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第二章 彗星・9

「なら、いいよ。あのあと、何もしてねぇ、んだろ?」  だからなぜ、そんなことを言い出したのか自分でも分からない。ただ、数ヶ月前のあのときのように……何も考えられなくなるほどの痛みと怖さと、誰かの身体の熱に溺れる快楽を……自分の思考も肉体も、現実と幻の境界がまったく曖昧になってしまうくらい、ぐちゃぐちゃに混ざり合ってしまうような、あの感覚を得られるなら。  そしてその相手がこの光一郎なら。曲がりなりにも「好きだ」と言ってくれる奴なら。そんな相手が求めてくれるなら、応じてやりたい。今の自分にできる事ならば、それでいい。  そう、思った。  光一郎は顔を上げ、驚いたようにまじまじと俺を見た。が、まともに視線を合わせるのも気恥ずかしい。瞬時に顔を背ける。 「それ、って。続きをしてもいい、ってこと?」 「っ、な、何度も言わせるなよ!」 「でも」  光一郎が躊躇する。理由は、なんとなく察した。 「き、気にしなくていいよ。初めて、じゃぁねぇ……から」 *  ゆっくりと上体を倒された俺の身体に、光一郎が覆い被さる。初めは軽く、ついばむようなキス。やがて唇を重ねる時間が徐々に長くなる。上から押し込められるように侵入した光一郎の舌は、口内を存分に嬲ったあと、俺のそれを引きずり出すように絡まり、自らの方へ導く。互いの唾液が混ざり、下になっている俺の喉へと注がれる。こくり、と飲み込んでみるも、尚も溢れて口端から零れた。 「ん……っく……っ」  眉を顰めたのが苦しげに見えたのか、ようやく離れた唇が、今度は耳をまさぐる。くちり、と耳朶に直接入り込む吐息と湿った感触に、ゾクゾクと皮膚が逆毛立つ。 「は、鞍」  腕を立て、一度身体を離した光一郎が、服を捲り上げて脱がし、上半身の肌を晒す。ジーンズも下着も再度ずり下ろされ、片足に引っ掛かった状態だ。俺はすでに全裸に近かった。  首筋から鎖骨へ、ゆるやかに胸へと、舌が滑り落ちる。じん、と突っ張った胸先の突起を、片や指先で、片や唇で転がされる。甘く噛みつく歯が、触れる。 「……っぃ、や、ぁ……っ……ん……っ!」  手の甲を口に押しつけ、必死に声を耐える。  痛いほどに吸い上げられた後、散々に乳首を弄んだ口は、ちゅ、と音を立ててその場所から外された。濡れた先端は、薄布が触れただけでも過敏に反応し、体中を震撼させそうだった。  一度精を放ったはずの自身も、その責めに耐えきれず再び首をもたげている。体中の血液がソコに集中したかの如く、ドクドクと脈打っているのが自分でも分かる。激しい猛りを宥めるように、光一郎がいきり立ったモノの頂点に軽く口付けた。 「ごめんね。あまり痛くないようにするから」  言って、俺の脚を押し開く。丁寧に舐めて湿らせた自分の指を、光一郎は狭間をなぞるように滑らせ、そのまま奥へと沈み込ませる。 「っぅ、んぁあっっ!」  自らの中をぐちぐちと掻き回す異物に、背筋が何度も跳ね上がる。押さえた手をすり抜け、声が漏れた。  先刻自分の体内から放出された白濁は拭われていたが、僅かに後方に流れ、尻肉の隙間に留まっていたらしい。指の動きと共に、にちり、と鈍い音を響かせる。耳に届くその音が、ひときわ体内温度を上昇させていく。  恥ずかしい喘ぎを押さえるための掌も、もはや口元に留めておけるだけの力を失っていた。何とか手の届くところにあった自分の上着を手繰り寄せ、噛みしめる。 「も、挿れるね?」  言うより先に指は抜き去られ、それとは比べものにならぬほどの熱を孕んだ光一郎自身がぐ、と俺を貫く。 「……んぅ……っふ、ん……っ」  何度も突き上げられ、痛感と快感がごちゃ混ぜになって襲いかかり、何も考えられなくなってくる。自分の奥底に埋め込まれた光一郎の熱が俺の熱と混ざり合い、やがてはどちらがどちらなのかさえ判別できなくなるような。二人の存在そのものが解け合って絡み合い、雪が溶けて地に染み込んでいくように、なんの意味もない物質になって消え去ってしまいそうな。そんな、恐怖と恍惚。 ── それも、「あのとき」と同じ。  数ヶ月前。俺はたった一度だけ、同じことを慈玄にされた。  稲城の旧友とはいえ、ただ彼の施設で育ったというだけの俺をなぜ構い、面倒を見るのかと慈玄に問うた日だ。  最初は言葉を濁した慈玄だったが、どうしても聞きたいとせがんだ俺に、言っても信じねぇかもしれねぇが、と前置きした上で、その理由をゆっくりと説明し始めた。慈玄の正体が実は天狗であること、俺が烏天狗の生まれ変わりであること。かつての俺を、自らの不注意で死なせてしまったこと。そして、過去の俺を慈玄が「好き」だったらしいこと。  そんな突拍子のない話、到底鵜呑みに出来るものではなかった。けれどどういう訳か頭の端に、まるで異世界を舞台にした漫画か映画かのような記憶が断片的に閃いた。  明らかに人ならざるものの姿、黒い翼を携え空を自由に舞う者、そしてそれはまた自分の背中にも存在していたはずだというおぼろげな、だが確信、とも言うべき……  ならばしかし。今現在ここに生を受け、こうしている俺は何者なのだ、という疑念が湧いた。周囲と同様に歳を重ね、無論翼など生えてはおらず、怪我をすれば当然赤い血が流れ急速に治癒するわけでもない、平凡な「人間」としてここにいる自分は一体なんなのだろうと。  とたんに、「今」の自分など実はどこにも存在し得ないものなのではないか、という混沌に陥った。自身、とはただ俺が盲信しているだけのものであり、慈玄の言う「過去の鞍吉」が内包している意識、概念でしかないのかもしれないと。「自分」というものがどうしようもなく空虚に思えるのは、これこそが要因ではないか、と思った。  底無しの泥に足下を掬われたように、ひたすら混乱する俺を繋ぎ止めるが如く、慈玄は俺を抱き締め、口付け、そして、身体を交えた。  激しく高鳴る鼓動と、上昇する体温。身体の芯を打ち震えさせる、痛苦と悦楽のない交ぜになった感触。それらは肉体と意識が、互いに確かに繋がり合い実在していると認識させ、混濁の渦から俺を現実へと引き上げた。  不安も畏れも、自らを解き放つ瞬間に一度は綺麗に払拭され、残されたのはもう何がどうでも構わないとさえ思わせる、気怠くも甘美な微睡みだけだ。  我に返ればひたすら羞恥と、醜態を曝した自分への嫌悪感とで消え入りたくなるのだが、それでもどこかで「情交」という欲望のみに身を任せた行為を、しかも「男である自分が、男に犯される」という異様な状況を、別に構わないと受け止めてしまっている。  いやそれどころか、場合によっては潜在的に自ら欲し求めているのではないか。自分がここに在ると確信するために。誰かの熱と欲とを受け入れる事で、己の負の感情を押し出してしまうために。

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