 「…へ?」 「親父が…だから…その、」 「プラモデルなのかぁ…!はぁ…可哀想な家庭じゃないか!夜ご飯はプラスチックだぁ!」 大事な話の途中なのに、ちいちゃんがふざけてそう言った。 そして、まるちゃんの膝の上で固まる僕を抱えて床に下ろすと、残念そうに眉を下げながら、首を横に振って僕に言った。 「まるちゃんのお父さんは…プラスチックのモデルなんだって…!」 「違います。」 まるちゃんは、すぐに否定した… プ、プロモデラー… 僕は、彼の発した言葉に驚愕して、開いた口が塞がらなくなった。 造形師だ… 造形の仕事は、フィギュアの原型を作るだけじゃない…。今はCADに成り代わったが、昔は、プラモデルの原型も人が作っていた。そして、プロモデラーはそれに成り代われる人だ…と、僕は思ってる。 オプションパーツをパテで自作したり、ガレージキッドで作品を売ったり、大会で賞を取ってる…立派な、造形師だ… 凄い… プロの造形師なんて…今日日、天然記念物だぞ…?! 凄い… 自然と、体の奥からメラメラと熱い炎が沸き起こって来て…僕の体を小さく震わせた。 まるちゃんはそんな僕を横目に見ながら、言い辛そうに話の続きを再開した。 「…雑誌に記事を書いたり…プラモデルの大会に審査員として出てる。いつもは、模型屋の店主をしてる。それが…俺の親父だ。」 「へ…?」 模型屋の…息子…だと?! 「そんな、大事な事を…なぜ言わなかったぁっ!!」 僕は思わず、唾を飛ばしながらそう叫んだ… 君は言わば…サラブレッドだ! 模型屋で、プロモデラーのお父さんの息子だなんて… やっぱり、君は…神様の奇跡だったぁ!! 君がこの事実を僕に隠した理由は…ひとつしかない。 一度は諦めた君を…再び、僕が求め始める事を…危惧してるんだ。 「へ、へぇ~…そうなんだぁ。で、まるちゃんはさぁ…今、何作ってるのぉ…?」 燃えさかる熱い炎をひた隠しにした僕は、気の無い素振りで、さりげなく彼にそう尋ねた。 プラモデルを作る人は、大抵…こう聞かれると、素直に答えてしまう… これはサガだ。 隠したくても…隠せない、サガなんだ! 落ち着いて話す僕に安心したのか…まるちゃんは、首を傾げながらも、素直に僕の問いに答えた。 「…え?今は、M4シャーマン…」 やっぱり! この子は、バリバリの現役だ! 模型部に入らないで、バスケ部に入っても…家で、中戦車を作ってる! あぁ、まるちゃん…君の謎が解けたよ。 君は、プロモデラーのお父さんの技術と、作業工程を、見ているね… だから、レジンの効果的な使い方も、フィギュアの効果的な魅せ方も、知っていたんだね。 器用な手先と、プロの技術を熟知した知識を持ってる…。そして、何よりも…中戦車を組み立てようって考える時点で、君は立派なオタクの魂を持ってる。 でも、ツーブロックの陽キャ… こんな逸材…めったにお目にかかれない…!! 体の中で燃え上がった炎は、あっという間に、死んだ僕の瞳を生き返らせた…! 僕はまるちゃんの両手を握って、ウルウルとうるんだ瞳を彼に向けた。 そして、鼻から声を出して、精いっぱいのぶりっ子をして言った。 「…まるちゃん!模型部に…ようこそっ!!」 「ほらぁ!だから、言いたくなかったんだぁ!」 「なぁんでぇ?!君がいてくれたら…100人力なんだぁ!わ~はっはっはっは!!」 顔を歪めて嫌がるまるちゃんをベッドに押し倒した僕は、彼の上に跨って言った。 「模型部に、入れぇいっ!」 