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秋_第2話

「春氏!それがしたちのレールを設営する場所を確認したいでござる!」 そんな伊集院くんの声に我に返った僕は、首にかけたゴーグルと防塵マスクを付けて、ジオラマへ向かった。 発泡スチロールが切り出されただけの手付かずの造形を、今日から、僕と、陣内くん、そして、助っ人の3人で…作り込んでいくんだ。 僕は、やすりを手に持って陣内くんに言った。 「この山に、今、トンネルを掘ってる。あと、下には、踏切と…駅。そこには、分岐を付けた車庫を作る。そこを走る電車の車窓からは、海辺を回る…江ノ電みたいな雰囲気の景観が見えるんだ。…ねえ、素敵だろ?」 「そこに、砲撃を食らうゴジラが登場する訳でござるね…それは、素敵な非常事態でござる!」 そう言って伊集院くんはケラケラ笑った。僕は、同じ様に笑って、彼に細かい設置場所の指示を出した。 「このマスキングテープの上…ここは、全てぐるっと…フラットになる様にやすりを掛けてあるんだ。まず、ここに…石膏を塗って、乾いたら指定した下地の色を付けて…?紙粘土は大量に買ってあるから、線路周りからディティールを作り込んで行ってくれても構わないよ?」 「了解でござる!」 1年生を従えた伊集院くんは、僕のやすり済みの線路予定地を、指で撫でて、顔を上げてこう言った。 「…春ちゃん、感謝するでござる。こんなに丁寧にやすりを掛けてくれていただなんて…それがしは、何も知らなかったでござるよ…」 「Nゲージは、ジオラマのもう一つの顔さ。だから…止めたらダメなんだ。滞りなく回る事が一番の肝さ。ねえ、そうだろ…?」 潤んだ伊集院くんを見つめた僕は、脚立に登って、山にトンネルを掘り始めた。 途中でNゲージが脱線でもしない様に…トンネルは所々手を入れられる隙間を作ってる。この山の合間から見える景色は…きっと、このジオラマの中でも…一番美しい筈だ。ふふ…!楽しい! 僕は、細かい粉を巻き上げながら、必死に発泡スチロールにやすりを掛けた。 眼下では、陣内くんが、建物を建てる立地をなだらかに成型していて、1年生がニクロム線の張ったカッターで海底の造形を大まかに切り出し始めた。 よしよし…良いぞ… 「…おわぁ!は、春ちゃん…て、手伝いに来たよっ!」 模型部の部室を覗き込んだ彼は、驚いた様に目を丸くしてそう言った。 「まるちゃぁ~ん!」 だから、僕は手を振りながら彼に言った。 「まるちゃんも、防塵マスクを付けて…?今、ここは危険地帯なんだ。ゴーグルは…あそこに置いてあるから…。ビニールのこっちに来る時は…必ず防護して?」 そう…模型部の部室の中は、今、凄い状況になっている。 ジオラマの造形班と、細かい作業班に分かれて、部室を2分割して、間にビニールシートを張ってあるんだ。 理由は、これのせいだ…。発泡スチロールの…造形。 大まかに切り出した部分に何度もやすりを掛けてなだらかに成型していくから、どうしても細かい粉が舞い散るんだ。それを間違って吸い込まない様に…ビニールで間仕切りをして、ジオラマの造形班には、防塵マスクと、ゴーグルの着用を必須としてる。 備え付けられていた本棚、備品の棚。すでに出来上がった物を飾る棚には、ビニールシートを掛けて、汗だくになりながら、窓を全開にして作業してる。 「あぁ、本格的な作業場だね…?」 穏やかにそう言って防塵マスクを付けてゴーグルを掛けたまるちゃんは、ビニールのこっち側に入って来て、進捗を眺めて言った。 「わあ…上出来じゃない?」 ふふ… 「まだだぁ!山の中腹にトンネルを開けたいんだ。僕がこっちから掘るから…まるちゃんは向こう側から掘ってくれない?まずは…トンネルの上で繋いで…高低差が出来ない様に…僕の掘った高さに合わせて地面をやすって行くんだ。…まるちゃん、やってくれる?」 そんな僕の言葉に、まるちゃんはにっこりと笑ってこう言ってくれた。 「…ふふ、良いよ。」 あぁ…ふふ…まるちゃん… 君の笑顔は、相変わらず…100万ボルトだ。 「レジンが固まったら、一度仮付けしようと思ってる。1年生が…海底の造形を受け持ってくれた。だから…僕は、ここが終わったら…ゴジラの着色に取り掛かろうと思ってるんだぁ。」 「あ~…なる程ね~…」 そんな事を話しながら、まるちゃんを見つめてトンネルを掘っていると…僕の指先に、誰かの指先が触れた。 「あ…」 目を丸くして、お互いの顔を見つめ合った僕たちは、どちらともなくクスクス笑いながら、トンネルの中で触れた指を確認する様に何度も撫で合った。 「トンネルが…開通したぞ~~!」 そんな僕の雄叫びに、部室の中から拍手が沸き起こって…みんな笑顔になって、こう言ってくれた。 