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第7話

翌日、尾形は朝から仕事で駆けずり回っていた。 尾形がリーダーとなって進めて来た大型プロジェクトが頓挫しそうになったのだ。 それは尾形の部下の一人の失敗が招いた事だが、それを責めても始まらない。 なにせ契約まで時間が無いのだ。 尾形は即座にプロジェクトチームを招集し、全員で対応に当った。 だから菊田が専務取締役に成ったことなど忘れていた。 というか、どうでも良かった。 だが宇佐美が菊田の動向を逐一ラインで報告して来る。 宇佐美は隣の二課の係長なので、尾形の緊急事態を察してか社内チャットをして来る様な真似はしないが、ラインでも良い迷惑だ。 5度目のメッセージが届くと、尾形は宇佐美からのラインの通知をオフにした。 尾形は何とか事態を収集し、終電で帰宅出来た。 疲れ切っていて、靴を脱ぐのも面倒くさい。 それでも気力を振り絞ってシャワーを浴び、さっぱりすると缶ビール片手にソファに座った。 身体は疲れているのに頭は妙に冴えている。 尾形は缶ビールに口を付けながらスマホをチェックしていると、そう言えば宇佐美からのラインの通知をオフにしていたままだった事に今更ながら気が付いた。 宇佐美からの菊田関連のメッセージ数を見てみると優に30件を越えていて、尾形はウンザリしたが、きっと明日は宇佐美が尾形に寄越したメッセージについてあれこれ言い出して、尾形が答えられなかったら面倒事になると思い、取り上げず一通り目を通すことにした。 宇佐美のメッセージは、宇佐美が尊敬を越えて崇拝し敬愛している鶴見部長を飛び越えて、専務取締役になった菊田への怒りの愚痴を除けば大した情報は無かった。 菊田は午前10時に役員用の黒塗りの車で出社し、社長室に直行した。 運転していたのは元第一営業部第一課の有古力松。 有古は菊田の第一秘書になったそうだ。 菊田が社長室を出ると、役員全員が揃って菊田を役員専用会議室で出迎えた。 そうしたトップの『歓迎会』が終わると、今度は新専務取締役への各部長からの挨拶。 皆、時間差で滞る事無く菊田のオフィスへ入って行ったという。 だが、ただ一人、挨拶に行かなかった部長がいた。 それは尾形の部署、第一営業部の鶴見篤四郎部長だ。 宇佐美によると鶴見は他の部長同様、菊田に挨拶に行くつもりだったが、菊田の方が辞退し、菊田自らが有古を連れて第一営業部にやって来たのだ。 菊田は有古と共に、鶴見の部長室に小一時間程滞在し、鶴見部長に見送られながらにこやかに第一営業部を後にした。 要約するとこれだけだ。 尾形はだからどうした?という気分だった。 七団商社は部長の下に三人の副部長を置くシステムになっている。 副部長はそれぞれ担当する課があり、菊田は第一課のみの担当だった。 第一課は部長と副部長に直結している課で、部長への決済承認の要請などの事務全般や、部長と副部長関連の内外の会議のセッティングの庶務的仕事や部内の人事管理もしている。 だから菊田が第一営業部に居た頃、まだ主任だった尾形は殆ど接点が無かった。 尾形の覚えている菊田と言えば、切れ者の割に部下達には柔和で物腰も柔らかく偉ぶったところが無い。 だが怒らせると副部長の中でも一番怖いと言われていた。 怒りに任せて怒鳴ったりくどくどと説教をしたり嫌味を言ったりするのでは無い。 その人物を『切る』のだ。 菊田の中でその人物は見限られ、二度と仕事は回って来ない。 そして菊田と言えば、当時から新人の有古を可愛がっていて、海外勤務が決まった時、チームの一人に有古を抜擢し、同行させた。 それ位だった。 だから有古を第一秘書にしてのも納得出来る。 有古は海外勤務で菊田の期待以上の成果を出したのだろう。 尾形は宇佐美のメッセージを最後まで読むと眠気に襲われて、フラフラとベッドに向かった。 翌朝。 尾形が会社に向かっていると、後ろから「百之助〜おっはよん!」というテンションの高い宇佐美の声がした。 尾形は立ち止まると、「はよ」と短く答えて振り返る。 宇佐美は二つ持っていたテイクアウトのコーヒーの一つを尾形に差し出す。 「昨日は無能な部下の尻拭いお疲れ〜。 真夜中に既読マーク付いて安心したよ。 はい、百之助はブラック〜。 親友の好みを覚えてるなんて僕親切だよねぇ」 「ハイハイ、ドウモアリガトー」 尾形が気の無い返事をしてコーヒーを受け取って歩き出す。 すると宇佐美が尾形の隣りを歩きながら、「イイコト聞きたくない?」と声を落として言った。 尾形はコーヒーの代償はコレかと思いながら、「聞きたい」と答える。 「実はさ〜昨日の夜、人事部の友達から教えて貰っちゃったんだよね〜。 ウチ専属のインターンの情報!」 尾形が目を見開く。 そして呟く様に言った。 「…住所とかか?」 宇佐美がケラケラと笑う。 「そこまで言ったら個人情報漏洩じゃん! 住所は知らなーい。 マイナー競技やってて良いセンいってるらしいってさ。 それにさ〜ウチの専属なんだから各課を廻る訳だろ? スポーツマンなら、いたぶりがいがあるやつだと良いな〜。 その時は協力しろよ?」 尾形は無言だった。 ただロボットの様に足を動かしているだけだった。 何故なら見知らぬ痛みが胸を突き刺し、鼓動が激しくて言葉が出ない。 杉元のほんのちょっとした情報だけでこんなふうになるなんて、実際に杉元と再会したら自分はどうなってしまうのかと心配になってくる。 