「嫌だ…!」 くそ…! 何で、そんなに、頑なに…居るべき場所へ向かう事を拒絶するんだぁ!! 「駄目だぁ!まるおは模型部に…入る事になったんだぁ!」 まるちゃんの頬を摘んでプニプニしながら僕がそう言うと、まるちゃんは僕のおでこを何回も叩いて嫌がった。 「…もう!嫌なんだって!初めから、まるちゃんはそう言ってるだろ?彼はバスケ部のエースになるんだから、全く!…仕方が無いじゃん。春ちゃん…諦めなよ!」 ちいちゃんは呆れた様にそう言って、僕を後ろから抱えて持ち上げた。そして、ベッドに押し倒されたままの状態で、僕を見上げるまるちゃんに向かって言った。 「退いて!掛け布団を…こう、持ち上げてて?」 言われた通りに、まるちゃんはそそくさとベッドを退いて、掛け布団を持ち上げた。 「いち、にの、さん…で行くから…」 そう呟いたちいちゃんの言葉に頷いたまるちゃんは、掛け布団を構えて僕を見た。 「ま、まるちゃぁん…模型部に、入ってよぉ…!!」 僕は切実な思いを込めて、まるちゃんを見つめた。 君が模型部に来てくれたら…僕は、ハッピーなんだ… 君が…模型部に、新しい風を巻き起こす…ムーブメントを起こす存在なんだぁ!! 「あ~しつこい…しつこいなぁ…。行くよ?いち、にの…さん!」 ちいちゃんはそんな掛け声と共に、僕をベッドに放り投げた。 「んがぁ!ま、まるちゃぁん!」 ギョッと顔を歪めたまるちゃんが、体を起こして彼を見上げる僕…目がけて、掛け布団を放り投げる瞬間を見た… 「ほい!ほい!あ、ほいっと…!」 あっという間に、ちいちゃんによって掛け布団でグルグル巻きにされた僕は、身動きの取れない体をジタバタさせながら怒って言った。 「んん、ぁあ!ちいちゃん!これ解いてよぉ!」 「ん~にゃ…春ちゃんは、これから再び永い眠りに付くんだ。お~ヨチヨチ…ヨチヨチ…。ねんねんころりん…ねんねんころりん…」 僕の抗議に首を横に振ったちいちゃんは、僕のお腹を布団越しにポンポンと叩いて、隣にゴロンと寝転がった。そして、漫画本を手に取りながら、まるちゃんに向かって言った。 「ほれ、今のうちだ。逃げるんだ!後ろを振り返っては駄目よ~!」 「ま、まるちゃぁん…!ど、どうしてぇ…?!」 「…ごめん!春ちゃん…!」 分からないよ… どうして、そんなに、模型部が嫌なのか… 分からないよ… どうして、あの時…僕にキスしたのか… まるちゃん…!! 「…好きなだけ、俺のせいにすれば良いさ…」 まるちゃんの居なくなった部屋で、僕をグルグル巻きから解放したちいちゃんがそう言った。そして、そのまま僕の隣で黙々と漫画を読み始めた。 そんな彼を横目で見た僕は、ため息を吐きながら言った。 「…しないよ。もう…そんな事、しない…」 すっかり眠気の冷めてしまった僕は、ペラペラとちいちゃんが漫画のページをめくる音を聞きながら、彼の部屋の天井に貼られた蓄光する月のステッカーを見つめて言った。 「…あれ、光るの…?」 「ん?光る…」 へぇ… 「電気、消してみて…?」 「はぁ…ハイハイ…」 ちいちゃんは、僕のリクエストに面倒臭そうに応えて、手元のリモコンで電気を消してくれた。 時刻は夜の7時過ぎ… 窓の外は未だに明るくて少し物足りないけど、部屋の中は薄暗くなった。 「わぁ…!」 意外と、悪くない… そんな蓄光の薄黄緑色の光は、月の形のせいか…妙に幻想的にさえ見えた。 「ちいちゃん…キスって…どんな人にするの…?」 