「よっ!春ちゃん!男前だぞっ!」 ふふ… 「まるちゃんが来たら、あっという間に開通した。ふふ…」 デレデレに鼻の下を伸ばした僕は、額に汗ばむ彼を見つめて、にっこりと微笑みかけた。すると、まるちゃんは、僕の髪の毛に付いた発泡スチロールを指先で摘んで、こう言った。 「やったね…?春ちゃん。」 「うん…!」 うん… うん…! でも、まだまだ、これからだ… 「レジンのボックスを付けただけでは、水中の雰囲気が出なかった…水中の表現を、どんな手法で表現しようか…頭の悩ませ所だね?」 下校時間を迎えた模型部は、各々宿題を持ち帰って帰宅した。 僕は、まるちゃんと一緒に駅へ向かいながら、レジンの海を仮付けした時の率直な感想を言っていた。 「水中ってさ、気泡が出来るだろ…?あれをどんなふうに表現すれば良いのか。」 僕がそう言うと、まるちゃんは何度も頷きながら、唐突にこう聞いて来た。 「春ちゃん、昨日、千秋先輩の家に泊まったの…?」 へ? 「うん…気が付いたら朝になってて…参ったよ。睡眠って大事だね?今朝なんて、ちいちゃんの妹と一緒に朝ご飯を食べたんだ。うちの妹と同い年なのに…すみれちゃんは、しっかり…女子してた。」 僕は、まるちゃんを見上げて、口を尖らせてそう答えた。すると、彼はもごもごと唇を動かして、眉間にしわを寄せた。 ん…? いつもと違う彼の様子に首を傾げた僕は、反対側に首を傾げ直して聞いてみた。 「どうしたの…?まるちゃん…?お腹でも痛いの…?」 「…春ちゃん。明日も、模型部を手伝いに行くね…?」 少しだけ表情を曇らせたまるちゃんは、僕の頭を撫でて笑った。 そんな彼の表情が気になって、僕は咄嗟に帰ろうとする彼の腕を掴んで止めた。 「春ちゃん…?」 「どうしたの…?まるちゃん。どうしてそんなに悲しい顔をするの…?」 この手を離してしまったら、きっと僕は…あの時のキスみたいに、君を思って、悶々とした時間を過ごさなくてはいけない事になる。 そんな事は、容易に想像がついたんだ。 だから…今、君に聞くよ… 「どうしたんだよ…」 「…どうもしてないよ?」 「どうもして無くないよ…?だって、ここにしわが寄ってる。いつもは何もない所に、しわが寄ってる!」 まるちゃんの眉間に手を伸ばした僕は、目に見える彼の変化を言葉にして教えてあげた。 「後…ここが、ちょっとだけ…いかついてる!」 まるちゃんの両肩を触ってそう言うと、彼は吹き出し笑いをしてこう言った。 「それは…元からだろっ?!」 「ん、違う!僕は、まるちゃんのフアンだからね。君の事は、君以上によく見てるんだ!さっきから急に、ここが…少しだけ、いかつき始めてる!」 両肩に力が入ったのか…確かに、まるちゃんの両肩が上がった気がしたんだ。 僕の言葉にため息を吐いたまるちゃんは、いかついた肩を落としてこう言った。 「…実は、後悔してるんだ。昨日…駅で春ちゃんを千秋先輩に渡してしまった事。そして、春ちゃんを千秋先輩の部屋に残して帰ってしまった事…。その2つを…俺は後悔してるんだ。だから…肩が、いかついたのかもしれない…」 な、なぁんだってぇ…?! 「我を失った僕が、君を、無理やり…模型部に誘ったから…嫌だったんだろう?ごめんよ…。」 僕は、バツが悪くなって…上目遣いにそう言った。 我慢出来なかったんだ。 プロモデラーの父親を持つ模型屋の息子のまるちゃんが、模型部に入らない事にも…頑なに拒絶する事にも…我慢できなかった。 まるちゃんは、シュンと猫背になった僕の背中を撫でて、優しく言ってくれた。 「春ちゃん。俺は…バスケットが好きなんだ。だから…模型屋の息子でも…バスケ部に入りたかった。プロモデラーの親父を見ているせいか…俺は、程々の趣味で留める程度に…プラモデルを楽しみたいって思ってるんだ…。」 そうか… ふざける訳でもなく、おどける訳でもなく、真摯な瞳で僕にそう言ったまるちゃんを見つめて、僕は項垂れて言った。 「…うん。分かった…。ごめんよ…。僕は、どうしても…まるちゃんの事になると、理性が吹っ飛んでしまう様だ。ただ…ずっと、傍に居たくて…君を無理やり模型部に誘っている節もある。恋する乙女の様に…見境なく、がっつき過ぎてるんだ…」 君は…手先が器用でも…お父さんがプロモデラーでも…実家が模型屋でも…バスケットボール部に入りたかった…まるちゃんなんだ。 そして…模型部には入らずとも…無計画にジオラマを作る、僕の助っ人をしてくれる…優しい男なんだ。 「まるちゃぁん…!明日も…明日も、手伝ってくれる…?」 ウルウルの潤んだ瞳をまるちゃんに向けた僕は、人目も憚らず体をクネクネさせて、まるちゃんに甘ったれて求愛した。 そんな僕を見つめたまるちゃんは、鼻からため息を吐いてこう言った。 