まだプレゼントを入れてある通勤バッグをギュッと掴む。 すると宇佐美がつまらなそうに言った。 「なんだよ、百之助〜! その無表情! まあ百之助はインターンになんか興味無いか!」 尾形は小さくホッと息を吐いた。 尾形は個性的な美形なので好きか嫌いかで二分されるが、外見についてどうこう言われた事は無かった。 だが学生時代に同級生や先輩後輩、今でも母親にさえ言われて続けている言葉がある。 『無表情』 『何を考えているか分からない』 『不気味』 この『特技』を生かせば、杉元を目の前にしても大丈夫だと思えて安堵した時だった。 初めてのセックスの後で、杉元から「俺として…気持ち良かった?」と問われ、尾形が「ああ、まあ…」と歯切れ悪く答えると、杉元がぐちゃぐちゃの顔で嬉しそうに笑った。 「良かったあ…」と言って。 その光景がまざまざと頭の中に蘇った。 胸が痛い。 鼓動が激しくて息が出来ない。 きっと俺は杉元の前でも動揺は見せないだろう。 だけど。 俺は変わってしまう… 尾形は無表情のまま歩みも止めず、宇佐美の話に適当に相槌を打ちながら、そう確信していた。 それからの尾形は仕事に没頭して過ごしていた。 尾形の上司で仕事の鬼と呼ばれる月島基課長から、「少しは休め」と言われる程に。 そうして金曜日がやって来た。 まず始業と同時に第一営業部の管理職は部長室に召集された。 その中には係長の尾形もいた。 鶴見部長が部長室の会議用デスクに着いた面々に向かい、立ったまま皆を見渡し話し出す。 「君達にも直接人事部から知らせがあったインターンシップの件だ。 うちには専属で〇〇大学3回生の杉元佐一くんが来る。 インターンシップが来るのは初めてでは無いから心配はしていないが、今回は今迄と違い一ヶ月間と長期になる。 各自杉元くんの出勤日時等スケジュールを把握し、当日の担当課は杉元くんが滞り無くインターンシップを行える様に最大限気を配れ。 それと何か問題があれば、副部長を通さず、この私に直接報告を入れるように。 以上だ」 鶴見部長はそう言うと自分のデスクに向かい、電話の受話器を取ると内線で一言言った。 すると部長秘書が外から扉を開けた。 集められた管理職達がゾロゾロと出て行く。 尾形が部長室を出て秘書室から営業部へ一歩足を踏み入れると、月島にポンと肩を叩かれた。 「何ですか?」と尾形。 月島が無言で親指を立てて小会議室を指差す。 そしてスタスタと小会議室に向かう。 尾形もそれに続く。 月島がドアを開け、尾形が小会議室に入ると月島がサッとドアを締めドアを背にして「すまん!」と言うと、尾形に向けてパンッと両手を合わせた。 尾形が動じることも無く「何がですか?」と訊くと、月島が珍しく決まり悪そうに「実は尾形に頼みがあってな…」と切り出した。 月島が言うにはインターン全員で各部に挨拶に来るのは午前10時からで、第一営業部が一番最初だ。 それは尾形も人事部からの社内メールで知っていたので「そうですね」と頷いた。 月島の話は続く。 営業部内を紹介するのは鯉登音之進福部長に決まっていたのだが、鯉登副部長のご指名で月島が就業後に紹介のリハーサルに付き合ったのだがどうも上手く行かない。 鯉登副部長は正にエリート中のエリートで、まだ27歳だと言うのに去年の人事異動で副部長に昇進したのだ。 尾形は内心、鯉登の実家が日本を代表するグループ企業だからだろうと思っていたし、それは社内のほぼ全員が思っている事だ。 『可愛い子には旅をさせよ』の精神で実家のグループの企業では無く、七団商社に入社して、副部長の期間を終える頃になったら実家のグループ企業の会社に入社するに決まっているというのが皆の見解だ。 だが鯉登副部長はボンボンの無能なお飾りでは無い。 仕事は出来るし、高身長のイケメンで、ハイブランドを華麗に着こなす鯉登は女子社員の憧れの的だ。 そして鯉登は、実兄と月島が同級生だったので、月島と子供の頃からの知り合いのせいか、何かにつけて月島を呼び出すのだ。 尾形は月島が居るからこそ、鯉登は『仕事が出来る』のだと密かに思っている。 「それでなあ…鯉登副部長なりに頑張っていらっしゃるのだが、上から目線過ぎるか、説明が細か過ぎて時間が足りなくなるかのどちらかしか出来なくてな…。 俺がその都度注意していたら、最後には月島は私を苛めてると言って爆発してしまった…」 虚ろな目をしてそう言う月島に、尾形が同情を込めて「大変でしたね」と言う。 月島は虚ろな目のまま続ける。 「それで余りに駄々を捏ねるもんだから、俺も売り言葉に買い言葉で言っちまったんだよ。 『うちの尾形の方がよっぽど上手くやれますよ』ってな。 そしたら『それなら尾形にやらせれば良かっ!』って言っていじけてしまって…。 それで鶴見部長に相談したんだが、鶴見部長は別に誰が紹介しても構わない、尾形ならインターンと年も近いし良いだろうと言うし…」 するとまた月島が尾形に向けてパンッと両手を合わせた。 「尾形、頼む! 引き受けてくれないか? 紹介用の段取りの叩き台は出来てるし、インターンがうちの部に居るのは10分も無い。 お前なら楽勝だろう?」 尾形はフーっと深く息を吐くと、髪をかき上げ「やりますよ。でも鯉登副部長の為じゃない。課長の為に」と答えたのだった。

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