月を見つめたまま、僕は隣に寝転がるちいちゃんに、何気なく、そう尋ねた… だって、君は色々を経験してるだろ…? あの時から、あの事が、僕の頭の中を…少しだけ悩ませてるんだ。 好きだからキスしたのか…そうじゃなくてもキス出来たのか…あの時、ハッキリと、彼の気持ちを聞けば良かった。 僕は、モヤモヤする気持ちを抱えたまま…まるちゃんに甘えてるんだ。 だから、ねえ…教えてよ。 君はきっと、僕よりも詳しいだろ…? あのキスの意味は、何だったのか…教えてよ。 「…好きじゃなくても出来る…?それとも…好きな人にしか出来ない…?」 「どうして…?」 僕を見下ろしてそう聞いて来た君の顔は、部屋の中よりも明るく光る窓の外のせいで、よく見えなかった。 でも、指先に触れる顎の傷のお陰で、君がちいちゃんだと分かるよ。 「ずっと、気になってるんだぁ…」 そう答えた僕の唇に…生暖かい風があたって、柔らかい君の唇が重なった。 ふぁっ…?! その瞬間、君が…女の子にキスしていた所を思い出したんだ。 僕が、1週間…熱を出して寝込んだ時の事さ… 一気に胸の奥が苦しくなって、痛くなって、悲しくなって…涙が溢れて来た… 「んがぁっ!」 ちいちゃんを思いきり押し退けた僕は、何も言わない彼の上に跨って乗った。 そして、泣きながら、彼を引っ叩いて言った。 「からかったなっ!ぼ、僕を…からかったなぁ!ちいちゃんみたいに…沢山の女の子とキスする奴になんて…僕の気持ちは、分からないだろうなっ!!くそっ!くそっ!」 「…春!」 ちいちゃんは聴いた事も無い様な声で僕を呼んで、強く抱きしめた。そして、そのまま僕をベッドに押し倒して、ピクリとも動かなくなった… 「な、なぁんだぁ…」 僕は、こんな状況に慣れていないんだ… 動揺を隠す事も出来ないまま、僕は、震える声で体の上に覆い被さったちいちゃんに言った。 「…や、やめてぇ…」 「…さっきの、質問の答えを教えてやるよ…」 僕の耳元でちいちゃんがそう言った。 両肩を抱える様に抱きしめられた僕は、彼の頬が自分の頬に当たるのを感じながら、身動きも取れずに、薄ぼんやりと光り続ける月を見つめ続けた。 「…好きじゃなくても、キスなんて出来る…。それ以上の事だって、出来る…。」 僕の頬に当たった彼の頬から、生ぬるい涙が流れて伝って落ちて来た。 そんな彼の様子に、落ち着きを取り戻した僕は、ちいちゃんの涙を指先で拭いながら彼を見つめて静かに聞いた。 「…さっきみたいに…?」 「違う…。」 ちいちゃんはにっこりと笑ってそう言った。 …そして、僕の唇に再びキスを落として言った。 「本当に好きな人には…なかなか出来ない。嫌われたくない…。傷つけたくない…。離れてしまったらどうしよう…。そんな思いが頭を巡って…勇気が出せない。」 あぁ… 「だから…どうしたら良いのか分からなくて…考えあぐねて、空回りする。そんな事を繰り返していたら…いつの間にか、どこかに行ってしまう…」 「ちいちゃん…」 僕の心臓はドクドクと脈打って、耳の内側から鼓膜を揺らして音を響かせた… どうしよう… その言葉が頭の中をずっとグルグル回って、僕は、ちいちゃんに触れた指の先まで、動かせないでいる。ただ、僕の上に覆い被さった彼に、神経の全てを集中させて、次のアクションを待った… 今まで、何度も一緒にごろ寝をして来た体なのに、彼なのに、どうしてか…僕は、全く別人の腕の中に居る様な…得も言われぬ緊張感の中に居る。 