「分かったよ…?」 「イーーーーーッイエスッ!」 恋は、人をおかしくする… 僕は、人目なんて…もはや、気にならなくなったみたいだ。 無敵の心を手に入れた僕は、微妙なステップを踏みながらまるちゃんの周りを小躍りして回った。 とっても、嬉しいんだ…! だって、明日も彼と一緒にジオラマを作れる…こんなの、幸せ過ぎる!! 僕は…彼が、大好き! 「お坊さんは…何人目の…住人だ…?彼がいるという事は…瓦造りの寺を作らないとダメじゃないか…ぐぬぬ、ぐぬぬぬ…」 自宅に帰った僕は、早々にご飯と風呂を済ませて自室にこもった。 そして、相変わらず…紙粘土で作ったフィギュアの彩色をしていた。 ブツブツ話す僕の声に重なって…隣の部屋から、ちいちゃんの声が響いて聞こえて来た。 お母さんと喧嘩でもしてるのか…彼の声は荒かった。 「うるせえな!自分で決めるって言ってるだろっ!!」 「あ~たはね、いっつもそう!自分で決めるって言って…!ぎゃあすかぎゃあすか!」 …ちいちゃんは、何かの決断を迫られている様だ… 面相筆を下に置いた僕は、ぼんやりと宙を見つめながら、聞こえてくるちいちゃんの声に耳を澄ませた。 「今月末までに、決めれば良いんだからっ!放っといてくれよっ!」 「あ~たはね!いっつもギリギリまで決めないんだからっ!ぎゃあすかぎゃあすか!」 …今月末…? あんな剣幕でボボちゃんが怒るなんて…相当だよ。 きっと、大事な事を決めかねてるんだ。 「ちいちゃん…どうしたのさ…?」 面相筆を再び上に上げた僕は、ぼんやりと呟きながら、再びフィギュアに色を乗せ始めた。 高校2年の夏の終わり…大学受験や、進路について…みんなが、真剣に考え始める時期だ。 僕は、というと…まっさらのノープランだ… とにかく、今は…目の前のジオラマの製作に、全てをかけてる。 次の日の放課後… 「春ちゃん、水泡の表現だけど…テグスに白いビーズを通して、レジンの裏に貼ろうかな…と思ってるんだ。」 「おぉ!それは、良いね。ぜひやってみてよ。」 「春氏!それがし、この立地が気に入ったでござる!ここは、良い撮り鉄のスポットになる事間違いなしでござるよ!」 「ははっ!んだな、そこに…宇宙人を置いて、撮り鉄を一掃して貰ったら良いべな。」 こんな他愛もない冗談が言えるくらい、模型部の雰囲気は持ち直した…。 そして、どんどん作り込まれて行くジオラマに、みんなの士気も、自ずと上がって行った。 僕はと言えば…ちいちゃんがくれたゴジラを、うんと格好良く彩色し直していた。これを巷では…リペイントと言う。 体の溝がしっかり彫られたこういうボディには…僕は、クレヨンを使う。 柔らかいクレヨンが…この溝に入って行って…布巾でふき取ると、まるで墨入れをしたみたいに溝に影を落とすんだ。こうして、体の凹凸を強調させて…より、リアルなゴジラへと近づけていく… 「春ちゃん…来たよ?」 その声に満面の笑顔を向けた僕は、ゴジラを掲げて見せて言った。 「まるちゃ~ん、見て?見て?」 「あぁ…!リペイントしてるんだ。良いじゃん…雰囲気が出てる。」 ぐへへ…! まるちゃんに褒めて貰って鼻の下を伸ばした僕は、彼と一緒にジオラマルームへと向かった。もちろん…防塵マスクと、ゴーグルを着用してだ。 「あと、どこをやするの…?」 そんなまるちゃんの声に、僕は彼を見上げて指をさして言った。 「この…山肌にカッターで傷を付けて行くんだ。ここは…所謂土砂崩れ防止のコンクリートで固められてる。だから…溝を…こんな風に、付けて言って欲しいんだ。ここから上は…緑を残してるから…ここだけ、お願いしても良い?」 「はぁ…そんな事、始めてやるよ。上手くいくかな…」 なぁんだ。 まるちゃんだったら…何だって上手にこなせるよ? 困った様に眉を下げたまるちゃんを見て、クスクス笑った僕は、海底を熱心に造形し続ける一年生の進捗具合を確認した。 ジオラマの一角で、1年生…4名がひしめき合って…背中を丸めて作業を続けている。そんな背中越しに、彼らの手元を覗き込んだ僕は…息をのんだ。 そこには…見事に朽ちた海賊船と、アトランティスが眠る海底が映し出されていたんだ。 「わぁ…凄いじゃないか…この、紙粘土は効果的だね。実に、リアルだ…!」 感嘆の言葉を漏らして僕がそう言うと、1年生は顔を真っ赤にしてもじもじしながら言った。 「じ、ジオラマの本を読んだんです…!あと、ここは…ウッドチップを使うと…岩肌がリアルに再現出来そうだと思います…!」 わぁ…! 凄いんだぁ! 満面の笑顔になった僕は、1年生たちに食い気味に言った。 「す、凄いね!こんなに…こんなに、沢山…調べて実践して…偉いじゃないかぁ!もっと…もっとやって良いんだよ?