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第二章 彗星・6

◇◆◇  和宏は、その言葉にひどく狼狽えていた。一瞬驚いて眼を見開き、どう答えたらよいか逡巡するように視線を泳がし……ほんの数秒、ではあったが永劫の如く感じ……ようやく、ぼそり、と口を開く。 「うぅん、いいよ。ちゃんと帰れるから」 「鞍のこと、気にしてんのか?」  そう問うたのは、こいつが多分、俺と鞍の関係になんらかの疑念を感じているらしいと踏んだからだ。詳しく説明していないし、和宏本人も漠然と、ではあるだろうが、俺が鞍に特別な感情を懐いているとは薄々勘づいているのだろう。俺自身、その感情がどういう主旨のものなのか名前を付けられなくても。  頷くでもなく、目を逸らし口ごもるように相手が答える。 「うん。それもある、けど……」 「けど?」  屈んで顔を覗き込むと、和宏は微かに赤面している。 「な、なんでもない!!とにかく帰るよ、鞍も兄貴も心配してるかもしれないし!」  そこまで拒否されては、無理強いする事もできない。ふ、と息を吐き、別の提案をしてみる。 「なら、風呂くれぇ入っていけ。どっちにしろ遅くなったし、帰るなら送ってっから」  あと小一時間ほどで今日という日も終わる、といった時刻だ。妖の俺が言うのもなんだが、未成年一人を人気の無い夜道に放り出すのはいくらなんでも憚られる。  まぁ、確かに。  こいつにとって俺はいまだ、得体の知れない相手であるのだとは思う。ただの人間、と見ているにしたとしても、所詮は「鞍の保護者的な存在の寺の住職」という程度の認識だと推察する。他のことはまだ何一つ話してはいないのだし。  同時に、俺もこいつのことを詳細に知っているわけではない。ただなんとなく、惹かれるより他は。  しかしだからこそ。もっと深く、知ってみたいとも思う。自分がこの少年に強く惹かれる理由を。自らが、無意識のうちに求めて止まぬものを。 「……あ、うん。じゃあ、風呂だけ入って帰る」  どこか諦めたように、和宏が言った。俺が真顔で引き止めるような真似をしたから、若干警戒したのかもしれないなと省みる。 「なんなら、一緒に入るか?」  だから、冗談めかしてそんなことを口にしてみる。照れて断るかと思いきや、返ってきたのは意外にも了承の頷きだった。 「え?うん、それは別に構わないけど。あ、なんなら背中流すよ」  なんてことまで言うので、逆に面食らう。  それもそうか。いくら可愛らしい顔付きをしていても、こいつは男だ。男同士で風呂に入るくらいは、なんとも思ってないのだろう。 「そうか。じゃ、頼むかな」  くす、と思わず笑いが漏れる。応えるように和宏も、再び笑顔を見せた。 「ほんと、慈玄の背中広いよなー」  言いながら、和宏は楽しそうに俺の背中を流す。泊まれ、と口にした時に見せた戸惑いが嘘のようだ。元々、こういうこと自体は好きなのかもしれない。  浴室も前住職が亡くなって後、手を加えた。といっても、湯船を檜にして少々面積を広げた程度だが。贅沢だろうかとも考えたが、これも現代風の人工素材にはどうしても馴染めなかった。身体の疲れを癒す入浴だ、なるべく慣れ親しんだ木材製のものにしたかった。  水回りのタイルや板張りは、手入れを怠らなければ思いのほか劣化が少ない。古い銭湯や温泉宿の浴場が、多少の修復のみで現役活用されていることでも明白ではあるが。  なので他は、継ぎ足す程度に留めた。決して広大、とは言えない個人宅の風呂場なのだが、少々改装したおかげで浴槽も洗い場も、俺のような体格の者でもゆったり寛げるくらいの空間はある。  和宏にとっては、こんな風呂でもやはり珍しかったらしい。 「ちょっとした旅館の風呂みたいだな!」と、明るい感嘆の声を上げていた。 「俺も、慈玄みたいながっしりした体つきになりたい、って思うよ。バスケしてるし、筋トレとかもやってるつもりなんだけど、なかなか思うように筋肉つかなくてさぁ」  程良い力加減で背を擦りつつ、心底羨ましそうに話す。  そういう和宏は確かに、どちらかといえば華奢な部類だ。ひょろひょろとしている訳ではないが、肩幅もさほど無いし、腕や脚も細い。俊敏そうではあるが、力任せで何かをするというタイプには到底見えない。肌の色も白い。 「はは、いいじゃねぇか。バスケなら速さも大事だろ?重量は軽い方が都合がいいんじゃねぇのか?」 「そうなんだけどさ」  どうやら、若干なよっているように見られる自分に劣等感があるらしい。自分としては、もう少し男らしくありたいのだろう。  こうして、他愛のない会話を楽しむ。 「家じゃ、こんなふうに誰かと一緒には入らねぇのか?」  ふと思い立って、聞いてみる。 「うん。兄貴は異様にベタベタしてくるから鬱陶しいし、鞍には、絶対嫌だって断られちゃった」  なるほど。鞍は、幼い頃から集団行動を徹底的に避けていたと稲城に聞いた。本来ならば、学校の行事などで風呂に大人数で入ることもまったく無くはないのだろうが、あいつにはそう いう選択肢はなかったのかもしれない。俺とも、風呂など断固として一緒に入ろうとはしなかった。着替える姿も誰にも見せたくないといわんばかりに、隠すようにして手早に済ませる。  鞍とて当然男同士なのだから、いわゆる「恥ずかしい」という概念とは少し違うのだろうと思う。それよりは、「肌を晒す」ことがすなわち「己の本質を晒す」という意味に通じていると考えていた節がある。 「それに」  ぽつり、と付け加えるように和宏は言葉を続ける。 「うちさ、父親が忙しくて、一緒に風呂とかあまり入らなかったから。誰かの大きな背中を流すなんて記憶、あんまり無かったんだ。だから、ちょっと憧れてて」  斜めに振り向きその顔を見ると、恥じ入るように苦笑している。 「兄貴が来た頃はしてたんだけど、それでも、こんなに大きくはなかったから」  両親の不在は、理解してはいてもこいつにとってはやはり寂しくもあったのだろう。鞍の事も「友達」ではなく「兄貴」に、と言ったのは、「家族」という繋がりに潜在的な拘りがあるせいかもしれない。同じように、孤児として引き取られた光一郎を見ていたなら尚更。  妖である俺にとっては、想像はできても正確に理解し得る感情ではない。あくまでも長らく生きてきた中で、人間達のそれらしき「情」というものを目にし、推測しているに過ぎない。間違っても、己の感情ではないのだ。だからこそ……無残な罪も犯した。  和宏のその告白を自分のような者が聞き、あまつさえその「憧れ」の代替えとなっていることに、いささかの罪悪感を感じて黙り込む。  なにか拙い事でも言ったかと気にしたのか、おずおずと和宏が言葉をかけた。 「あ、終わった……よ?」  我に返り、返事をする。反対に和宏の背中を流してやってから、二人で湯船に浸かった。

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