「…って、本に書いてあった…」 僕の髪を掠める様に顔を動かして、ちいちゃんはそう言いながらベッドに仰向けに寝転がった。 僕は、まだドキドキする胸を抱えたまま、天井に貼られた月を見つめて、気の抜けた声でこう言った。 「…へえ~」 この後、どうしたら良いの…? 僕は起き上がって、この部屋を出るべきなの…? おもむろに漫画を読み始めたちいちゃんを横目に見ながら、僕は考えあぐねた結果…いつの間にか、眠ってしまった。 まるで…ちいちゃんは、僕の事を言ってるみたいだった… それとも、また、からかわれたのかな… 君の気持を聞いていないから…僕には、分からないよ。 ジリリリリリリ…!! ちいちゃんの目覚ましはいつもこうだ…。何年使ってるのか…未だにアナログで、ハンマーが鐘をけたたましく叩き続けるんだ! 「ちいちゃん!うるさい!止めて!」 「んぁああ…」 隣でゴソゴソ動いたちいちゃんが目覚ましを止めた… やっと訪れた静寂の中、僕は髪にかかるちいちゃんの息を感じながら、気持ち良く二度寝を始めた。 「おい!春!千秋!起きろ~っ!今日から学校だぞっ!デデちゃんが激おこだぞ?あ~はっはっは!春が、お泊りしたぁ~!って、激おこだぞ!」 そんなちいちゃんのお母さんの言葉に、僕は目を見開いて体を起こした。そして、自分の体に纏わり付いたちいちゃんの手を退かしながら聞いた。 「ボボちゃん、い、今、何時~?」 「はん!おやじでんぷんがびょうだよっ!ほらっ!朝ごはん食べて、家に帰って…着替えて、学校行きなさい!」 「あぁ…まずい…!」 未だに寝続けるちいちゃんの体を踏んづけながらベッドを下りた僕は、ニヤニヤするボボちゃんに首を傾げて聞いた。 「お母さん、怒ってた?」 「あぁ…怒ってたぁ…。言ったんだよ?うちで不純同性交遊はしてないって…。でも、デデちゃんは…疑い屋のドングリだから。鼻息が荒くなってたよ?」 まずい… 僕は、ちいちゃんの妹…すみれちゃんの隣に腰かけて、ボボちゃんの作ってくれた朝ご飯を食べ始めた。 「ね、春…昨日の夜、セックスしてたの?」 そんな女子中学生の質問に首を傾げた僕は、寝ぼけた目のまま、すみれちゃんを見て言った。 「寝てたんだよ…」 「へぇ…本当かなぁ…?」 男は女の出来損ないの生き物…女の方が、生き物として完璧な姿をしていると…テレビで見た事がある… だから、女は、疑い深いんだ。馬鹿では、種は絶えてしまうからね… 疑い深くて、賢くて、強いんだ… 「春、千秋を起こしてから家帰ってよ!」 ごちそう様をして片付けをする僕の背中に、ボボちゃんがそう言った。 もう、7:30を過ぎたというのに、ちいちゃんは未だに部屋から出てこない。まったく、相変わらずの寝坊助だ… ガチャリ… 「ちいちゃん…。も、7:30だよ…?僕は家に帰って…シャワーを浴びたいから、もう帰るからね…?」 うつ伏せて眠り続けるちいちゃんの背中をポンポン叩くと、彼はやっと目を開いた。そして、ジロリと僕を見上げて言った。 「…春ちゃん、起こして…」 まぁったく! みんなの人気者で、高身長、そして…幼馴染の僕が言うのもなんだが、女の子にモテモテなビジュアルのちいちゃんは、朝が極端に弱いんだ。 こんなにだらしのない君を、きっと…僕や、家族しか知らないだろう? 「ん、も~!」 バシン! ちいちゃんの大きな背中を引っ叩いた僕は、彼の体の下に手を入れて、朝も早よから…全身全霊を掛けて彼の体を起こしにかかった。 「お~きて~!」 