やりたかった事、試したい事、どんどんやって良いからね!」 1年生たちは、僕の予想をはるかに超えて…自発的に情報を収集して、研究していた。それは、Nゲージが大好きな彼らにとっては未知の世界の筈なのに… まさに、果敢に真剣に…そして、熱心に、だ。 そんな彼らの背中を見つめて…僕は思い知った。 不意に涙が溢れた僕は、ゴーグルの中を曇らせながらまるちゃんを振り返って言った。 「まるちゃぁん…僕は…僕は、間違ってたぁ!」 「何…今度は、どうしたの…?」 呆れた様に首を傾げたまるちゃんを見つめてコクリと頷いた僕は、自分の浅はかで…愚かだった考えを白状して言った。 「僕は…模型部に新しい風を巻き起こしたかった…!そ、その為に…ツーブロックの誰かを探していたんだぁ!陽キャでも…手先が器用な人が居て…その人の価値観が、模型部を新しい次元に引っ張り上げてくれるって…そう、信じてたぁ!」 「何だ…何だ…?春氏がまた極まったでござるか…?」 「きっと、べったら漬けの…精神安定の効果が切れたんだっぺ!」 ビニール越しに集まった2年生と、自分の足元で僕を見上げて首を傾げる1年生を見つめた僕は、まるちゃんに向かってこう言った。 「こんなに近くで…向上心を持って…ひたむきに取り組んでくれる人が居たって言うのに…!僕は…馬鹿野郎だ!クソッタレの馬鹿野郎だったぁ!」 そう… 新しい風は常に吹いていた… 誰か特別な人を探さなくても、ずっと…吹いてたんだ。 オタク丸出しでも、Nゲージに異常な興味があっても…慣れないジオラマを、熱心に研究して、ひるまずに挑戦する1年生たちは…僕が、喉から手が出るほど欲しがっていた人材だった。 そう、新しい風だ! 彼らの頑張りと、心意気は…僕の胸の中に、確かに風を巻き起こして、下らない思い込みや、下らない決めつけを一掃してくれた。 「まるちゃん…こ、この前…押し倒して、模型部に入れなんて…無理言って、ごめんよ…ごめん…!僕は…思い知ったぁ…!」 自分の、浅はかさと…馬鹿さ加減に…僕は、やっと、気づく事が出来た。 「お、お、押し倒されたでござるか…それは…由々しき事態で…」 「は、春ちゃん…も、もうそれくらいにして…泣くなら、ゴーグルを外してくれよ。曇ってて…ちょっとだけ、常軌を逸してて…怖いよ…」 そんな陣内くんの粋な計らいで、僕の顔からゴーグルが外された。 グジャグジャになった顔を向けて1年生を見下ろした僕は、そのままの顔で彼らに飛びついて言った。 「うわぁん!!模型部に…模型部に、ようこそっ…!!ここが、君たちの…場所だ!」 「は、春せんぱ~い!」 おんおんと抱き合って泣く僕たちを…まるちゃんは嬉しそうに瞳を細めて見つめていた… 「春ちゃん!俺の切断ゴジラ…どうなったぁ?」 感動的なそんな空気の中、模型部に遊びに来たちいちゃんは、ビニールの向こうでおんおんと泣き続ける僕を見つけて、ケラケラ笑ってこう言った。 「春ちゃん、何してんだよ?あ~はっはっは!っほんと、おっかしいな!」 彼は…いつもそうなんだ… 「グスッ…グスッ…あ、あそこで…格好良くしてる!」 ビニール越しに僕がそう言うと、ちいちゃんはしゃがみ込んで僕の頭を撫でて言った。 「なんで、泣いてんの…?」 「…本当に大切なものは、既に持っていたんだって…気付いて、泣いたぁ!」 そんな僕の言葉に目を丸くしたちいちゃんは、急にオロオロし始めて、逃げる様に模型部の部室から立ち去った… なんだ… トイレにでも、行きたかったのかな… 「変なの…」 ポツリとそう言った僕は、涙を拭ってゴーグルをつけ直した。そして、まるちゃんと一緒に、再び作業を開始した。 明日には…この部室を分断するビニールシートともお別れして、本格的にジオラマに造形を施して行こう。山には山の…川には川の…質感と、造形が必要なんだ。 「まるちゃん、フィギュア…どの位、出来た?」 僕は、上手に山の斜面に模様を付けていくまるちゃんの背中にそう尋ねた。 すると、彼は首を傾げてこう言った。 「ん、今…300体…」 あり得ない…! 「う、嘘だろっ?僕は…昨日、やっと200体目のお坊さんに色を塗ったというのに!」 ワナワナする手をそのまままるちゃんの背中に当てた僕は、ブルブルと震えを伝えながら、彼の背中を撫でて…鼻の下を伸ばした。 はぁはぁ…ま、まるちゃぁん…大きな、背中だねえ… 「…出来た。は、春ちゃん見て…?どう?」 僕の邪な気持ちを察したのか、まるちゃんはそそくさと体を起こして、出来上がった山の斜面の造形を僕に見せてくれた。 「…じょ、上出来だよ~!まるちゃぁん!」 そう言ってデレデレに鼻の下を伸ばした僕を押し退けたまるちゃんは、そそくさと防塵マスクとゴーグルを外して、僕を横目に見て言った。 