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第二章 彗星・13

◆◇◆  朝晩は未だ冷え込むものの、降り注ぐ日差しは春の気配を感じさせた。尖った氷の如く皮膚に突き刺さるようだった空気も、今は摩耗し柔らかく撫でるようなものに変わっている。  あれから、光一郎……光、と俺は、幾度か身体を重ねた。忘れ去る、どころではなかった。慈玄と違い、光には一切の躊躇などなかったのだから。  勿論、和宏……和が一緒にいる間はそんなことはおくびにも出さない。いままで通り「兄弟」として過ごしている。  その「末弟」がバイトや部活で遅くなる日や、時折家を空ける時。回数こそそれほど多くないが、奴はその都度、俺を求めた。  家を空ける、というのは、この頃どういうわけか和は慈玄の寺へ足繁く通うようになっていたためだ。総菜を余分に作っては、あいつに差し入れているらしい。週末には寺に宿泊してくることもあった。  あの日。俺と光が初めて肌を交えた日、光の携帯電話に慈玄からメールが入っていた。 「和、鞍が住んでたお寺……慈玄、だっけ?のところにいるらしいよ」  光が意外そうに言うのを聞いて、俺もかなり吃驚した。なんで和が慈玄の寺に。俺の知らぬ間に、それほど密に連絡を取り合っていたのだろうか。  宮城家に住むようになって、最初の頃は俺も時々は寺に様子を見に行くことはあった。だが慈玄はそのたび、俺の事は気にしなくて良い、ここは少し遠いし、そっちの生活に馴染めそうならあいつらとの時間を多く作れ、などと言った。それを聞いて、俺が顔を見せるのがかえって鬱陶しいのかとも思い、徐々に足を運ばなくなったのだ。  そもそも半年間一緒に暮らしていたとはいえ、互いに「いるのが当たり前」という状態に馴染むには短い期間だった。俺にとっては、慈玄はただの「同居人」でしかなかった。  むしろ「家族」というものを知らない俺にとっては、ここの兄弟も同じように「同居人」でしかない。あくまでもそれを前提とした「兄弟ごっこ」であり、しかしその関係もこの間のことがあって、何か別のものに微妙に変わったような気がしている、その程度で。  そんな俺と入れ違いに、和が慈玄を訪ねている。  そりゃあ、顔をつきあわせていてもろくに会話もしない俺なんかより、誰とでも親しくできそうな和を相手にする方が慈玄も楽しいのかもしれないなと漠然と思ったが、別段気に留めてはいなかった。  過去の因果など俺には半信半疑のままだったし、数ヶ月前にあんなことが……曲がりなりにも「好きだ」と言われた事があったなど、正直言えば光に同じことをされるまで完全に忘れていたくらいなのだ。  元々俺のいた場所なのにだの、慈玄は俺の知人なのにだのという、嫉妬めいたもやもやもおよそ感じない。真意は掴めないものの一度は俺を抱いた慈玄にしてみれば、こういった俺の恣意は無情かもしれないが、逆に宮城兄弟との同居を薦めたのも他ならぬ慈玄だ。あいつの本意などもはや知る術もない。  だから、和本人の口からなぜ慈玄の寺へ行くようになったのか聞いたときも、別に何の感慨もなかった。 「慈玄、鞍がこっち来てから一人だろ?だからたまには飯くらい付き合ってやろうと思って」  何気なく光がこの件に話題を振ったら、特に隠し立てする様子もなく、和は言った。 「俺がこの家に来たから一人ぼっち、だってか?そんなん気にしてねぇんじゃねーのか?大体あいつ、俺があそこ行くまで十年近く一人だつってたし」  それが他意の無い本心だった。近所に檀家が多くあるあの寺は、俺がいた頃も比較的なんやかやと来客が多かった。やれ法事の打ち合わせだ墓参りついでだとやってきては、慈玄と無駄話していく奴等が結構いた。確かに、夕方以降は俺たちだけにはなったが、あいつが寂しい思いをしているとは到底思えない。 「うん……でも、たまに畳の部屋に布団で寝るのも悪くないしさ。旅館みたいで」  少し照れたように話す和に、俺はふぅん、と気のない返事を返す。 「いいんじゃない?慈玄も和の美味しい手料理食べられて喜んでそうだし」  光はそう言いながら、俺に目配せをした。直ちに視線を外し、軽く嘆息する。  光との情事は、決して嫌ではなかった。  羞恥心に慣れることはなかったし、時々悪ノリされて、変な要求……動物の耳をつけてくれとか、チョコソースを肌に塗って良いかとか……をされることはあったが、基本的に俺が頑として突っぱねれば、光は無理強いをすることはなかった。そのあたりは、こいつがヘタレである所以なのだろうが。それでも自分を「欲せられる」ということが、俺にとっては凄まじく甘美な誘惑だった。  身体の芯がどろどろに溶けてしまいそうなほどの混濁した意識の中で、何度も名を呼ばれ、「愛してる」と囁かれる。その声が唯一の拠り所となり、自分の「存在」を繋ぎ止められる。唯一であるが故に、消え入りそうな自己の中で、その声はいままで感じた事のないほど真っ直ぐに心に入ってくる。嘘か真実か、なんて考える余裕も無いくらい。  信じても良いのか、と錯覚するくらい。  光が実際、俺を本当に愛しているのか、それとも俺と同じようにただ自分を繋ぎ止める何かが欲しいだけなのかはよくわからない。が、光の瞳にちらちらと過ぎる影はやはり俺には見えた。光が俺を「護りたい」と言ったのと同様に、その影を俺もまた紛らわすことがこれでできているのだとしたら。たとえその行為が単なる傷の舐め合いに近いものだったとしても「自分」という存在が誰かに必要とされていると思い込めるのは、抗いがたい魅惑となった。  と、同時に。回数を重ねるごとに、その「行為」自体に依存しそうになるのが怖いとも思えた。  ひたすら快楽のためだけに行われる、なんの生産性もない性交。解き放たれる一時が過ぎ夢から醒めてしまえば、再び元の現実、そして関係。  無論、俺から光との関係を和に言えるはずもなく、光とて決して、和に気取られようとはしない。  もし和に知れれば、おそらく相当なショックを与えてしまうだろう。  関係の変化、自分を除いて共有された秘密。仮にどちらかが女であったなら、あるいはそういうこともあるかもしれないと高校生にもなれば理解し得るかもしれない。が、なにより女が一人交じったら、この「ごっこ」も成立しなかったはず。  そもそも、俺を積極的にこの家へ連れ込んだのは和なのだ。それが、元々「兄弟」であった光と和の関係性にまでヒビを入れた。そのことを和に知られるのは、いくらなんでも忍びないような気がする。  しかし、後ろめたいと思いつつも俺は光の欲求には応じ続けた。後戻りなどできない。兄弟愛、などという得体の知れないものよりストレートに身を溶かす生身の繋がりは、背徳感など吹き飛ばして麻薬のように俺を蝕み、与えられればむしゃぶりつかずにがいられない中毒みたいになっていった。

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