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第二章 彗星・4

◆◇◆ 「……え?」  コントローラーがぽろ、と手からこぼれ落ちた。ほんの数十秒……の時間が、やたら長く感じられる。なにもかもが止まってしまったような錯覚を覚える中、ようやく俺は声を発した。 「な、何。どう、かしたのか?」  恐ろしいほど静まり返ったリビングで、心臓が激しく動く音だけがやけに響く。 「しばらく、こうしていたいんだよ。駄目かな」  同じ言葉をぽつ、と光一郎が囁く。ひどく落ち着かない。本当ならすぐにでも押し返し、逃げ出したくなる。  そもそも、俺は誰かに身体を触れられるのがすこぶる苦手だ。肩を抱かれたり背に手を置かれたり、そういうのでさえも一瞬寒気が走る。頭を撫でられる程度ならなんともないが、額や頬に指先が伸びると肌が粟立つ気がする。くすぐったいとかそんな生易しいものではない。とにかく、他人の熱が自らの皮膚に伝わるのが気色悪く感じるのだ。  しかし。  今このとき、光一郎を振り払うことがどうしてもできずにいた。理由は分からない。が、先刻、こいつの眼に過ぎった寂しげな光……それが引っ掛かっているのだろうか。俺もまた、下らない同情をこの相手に向けているのだろうか。  ぐ、と耐えるように身を固くしていると、ふっと腕の力が緩んだ。 「ごめんね、居心地悪かった?」  その言葉を、なぜか俺は否定した。 「いや」 「いつか、言ったよね。一目惚れした、っていうのは本当だよ?」  そういえば、そんなような事を言っていた。何の冗談かと思ったが、あの時は口を挟めなかった。 「本当は、兄弟なんかじゃなく。もっと知りたいんだ、鞍のこと」  こちらを覗き込むようにして光一郎が言う。 「もし嫌じゃないんだったら、抱き締めさせて欲しいな。ちょっとの間で良いから」  さっきは微かに滲んだだけだった瞳の陰は、今やはっきりと見て取れた。軽く下唇を噛む。  狡い、と思う。そんな眼で懇願されたら、なにも言えなくなる。 「分かったよ。でも苦手だから少しだけ、だかんな?」  渋々、光一郎の膝に腰を下ろす。 「ん、ありがと」  言って奴は、俺の肩に額を落とした。再び両腕を胸元に回され、力が籠もる。身体が強ばる。なのに…… 「触れられる」事による嫌悪感は、徐々に薄れていた。溶け込むような熱に溺れそうになる。  ……これはまるで、あの日の……  不意に、忘れかけていたはずの思考がぼんやりと頭を掠め、静穏な時間が流れていく。  ただ、激しい鼓動は鳴り止まない。それどころか周囲が静かな分、際立ってうるさいほどだ。苦手なはず、なのに。自分でも自分の感覚が分からなくなる。  いつまでそうしていただろうか、耳元でふ、と光一郎が言葉を発する。 「少しは慣れた?」  熱い吐息と共に耳朶に掛かり、ぞくり、と背筋が逆毛立つ。だが最早悪寒とは別の、もっと甘やかな。  視線を少し泳がせて俯くと、光一郎はそれを肯定と受け取ったらしい。そのまま耳に唇が触れ、続けざまに軽く噛まれる。 「…………っ?!」  びくっと反射的に振り向くと、頬に手を添えられ唇を塞がれた。抵抗する暇さえなかった。ぎゅ、っと瞼と口を閉じ堪える。  ……はずが、つい呼吸を忘れ、酸素を求めて僅かに緩んだ口内に、まるで炎でも含んだかのような熱い舌がねじ込まれる。尚苦しくなり喘ぎながらも、なされるがままに受け入れるしかなかった。光一郎の舌が俺のそれを、掬い取るように絡める。ちゅ、くと唾液の混ざる音が、妙に卑猥に響く。  息継ぎが覚束なく、頭に白い靄がかかったようになる。