「春ちゃん、ちょっと…急用を思い出したから…また、明日ね。」 え…?! 「なぁんで!こ、これから…一緒にゴジラでも塗ろうじゃないかぁ!」 あっという間に模型部の部室を飛び出していくから、僕はまるちゃんにこんな言葉すら、かける事も出来なかった。 「まるおは…逃げたっぺ!」 南條くんの言葉に口を尖らせた僕は、防塵マスクとゴーグルを外して、ゴジラの彩色へと、作業を移った。 ちぇっ!なんだよ…まるちゃん… 「春ちゃんが、千秋君と仲直りしたみたいで良かったよ…」 いつもの帰り道…陣内くんがそう言って僕の顔を覗き込んで来た。 「え…うん。ちゃんと謝れる機会があってね…。でも、不思議だよ。どうして、そんなに陣内くんが気にするの…。ふふ…!変だね?」 クスクス笑った僕に、彼は真剣な目をしてこう言った。 「…春ちゃん。あの、3年生の女の先輩は、円くんの前には、千秋君にちょっかいを掛けていたって…知ってる?」 3年生の女の先輩…? 真理ちゃんの事…? 僕は陣内くんにコクリと頷いてみせた。すると、彼は言い辛そうに、モゴモゴと話し始めた。 「女バスの彼女から聞いた話なんだけど…千秋君は、あの先輩の事…嫌がってたんだって。でも、絶対…怒らせる様な事や、拒絶する事をしなかった…。八方美人だなんて悪口を言われても、その姿勢を崩さなかったんだって。ねえ、それって…結果的に、君への…嫌がらせを防止していた事にならないかな…?」 え…? 口を開けたまま、僕は陣内くんの顔を見つめ続けた。 確かに…真理ちゃんは、ちいちゃんを狙っていた時には、一度も僕に嫌がらせなんてして来なかった。 「そ…そうか…」 眉を下げた僕は…それ以上、何も、言えなくなった… 小学校の時、散々、君に集まる取り巻きに傷付けられた。そんな僕の姿を見ていた君は、僕を守る為に…敢えて、迎合したの…? そうする事で、君の傍にいる…僕を守ったの…? ちいちゃん… 「ねえ、じゃあ…春ちゃん。この話は聞いてる…?千秋君、プロのバスケットチームからスカウトされてるんだって。これが決まれば、彼は国内でプレイするプロのバスケット選手になる。つまり…高校を卒業したら、本拠地に引っ越して…本腰を入れた練習を始める事になるんだ。」 え…? 本拠地に引っ越す…? 目を点にした僕は、意図せずに、口元を歪めて笑った。 「ま、まるちゃんも…そんな事言ってたぁ…!でも…僕は、ちいちゃんから…何も聞いてないよ?お、おお…幼馴染の僕が知らない事を…ど、どうして…まるちゃんや、陣内くんが知ってるのさ…。そ、そんなの…嘘だねっ!おかしいじゃないか…!」 「何もおかしくないよ。結構な噂になってるもん。それに、女バスに居る僕の彼女が、何度もスカウトマンが来てる所を見たって、言ってた…。」 陣内くんは、僕を見つめて、呆れた様に肩をすくめてそう言った。 僕は、ただ…呆然とそんな彼を見つめたまま…立ち尽くした。 だから…ボボちゃんと言い争いをしていたの…? …だから、僕にあんな事をしたの…? 「そう…」 胸に込み上げてくるのは、ただの不安… それが胸を覆いつくす前に…僕は、顔を上げて陣内くんに言った。 「…め、名誉な事じゃないか…!ちいちゃんは中学校からバスケットが大好きだもの。きっと、とっても嬉しいに違いないよ?はは…そ、そうか…そうだったんだ…」 …知らなかった。 あんなに傍にいたのに、僕は…彼の何も、知らなかった… 僕を守る為に、彼が苦心していたことも…スカウトを受けて、返答に悩んでいる事も… 何も…知らなかった。 電車の中、吊革に掴まって、いつもの様に目の前を通り抜けて行く景色を、ぼんやりと見つめた。 本拠地へ引っ越して…プロのバスケットボール選手になる…? 僕の傍から、居なくなる…? 赤ちゃんの頃から、一緒に居るのが、当たり前だった彼が…? 「春ちゃん?」 ふと、背後から声を掛けられて、僕は、電車の窓に反射する笑顔の彼を見つめて、首を傾げて言った。 「…聞いたよ。ちいちゃん…」 振り返りもしないまま、窓に反射する君の戸惑った顔を見つめて、続けてこう言った。 「どうして、僕に…教えて、くれなかったの…」 意図せず、僕は目頭が熱くなった… ボロボロと涙を落としながら、窓に反射する彼を見つめて、ただ…不安に駆られて泣いた。 「まだ…決まった訳じゃないから…」 ちいちゃんはそう言って、肩を揺らす僕の顔を覗き込もうとした。だから、僕は顔をそらして、乱暴に腕で涙を拭って言った。 「…知らなかった!僕は、何も知らなかった…!!」 先の事なんて何も考えていなかった。 このまま…同じ日常が続くなんて思ってはいなかったさ… でも…君と離れる日がこんなに早く訪れるなんて、僕は、考えてもいなかったんだ。 