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第二章 彗星・8
◆◇◆
意識を取り戻したとき、目の前にあったのは驚くほど近い場所にあった光一郎の顔だった。
「あ。だ、大丈夫?鞍」
「っっ!う、うわああああああぁぁっっ!!」
その横っ面を張り倒し、身体をどん、と押しのけてキッチンの方へ即座に逃げた。冷蔵庫の前にしゃがみ込み、それ以上近づくな、と無言で威嚇する。
「ぃ、たた……ご、ごめんよ。けど、そんなに警戒しなくてもいいじゃない」
殴られた頬を擦りながら、光一郎は嘯く。何と詫び言を言われようと、俺はぎり、と相手を睨みつけるしかなかった。
射精したあとの処理は、俺が気を失っている間に光一郎が行ったらしい。下着もジーンズも気付けば元通りに履かされていた。だが、アレ、を丁寧に拭い取られた、という行為も想像すれば羞恥を増し、また意識のない俺に更に何かしたのではないかという猜疑心まで頭をもたげる。恥ずかしさと悔しさと怒りと、それから自分自身の浅ましさに、身体が震えた。自らの腕を抱きかかえるようにして、身を縮め強ばらせる。
必死で抵抗すれば、逃れられたはずだ。
学生の頃俺は、喧嘩ばかりしていた。無論、光一郎よりずっと体格が大きく、力も強い奴が相手だったこともある。そんな奴等をも打ち負かした経験だってあるのだ。
つまり。俺自身、ああいった「所業」に自ら甘んじてしまった、ということだ。嫌だ恥ずかしいと思いながら、一方で、その快楽に身を委ねてしまった自分がいたことが許せなかった。
再び、数ヶ月前の出来事が頭を掠める。
「はは。これで、完全に嫌われちゃった……かな」
あれほどまで強引なことをしたくせに、光一郎はまるで捨てられた子犬のようにしゅん、と項垂れている。まさか多重人格の傾向でもあるのだろうかと訝しく観察し続けたが、どうやら本気で落ち込んでいるらしい。
「ほんとにごめんね?けど、ずっと我慢してたんだよ。鞍の事を好きだ、っていう気持ちはどんどん膨らんでいくし、もっと触れたい、キスしてみたいって思うの、男なら当たり前でしょ?」
なにが男なら、だ。俺だって男だ。思い切り言い返してやりたくなったが、どうしてもその抗議は口から飛び出してはこなかった。
「でも、傷つけちゃったんだよね。ごめんね」
今にも泣き出しそうな声で、光一郎は言う。無理強いされたのは俺なのに、これでは俺の方がよほど悪者みたいだった。
「謝るくれぇなら最初からするな、このヘタレ」
最初にキスされたときにはきちんと続けられなかった言葉が、ようやく吐き出せた。しかしそう罵りながらも、自分でも驚くほどに声は落ち着いたトーンを保っていた。
「……好きだ、って言ってくれるの、は、嬉しくない、わけじゃない」
誰かに好きだ、などと言われたことは無い。否、二度だけあった、か。だが一度目はそんな台詞をなんの感慨もなく挨拶のように言ってのける相手からで、二度目は、俺に言いながらも別の誰かに向かって放たれたもの、のようだった。
三度目。光一郎から聞いた「好き」は、確かにこの俺に、そしてこんな衝動的な欲情を強行させてしまうほどに、れっきとした気持ちを伴って発せられたものだというのだろうか。
俄には信じがたかった。何度か、言おうにも言えなかった常識的な反論を試みる。
「俺は、男だぞ?」
「知ってるよ」
案に相違して、光一郎は即答する。
「性別なんて関係ないよ。俺は、鞍の事本気で愛したい、って思ったし、ずっと傍にいたいって思った。最初に会った時からずっと護りたい、って思ったんだ。この子にもう二度と痛い思いをさせたくない、喧嘩でできる傷の痛みだけじゃなくて、心の痛みも。俺が、取り除いてあげたかったんだよ。一緒に笑ってみたかった。自惚れかもしれないけどさ、俺なら、分かってあげられるんじゃないか、って。昔の自分と、同じような目、してたから」
まったく、とんだ自惚れだ。
俺とあんたは違う。あんたは確かに同じ孤児かもしんねぇけど、新しい家族が……心底本当の兄として慕ってくれる弟ができたじゃねぇか。
内心そう思いながらも、言い返そうとしても、声が出ない。ただ、ずきずきと光一郎の言葉が胸に刺さった。
そんな弟に恵まれて尚、こいつは寂しげな、不安げな陰を瞳に宿していた。誰かが隣にいたからといって、完全に拭い去れるものではなかったというのか。ならば、俺でも同じだろうに。
それとも。或いは、俺と同じ様な想いを抱えていたとでも言うのだろうか。即ち、自分に何ができるかを。誰かの想いを受け止め、受け入れる事で、自らが「ここに生きる」意味を見出そうと。
それにしちゃ、ヘタレ過ぎるけどな。
一瞬過ぎった考えは、嘆息と共に一言で打ち消された。余計な想像だ。若しくは、やっぱりこいつの自意識過剰だ。
でなければ和宏があれほどまでこの兄を気遣い、また実の兄、としてどこか頼りにもしているふうである意味がわからない。
すっかり呆れ返りながらも、胸に小さく引っ掛かった棘は抜けることはなかった。
光一郎に目を戻すと、相も変わらず肩を落として落ち込んでいる。俺に愛想を尽かされたところで、そんなに大きなダメージを受けることなどないだろうに。
みすぼらしい犬のような姿がつい哀れになって、そろ、と近づいてみる。
「あんた……本気で俺の事、好き、なのか?」
確認せずにいられない。どう考えても疑わしい。
「当たり前でしょ?好きでもない相手にこんなことしないし、相手の気持ちも考えずに自分の欲望に負けちゃった事に、こんなに後悔だってしないよ」
信じられない俺をよそに、ぽつぽつと語る光一郎の声には澱みが無い。
胸が痛い。
と同時に、意に反して再びどきどきと鼓動が跳ね上がり、自分でも奇妙に思うほど顔が熱くなる。どことなく相反している心と体の作用は、まともに思考する気力を奪っていく。
あぁ、もうどうなっても良い。
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