やっと持ち上げた重たい上半身を、ちいちゃんはのそりと腕で支えた。そんな彼の様子を確認した僕は、急いで彼の胸の下に潜り込んで、自分の体と一緒に踏ん張って持ち上げた。 いつの頃か…彼を起こすにはこの方法しかないと…独自に思いついた方法だ。 大きく成長した彼の体は、思った以上に重たくて、もやしのひ弱な腕では転がす事すら不可能になった。だから、僕は…介護の様に全身を使って…彼の体を起こすんだ。 「っぁああ…!お、起きる!」 「はぁはぁ…ちいちゃぁん…早く、早く、起きてぇ!」 「あぁあ…お、起きる!!」 口だけなんだ! それを証拠に、相変わらず脱力するちいちゃんの体は、僕の背中に圧し掛かって、いつまで経っても自立しようとしない。 「はぁはぁ…つ、疲れる…ちいちゃん!はぁはぁ…早く起きてってばぁ…!」 息を切らした僕は、苛立つ気持ちを頭に込めて、彼の胸に向かってガスガスと、ぶつけて怒った。 ガチャリ… 「千秋…起きたか…?」 そんな声と共に、ちいちゃんのお父さんが部屋にやって来た。 面倒な事は、いつも、男の仕事なんだ…!! 「んぁあ…おじちゃぁん!僕は、もうダメだぁ…!!」 力尽きた僕は、ベッドに突っ伏してちいちゃんの下敷きになった。 「あぁ…!春!こら!千秋…!起きろっ!」 寝起きが悪いのは、厄介だ…! 家に帰った僕は、お母さんの冷たい視線を受けながら、シャワーを浴びて、制服に着替えた。 「はぁ~…!春ちゃん…。はぁ~!信じられない!」 お母さんは、そんなため息と言葉を投げつけながら、僕の後ろを付いて回った。 「…お母さん?今日は部活で遅くなるね…?」 僕がそう言うと、お母さんは大げさに目を丸くしてこう言った。 「はぁ~!信じられない!春ちゃんが…どんどん遠くに行っちゃうみたいだわ!」 僕は、散々、今までだって、遅くに帰って来たのに… 僕を見るお母さんの目が変わってしまったみたいだ。そして、テンションの高いお母さんは、そんな行為を、楽しみながら行ってる。 質が悪いんだ。 「じゃ…行ってくるね?」 「まぁ~!あらあら…まぁ~!行ってらっしゃい!」 僕のお母さんは、お父さんのいう所の…少女の様な、おばさんだ。 僕はそれを嫌だなんて思った事は無いよ。でも、こんな風にしつこく絡まれると…面倒だな、とは思う時もある。 その日の放課後… 「春ちゃん、木枠のサイズはこれで良い。後は…レジンを流し込むだけだ。」 「しめしめ…!」 ゴム手袋を付けた僕は、陣内くんの用意してくれた木枠の中にレジンを流し入れた。トロトロと伸びていくレジンを見つめながら、軍艦を両手に握って、ソワソワする南條くんに言った。 「南條くん、向こう側が陸だよ。そして、ゴジラはこの位置に配置予定だ。上陸をしようとしてるゴジラの背中に向かって…主砲を向けて軍艦を配置して…?」 南條くんはコクリと僕を見て頷いて、両手をフルフルと震わせながら絶叫して言った。 「はぁはぁ…!おらぁ…おらぁ…わがんねっけど、興奮して来たぁぁ!」 分かるよ…南條くん。 自分の模型が情景に混ざる時の興奮は、得も言われぬ物なんだ… まるで、ここに来るために作られていたの…?そんな思いを抱いてしまう程に、しっくりと周りにマッチしていく様子が…ジオラマ作りの楽しい瞬間のひとつだ。 「春ちゃ~ん!ほらぁ、ゴジラ、持って来てやったぞ~?」 ガヤガヤと聞こえる周りの人の声を引き連れて、ちいちゃんが模型部の部室へやって来た。