そして、自分がこんなに…動揺するとも思っていなかった。 君が離れて行く事が、こんなに怖いだなんて…思いもよらなかった。 「まだ、決まった訳じゃない…」 僕の肩をそっと撫でて、ちいちゃんが眉を下げてそう言った。 一緒に電車を降りた僕たちは、同じ方向に向かって…並んで歩き始めた。 「…ちいちゃん、ソフトクリーム買ってよ…」 この前、ちいちゃんが柏木さんと食べていたアイスクリーム屋の前で立ち止まった僕は、伏し目がちにちいちゃんの靴に向かってそう言った。 「え…?ん、良いよ…」 驚いた様にそう言った彼は、僕の顔を覗き込んで笑って言った。 「…春ちゃん、何味にするの?」 「うんこの味…」 そんな僕の返答に苦笑いをしたちいちゃんは、僕にチョコ味のソフトクリームを買ってくれた。 甘いうんこのソフトクリームをペロペロと舐めながら、僕はちいちゃんと商店街を歩いて抜けた。 隣で僕を横目に伺い見て来る君の視線を感じながら、僕は、ただ前を見据えて…ソフトクリームを舐め続けた。 「ちいちゃんは…僕を守る為に、嫌な奴にも…優しくした…!」 ポツリとそう言うと、ちいちゃんが目を見開いて僕を見下ろした。だから、僕は続けて前を見据えながらこう言った。 「…あ、ありがとう…。僕の為に…ありがとう!」 「春ちゃん…」 肩を落としたちいちゃんは、足を止めて僕を見つめた。だから、僕も…足を止めて前を見据えたまま、こう言った。 「問題は、こっちだ!…ちいちゃんは、中学の時からバスケットが大好きだったでしょ…!」 すると、ちいちゃんは…こう言った。 「だから…何だよ…。」 分からない。 プロのチームからスカウトされるなんて、きっと喜ばしい事なのに…浮かない顔をする君の事が、よく、分からないよ。 「どうして…悩む必要があるのさ…!」 まだまだソフトクリームは上に残っているのに、僕はガジガジとコーンをかじり始めた。すると、そんな僕の暴挙に、ちいちゃんが窘める様に手を差し出しながら言った。 「あぁ…こぼれちゃうだろ?そんな食べ方をするなよ…。まったく…!」 「うっ…うう…!」 僕は、泣きながらひたすらコーンをかじって、ちいちゃんの進言通り…上に乗ったソフトクリームを地面に落とした。 「…あっ、ほらぁ!落としてんじゃん!」 「うう…うっうう…!」 アイスだらけの口を歪めた僕は、僕を見下ろして眉を下げるちいちゃんを見上げて、込み上げてくる言葉をそのまま彼に言った。 「なぁんで、教えてくれなかったの!何で…何で言ってくれなかったの!」 「だぁから…まだ、決まった訳じゃないって…」 「違うっ!…何で言ってくれなかったの!何で、ずっと…言ってくれなかったの!!」 ソフトクリームの乗っていないコーンを握り締めた僕は、戸惑って目を逸らすちいちゃんに詰め寄った。すると、彼は僕の手から粉々になったコーンを取り上げて、こう言った。 「…俺は、何度も言った。でも、春ちゃんが、信じなかった。」 そんな彼の言葉に愕然とした僕は、大人しく背中を丸めて彼の隣を歩き始めた。 俺は何度も言った… その言葉を、僕は何度も繰り返し頭の中でつぶやいた。そして、思い出す思い出の端々に…胸が痛くなった。 それは、遡れば…幼い幼稚園生の頃から、当然の様に繰り返されて来た…日常の一部だった。 「ちいちゃ…!おかし頂戴?」 「ん、良いよ?春ちゃんは大好きだから、あげる~?」 友達の遊びを断り続けた…小学生の時も、君は…自然に、普通に、僕に言った。 「ちいちゃん…何で遊びに行かなかったの?」 「ん?…俺は春ちゃんと居る方が好きなんだ。だって、春ちゃんが大好きだからね。」 中学生になって卑屈を極めた僕にも、君は変わらず、傍で…こう言ってくれていた。 「…僕と一緒に居たって、楽しくないだろ…?」 「どうしてそんな事を言うんだよ。俺は、好きな人の傍に居たいんだ。」 なのに…どうして、僕はそれを素直に受け止められなかったんだろう。 あまりにも自然で、あまりにも当然で、僕には…その価値が分からなかったみたいだ。 まるで、今日…模型部の1年生に抱いた…後悔と懺悔の気持ちと同じ様な自分の心境に、首を傾げて呆れた。 …本当に大切なものは、既に、持っていたんだ… 「ち、ちいちゃん…!」 こんな事、幼馴染の君にする事じゃない。 雑魚寝をしたり…一緒に温泉に入ったり…今まで、散々…馬鹿みたいに一緒に過ごして来た君に、する事じゃない。 だけど… 僕はいつもの様にちいちゃんに抱き付いて、彼の胸に顔を擦り付けた。そして、いつもとは違う言葉を、口から出して言った。 「僕は…ずっと、ちいちゃんが…好きだったぁ…」 遠く離れてしまうのなら、言っても良いだろ。 もう…離れて暮らすのなら、言っても良いだろ…? 