このまま意識を失ってしまうのではないかと思い始めた瞬間、ようやく熱が遠ざかった。緩く目を開けると、つ、と名残惜しそうに繋がった粘液の糸が切れ、とろりと溢れ落ちるのが見えた。水中から浮かび上がった時みたいに、大きく息を吐く。 「ごめん、嫌、だった?」  光一郎の口元はまだすぐ近くにある。こつ、と軽く額と額を付けた状態で、謝罪を小さく洩らした。 「あっ、謝るくれぇ、なら……っ!」  最初からこんなことするな、そう続けようとした言葉はどうしても喉につかえて出ず、ひたすら息苦しさと恥ずかしさで顔を背けるのが精一杯だった。鼓動は尚一層激しく音を立てる。 「鞍のこと、もっと知りたいんだ」  先程と同じ言葉を、光一郎は繰り返す。その言葉に頷いて良いのかどうか分からないまま、まともに目を合わせるのを躊躇して下を向く。視線のやり場に困ってフローリングの木目を見るとも無しに追っていると、今度はひやり、とした感触が腹の辺りを滑る。 「?!」  冬とはいえ暖房の効いた部屋の中で、指先がさほど冷え切っている訳はない。むしろ、俺の身体が熱を帯びていたのだろう、と思う。それでも確実な温度差は、更に感覚を冴え渡らせ、指の這った痕に明確な軌跡を刻んだ。自分の呼吸が不自然に荒くなるのがわかる。  いつの間にか頸もとまで服が捲り上げられ、布に包まれ保温されていた腹や胸が、ややひんやりとした空気に晒される。エアコンの温風で満たされてはいても、露出した肌に伝わるのは春前の冷気だ。これまで風呂に入る直前くらいにしかありえなかった状況に、どう対応していいか、頭も身体もまったく動かない。 「ね、さっきのキス、少しは感じてくれた?冗談でも悪ふざけでもないよ、鞍が好きなんだ」  ぼそり、と耳元に光一郎の声が届く。その間も手元は休まず肌を辿る。腰から背中、鎖骨から肩へするすると。ゾクゾクと身体の芯を、何かが駆け上がるような錯覚。外気と冷えた手は皮膚の熱を奪っているのに、どういうわけか内側の熱は上昇を続けているような気がする。心音がうるさい。 「ほら、ここ」  ぐ、と手首を掴まれ、自らの手で胸元を撫で上げさせられる。俺の指もまた、熱くなる身体とは裏腹に冷たいままだったが、火照った胸にあてがわれたことで改めてそれを実感した。  指の先端が胸先の小さな突起に触れる。思わずびくりと身体が跳ねた。 「こんなに腫れ上がって、上向いてる。ね、気持ちいい?」  自らの身体の一部ではあっても、意図的になど触れたことのないところ。そこに今指先が擦れ、くに、と転がされる。 「っひぅ……っ!」  まるで自分のものではない様な声が、喉の奥から溢れる。たまらず拘束されている方と逆の手で口を押さえた。何度も掴んだ俺の手首を昇降させる光一郎。逃れようと指を曲げれば、今度は爪がその場所に当たる。クニュクニュと捏ねるように弄られるうちに、目端でも捉えられるほど、それは赤味を増してつんと反り返った。 「ぃや、だ……やめ…………っ」 「嫌?そんなはずないでしょ?こんなに甘い声洩らして」  肩で俺の腕を押さえつつ、光一郎の手が再びその敏感な部分に触れる。痼り固く膨らんだ箇所をくいと摘み上げられると、痛みと共に電流でも流れたかのような感覚が、びくびくと身体を震わせる。もはや抵抗するのもままならない。揉み捻られるごとに、腰の力が抜けていく。 「……ん、っく……ぅ……っ」  時々押さえた手の隙からすり抜けてしまう、女のような甲高い喘ぎがあまりにも恥ずかしくて、下唇をきゅっと噛んで堪える。少し噛み切ってしまったのか、ほんのりと鉄の味が口の中に広がった。

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