そして、レジンに全集中する僕の顔を覗き込んで、こう言って来た。 「…何してんの?」 「レジンを木枠に流し込んでる…。まるでガラスのケースを作る様に…この透明な液体で箱を作るんだ。それを海に見立てて…空間を彩る。本当は、レジンを流し込んで固めたかったけど…それには900リットルなんて莫大の量が必要だった。それは、不可能だ…。だから、妥協した。」 ちいちゃんを横目にそう言った僕は、彼の持って来たゴジラを受け取って、おもむろに下半身をのこぎりで切断した。 「あぁ~~~!」 「後藤くん、エアブラシで吹いて来て!」 「ラジャ!」 切断したゴジラを後藤くんに手渡した僕は、不満そうに口を曲げるちいちゃんを見上げて笑いながらこう言った。 「…あの子は、このジオラマの主役の一人だよ…?ここに作る街を破壊しに海からやって来たんだ。今は、ぶった切られた姿だけど、完成すれば…きっと、一番に目を引く筈だ。よしよし…!ふふっ!」 「そう…なら、良かった。」 瞳を細めて笑った君が、どうしてかな…とっても格好よく見えた。 きっと…昨日の出来事を引き摺ってるんだ。 あんな君を、僕は、見た事が無かったから…未だに、動揺してるんだ。 そんな事を胸の中に隠す様に、僕は、ちいちゃんを見上げて口端を上げて笑ってみせた。すると、彼は、僕の髪を撫でて、踵を返して体育館へと行ってしまった。 ねえ、ちいちゃん…どうして僕に、キスしたの…? 悶々とする問題を抱えたまま、僕は、木枠に広がったレジンに戦艦を配置する南條くんを見つめて、彼のタッパーの中のべったら漬けを口の中に放り込んだ。 「レジンが固まったら…木枠から外して、仮付けしてみよう。」 僕がそう言うと、1年生がおずおずと僕の元へやって来て、上目遣いにこう言った。 「…は、春先輩!ぼ、僕たち…海底を造形してみたいです!!任せてくれませんか?!」 な、なぁんだって~~?! 「も、もちろんだよっ!やってみてよ!!」 僕はふたつ返事でそう言った。 思わず笑顔になった頬が、なかなか元に戻らない。 …とっても嬉しかったんだ。 だって…僕は、こんな風に、みんなで…ひとつの作品を作りたかったんだから…! 夏休みの殺伐とした現場の雰囲気が…いつの間にか、明るい、活気のあるものへと変わって行った。 その理由は何だろう… 僕が昨日ぶっ倒れたから…? それとも、一番厄介なレジンに先が見えたから…? 何はともあれ…僕は、いいや。僕たちは…先の見えなかったあの混沌から、少しだけ、抜け出せそうな希望を持つ事が出来た。 「先輩!アトランティスの再現度は、どの程度をご希望ですか?」 そんな1年生の声に頬を上げて笑った僕は、満面の笑顔で言った。 「自由だよっ!君たちの思ったままに、造形してよっ!ただ、ひとつだけ…僕のリクエストを聞いて?宝箱を…どこかに置いて欲しいんだ。」 「了解~!」 「春ちゃん…ゴジラにとりあえずひと吹きして来た!で、どこまでやる?」 後藤くんの持って帰って来たエアブラシの吹かれたゴジラを見つめた僕は、目じりを下げて彼に言った。 「…この子は…僕が色を付ける。だから…僕の作業台の上に置いておいて…?」 「ラジャ!」 あのゴジラで、ちいちゃんと、よく遊んだ… 僕のミニカーを、ローラースケートみたいに足で踏んづけさせて、器用にあちこちを滑らせて遊んでた。 懐かしいな…

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