僕は君の事が、大好きだったんだ… 「…は、春ちゃん…」 らしからぬ動揺した声を上げたちいちゃんは、僕を抱きしめてこう言った。 「俺も、ずっと…好きだった…」 いつの頃から…そうだったのか、あまりに自然過ぎて覚えていないんだ。 でも、僕は…君が他の子と遊ぶ事がとても嫌だった。 独占したかったんだ。 大好きな君をひとり占めしたかった。 でも、僕から見ても…君は人気者になる素質を持ってる人だった。 だから、身を引いた… 自分を卑下して、鬱屈して、ひねくれながら…君が誰かと付き合う姿を横目に見て、胸を痛めた。 自分に向けられる事の無い君の愛情を、誰かが受け取っている姿なんて、見たくないだろ…?見たくなかったんだ…。見たくなかった。 だから…君を意図的に避けた。 不思議だ… 告白し合った僕たちは、実は両思いだという事に気が付いた筈なのに、何も話せないまま…自宅まで帰って来た。 そして、何も話さないまま…お互いの玄関を開いた。 横目に見つめ合って、でも、すぐに目を逸らして…逃げる様に家に入った。 不思議だ… 普通なら、もっと…盛り上がる物なんじゃないのか…?! なのに、どうした事か、あまりに自然にそうして来たせいか…意識し始めると、僕とちいちゃんは途端にぎこちなくなった。 「…まるちゃんの時と、違う…」 僕が彼に抱く恋心は…理性を失わせるリミッターの外れた情熱だ。 だけど、ちいちゃんに…同じ様になる事は無かった。 でも、ドクドクと鼓動する胸の鼓動は…体を揺らす程にけた違いだった。 「ち…ち、ちちちち…ちいちゃん…」 暗い玄関でポツリと僕がそう呟くと、同じ様に暗い玄関の中に立っていたお母さんがポツリと言った。 「…どうしたかね…」 「は…?!な、な、何でもない…!」 顔を真っ赤にした僕は、お母さんから逃げる様に急いで自室へと向かった。すると、お母さんは僕の後ろを付いて来て、様子を伺いながら、こう言った。 「あらぁ…春ちゃん、手を洗わないの…?」 そんな言葉に方向転換をした僕は、急いで手洗いを済ませて自室へと向かった。 「あらぁ…春ちゃん、ご飯を食べないの…?」 そんな言葉に再び方向転換をした僕は、まだ何も揃っていないダイニングテーブルに腰かけて、僕をじろじろ見つめて来るお母さんの餌食になった。 「何したの…?ちいちゃん!なんて…暗い中呟いちゃってさ…。何したのよ…?」 「な、な、なな何でもないよ…。」 どんどん熱くなって行く顔をそのままにして、僕はトボけてそう言った。 いつもなら、僕は、お母さんに、細かい話まで出来るのに… どうしてか…今日は、違った。 何も言いたくなくて…何も、言われたくなかった。 だから、何も話さなかった。 「へえ…」 舐める様に僕を見つめたお母さんは、ハンバーグの乗ったプレートを僕の前に出して、こう言った。 「どうぞ?召し上がれ?」 「…い、いただきます…」 今日もお母さんのハンバーグは美味しかった。でも、僕を見つめて来るふたつの鋭い視線は、居心地が悪く、少しだけ痛かった。 まるちゃん…僕は、君の事が好きだと思ってた。 でも、どうやら、違ったみたいだ… 違ったみたいだ。 風呂に入って自室にこもった僕は、未だに治まらない胸の動悸を、深呼吸して紛らわせた。そして、窓の外から見える青暗い空を見上げて、ため息をひとつ吐きながらベランダの窓を開いた。 頬に当たる風は少しの湿気を纏って冷たくて心地良いのに…僕の胸の中は、遠くで光る雷の様に…衝撃を受け続けてる。 「春ちゃん…何してるの…?」 そんな声と共に、隣のベランダにいつもの様にちいちゃんが現れた。 欄干に腕を乗せて遠くを見つめながら、そんな彼を横目に見た僕はこう言った。 「…ちいちゃん。遠くで雷が光ってる…」 「あ…本当だ。風が冷たいから、そのうち、こっちもザーザー降りになりそうだな。」 「…ちいちゃん。せっかくソフトクリーム買ってくれたのに…駄目にしちゃった。」 「…あっはっは!見事に落としてたな!あっはっはっは!」 ちいちゃんは、少しの時間で…僕と話す事が平気になったみたいに、いつも通りに話してくれた。そのお陰か…僕も少しのぎこちなさを残しつつも、彼の声と言葉に、目じりを下げて笑えるまでに…リカバリーした。 「…で、ゴジラはいつ完成するの…?」 「ふふ…そうだな。リペイントが終わったら、レジンの板に…こっちと、こっちで固定するんだ。そして、ゴジラの体に白波を立てて…足元には、レジンで作った水流を表現しようと思ってる。ほら…こうして足を掻くとさ、水中で抵抗が生まれるだろ?それを視覚的に表現して…」 つい、夢中になって話し込んだ僕は、ハッと我に返って、僕を見つめて目じりを下げるちいちゃんに苦笑いしながらこう言った。 「…あ、はは…つまらないだろ…?こんな話…」 「全然。