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第二章 彗星・10

 最初に光一郎を拒みきれなかったのも、現にこうして交わい合っている……それを自ら誘うようなことを口にしたのも、おそらくはそのせいだ。  今ここに至り、はっきりと自覚する。  自らの「存在」を見失いかけて激しく取り乱した挙げ句、男に抱かれるという形の「性交」でそれをうやむやにしたことは、俺自身記憶の彼方に葬り去ってしまいたい出来事だったのだと思う。そんな経緯、すっかり忘れていた。  慈玄も以後二度とこのことは口にはしなかったし、たとえ冗談でも過剰に俺に触れたり、抱きついたりする真似も一切しなかった。  ところがかくて光一郎に、あのときと同じように身体の奥を突き貫かれ掻き回されることで、記憶は鮮明に蘇り、己を打ちのめした。  ああ、なんて。俺は浅ましく、みっともないのだろう。  光一郎の責め立てる行為は続く。肌がぶつかり合う音に伴い、ずっ、ぐちゅっ、という淫らな水音。それから、自分と光一郎の荒い呼吸音。全部がない交ぜとなって、室内に満ちる。 「ン……っふ、ぐ……っ!」  口を塞いでいる布は湿り気を帯び、今にも噛み千切ってしまいそうなくらい歯の間で縒れた。  深く抉られるほどに、自分の情けなさも不甲斐なさも、こんな行為に甘んじている嫌悪をも鈍らせる。朝が来ればまた頭の奥底に沈めて、何事もなかったように忘却させてしまうのだろうか。 「ね、鞍。これ、離して?」  尚も深く突き上げながら、光一郎は俺が噛み咥えている上着に手をかけた。 「……っ、ぁ……」  ぎり、と強ばっていた顎の力を不意に抜く。その瞬間に服は払いのけられ、無防備に息とも声ともとれぬものを洩らすしかない俺の口を、すかさず光一郎のそれが塞いだ。 「鞍、好きだよ?ほんとに、愛してるから」  幾度も交わされるキスの合間に溢れる言葉。真っ直ぐに、俺を見たまま。それだけは「あのとき」とは少し違う。 「一緒にイこ、鞍」  体内を掻き回す光一郎の動きが速度を増し、やがて最奥を突いたところで、その熱がどく、と放射されたのを感じる。 「っひ、ぃあ、あぁアアァァ……ッッ!!」  伴って俺もまた、光一郎の腹に擦りつけられ充分に刺激された部分から、しとどに精を飛び散らせていた。  光一郎は自身を抜き取ると、「ありがとう」と言った。なぜ礼を言われたのか判らない俺は、ゆるゆると首を横に振る。 「礼を言われることなんて、何もしてない」 「そんなことないよ。鞍は、俺の気持ちを受け止めてくれたんだから」  受け止めてなど、いない。俺は自分の欲のために、相手の身体を、熱を、求めたに過ぎない。 「そ、っか。初めてじゃなかった、んだっけ」  ちょっと困ったように、光一郎が笑う。 「けど俺が触れて、俺が鞍の中にいる事は分かってくれてたでしょ?凄く嬉しかったよ。光、って名前も呼んでくれた」  そう言われ、驚く。言った覚えはまるでない。 「囓ってた服、やっと離してくれた時にね?嬉しかった。ほんとに愛おしい、って思えたよ」  そうだ、あの時。  慈玄も同じように「好きだ」と言った。  しかしその目は俺を見ていながらも、どこか違うところへ……そう、まるで別の誰かに言っているような気がした。俺が、今存在している自分と過去の自分なる者との境目があやふやで判断出来なくなったように、慈玄もまた、「好きだ」と言っている相手が果たして目の前の俺でいいものかどうか躊躇ったのではないだろうか。  それとも今の俺だろうが過去のだろうが、「俺」という相手自体にその言葉を発するべきか否か、を迷ったのかもしれない。  なぜか、そんな気がした。  だが、光一郎は違う。  光一郎は、当たり前だが過去の俺の事なんて知らない。出逢ってから今までの俺しか知らないのだ。  その言葉がどれほどの重みを持っているのか、未だ判じがたい。けれど今、ここにいる俺に対して向けられた言葉だった。それだけは事実だろう。 「これからも俺の傍にいてよ、鞍。鞍の事、もっと愛したい。以前に誰と、何があったかなんて関係ない。俺は、今ここにいる鞍が好きだから」  優しく、けれど力強く俺を抱き締めながら光一郎が言う。「初めてではない」ということに対して投げかけられた台詞だろうが、俺にとっては別の意味をも含んで、伝わった。  俺が一体何者であろうと、光一郎が見ているのは、今、こいつの目の前にいる俺だ。それなら、間違えようもない。  これもまた、己を放出したあとの、脱力しきった中での浅はかな思考であるのかもしれないけれど、今は、それでもいいと思った。  慈玄の時と同じ、緩慢な微睡が襲ってくる。けど今は、あのときには決して無かったほの温かい何かが、俺を包み込んでいた。

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