つまらなくない…。」 ズッキューーーーーーン! 優しく微笑む彼の表情が、今までずっと見て来た彼の表情のどれとも重ならなくて、僕は一気に胸を撃ち抜かれた。 あ…あわ…あわあわあわあわ… それは、まるちゃんに感じた衝撃よりも、強くて、大きくて、体を揺らす程のダメージを与える…胸キュンだった。 「…そ、そっか…じゃあ…良かった…」 カクカクと首を動かした僕は、遠くを見つめて、鼻先に当たった雨粒に顔を上げた。 ちいちゃんが言った通り…こっちにも雨雲がやって来たみたいだ。 「雨だ…」 手を伸ばした僕は、ポツポツと手のひらに当たる雨粒を感じながら、ちいちゃんを見た。すると、彼はそんな事気にもしないみたいに、欄干にもたれかかって僕を見て、こう言った。 「春ちゃん。この前…まるちゃんと、遊園地に行ったんだろ?どうだった…?」 え…? 「楽しかった…まるちゃんが、焼きそばに…胡椒をたんまりかけて、平気な顔して食べてたのが…衝撃的だった。」 でも…もっと、僕は衝撃を受けたんだ。 「…他には?何した…?」 そんなちいちゃんの言葉と、視線に、僕は首を傾げてこう言った。 「…キスした。」 「へえ…」 「人生初めての…貴重なキッスだった…」 「いや。違うけどね…」 眉を片方だけ上げたちいちゃんは、ベランダから身を乗り出して、僕の顔を覗き込んでこう言った。 「春ちゃんの初めては、俺が大体頂いてるから…。初めてではないよ?」 …へえ。知らなかった… 「そ、そうなんだ…。それは、知らなかった…」 引き攣る顔をそのままにして、僕はちいちゃんから視線を逸らした。そして、音を立てて降り始めた雨を、ぼんやりと眺めた。 「…え、いつ?」 解せない気持ちを解消する様に再びちいちゃんを見てそう尋ねると、彼は肩をすくめてこう言った。 「しょっちゅうさ!デデちゃんも、うちの母さんも知ってる!寝てる間にしたり、泣いてる隙にしたり、事ある毎にした。中学校の時、キャンプに行った時もしたし、高校になった後もした。」 ま、マジか… 「だったら…昨日の、アレも、ちいちゃんには…普通の事だったんだねぇ…」 そう…僕の胸を激しく揺さぶった…あの、キスだ… 「違う。」 すぐにそう断言したちいちゃんは、ケラケラ笑いながら僕に言った。 「キスする時、春ちゃんが俺を見ていたのは…初めてだった…」 はぁはぁ…はぁはぁ… 「そ、そっか~!」 やけに大人な雰囲気を纏ったちいちゃんに、異常に興奮してくる気持ちを誤魔化す様に明るくそう言った僕は、ロボットの様に体を動かして言った。 「あ~!フィギュアを、ぬ…ぬ、ぬ、塗らないとぉ!ちいちゃん、まったね~!」 「うん。また、明日ね…」 やられた… 僕の胸は、心は…ちいちゃんの何気ない一言で、いともたやすく、だらしないはんぺんの様に…デレデレになった。 いつもの彼が…妙にセクシーに見えるのは、どうしてなんだ…?! そんな時、ふと…頭の中に、ちいちゃんの彼女、柏木さんの姿が浮かんだ。 きっと…彼は、いろんな事を済ませてる。 だから、セクシーなんだ。 僕の事を好きだったなんて言っても…僕は、彼の歴代の彼女を、全て…フルネームで言える。 それに…僕の知らない所で、僕の初めてを奪っていた。 ちいちゃんは…所謂、プレイボーイだったんだ…!! 「はぁはぁ…プ、プ、プレイボーイ…?!」 紙粘土を指先で捏ねながら、僕は自分の幼馴染がプレイボーイだという事実に驚愕して、過去を思い出しながら眉を顰めた。 「…遥ちゃんと、付き合ってるって聞いたぁ…」 ちいちゃんの黒いランドセルに向かって、僕がそう言うと、彼は悪びれる様子もなくこう答えた。 「うん!何となく!」 中学校の時…桃子ちゃんと最後まで行ったと良からぬ噂が立った… その時も、彼は悪びれる様子もなく、普段通り…ぼくの隣で、へらへら笑ってた。 右手に持った紙粘土をにじり潰した僕は、眉間にしわを寄せて宙を睨みつけた。 …と、と、とんでもねえ男じゃねえかっ!! 沸々とはらわたが煮えくり返った僕は、ちいちゃんの部屋に向かって、自分の部屋の壁に思いきり紙粘土の塊を投げつけた。 ドスン! そんな鈍い音を響かせた後…ちいちゃんの部屋から、トントン…と、軽快なノックの音が返って来た。 「…はぁ。」 散々、目の前で繰り広げられた彼の恋愛遍歴を全て知っているというのに、それでも、僕は…ちいちゃんが好きなままだった。 これが…所謂、惚れた弱みというやつなのか… 「はぁ…もう、やめよう…」 頭を悩ませる問題から目を背ける方法を、僕はいくつも持ってる。 紙粘土を拾い上げて椅子に座り直した僕は、黙々とフィギュアを制作した。

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