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第二章 彗星・14

◆◇◆  名所、として知られる公園の桜が、いよいよその蕾を肉付かせ始めた、うららかな春の宵。  バイトが休みだった俺は、やや早めに夕食の準備にとりかかっていた。普段、さすがに和よりは手の込んだものが作れず、少し申し訳ないような、そのくせ五つも年下の「弟」に敗北しているようないささかの劣等感、を感じていた。  休みの日くらいは時間をかけて、二人が驚くような料理を作りたいと思った。以前働いていた居酒屋で覚えたコツをフル活用して、いつもより豪勢な海鮮鍋を用意する。  それから和が眺めていたレシピ本を拝借し、副菜も作った。  特製の出汁を取り、あとは煮込むだけという状態にしながら、少々不可思議な感覚に囚われる。  なぜ自分は、こんなに懸命に料理をしているのだろう。  バイト先でも好評のものを、更に自分なりに改良した数少ない自信作だ。奮発して、蟹まで買い込んだ。兄弟の顔を思い浮かべながら。  誰かのことを考えながら食事の支度をするなど、この時が生まれて初めてだったように思う。通常の、到底手のかかっているとは思えぬ食事でも過剰なまでに褒めちぎる光は、どんな反応を示すだろう。そして和は……和は、俺を認めてくれるのだろうか、と。  兄として?いや、光を惹きつけた相手として。  そんなことがふと脳裏を過ぎり、軽く首を横に振る。馬鹿馬鹿しい。一度や二度得意料理を振る舞ったところで、威厳らしきものが得られるというのは虫が良すぎる。  というより、その思考自体がひどく愚かしく感じた。  認めてもらう、だと?    皿からはみ出し伸びた蟹足は、己の虚勢を嘲笑っているかのように思えて来、逆にどうしようもなく場違いに見えてくる。  自分は一体どこで、何をしているのだろう?  赤の他人の家で。血の繋がりどころか、公的な手続きさえ何一つしていない「兄弟」のために。さも彼等に混じって「家族の一員」にでもなったかのように。自身の存在を誇示するかのように。  膝がガタガタと震え、見ているものの焦点が合わなくなる。  ここは本当に、俺のいて良い場所なのか?  ドアホンの音で、我に返る。 「ただいまー。ん、なんかすっごく良い匂い」  先に帰ったのは光だった。おかえり、と返答する前にキッチンに顔を覗かせる。 「わ、なにそれ!どうしたの、今日なんか特別な日だったっけ?」  たっぷり盛りつけられた魚介や野菜の皿から、俺の顔に光は視線を移す。思いもよらないご馳走へ純粋に反応したらしい瞳の輝きが、一瞬にして態を潜めた。 「また。こんな美味しそうなものをたくさん目の前にしてる顔じゃないよ、鞍?」  言われてることが判らず、思わず光の目を見返す。自分では分かりようもない。俺は今、どんな顔をしていたと?  疑問を投げかけるより先に、光はぐい、と俺の腕を掴んで自分の身体に引き寄せた。 「おかえりのキス、してよ、鞍」  してくれ、と言いつつ次の瞬間には自ら覆い被さり、唇を唇で塞がれる。  いままでも、和より先に帰ると光は冗談交じりにそう言い、キスをせがんだ。明らかにふざけているので、普段なら「調子に乗るな」と、掌を挟みこんでそのまま顎を押し返すのが常だ。  だが、この日は様子が違った。拒む間もなく不意打ちにされたまま、舌までねじ込まれる。 「……っん……ぅ……っ!」  絡まり合った舌と唾液が、まるで本当にほどけなくなったかのように執拗に繰り返されるキス。いつもの、情交の始まりと同じ。  それを確定する如く、光の冷えた手がするりと服の下に滑り込む。 「っちょ……っ!ゃ、め……っ!!か、和が帰って、くる……っ!」  なんとかくっついていた胸を押し返し、継いだ呼吸の合間にそれだけ吐き出す。 「和なら(しょう)君とバスケ部の練習に顔出すって言ってたから、もうしばらく帰って来ないよ。それより、今どうしても鞍とシたいんだ。駄目?」  情事を迫る際、ここのところは戯れの状態からなだれ込むことが多かった。最初の時のような、光の翳った表情はあまり見られない。光は俺と身体を通じるのを素直に喜んでいたらしく、愛情と色欲……これがそうだとするなら……の赴くままにのしかかってきたし、俺もそれに流され甘んじて受けていたから、むしろあの夜みたいに様々に想いを巡らすゆとりはなかった、という方が正確か。  しかしこの時は違った。光はなんだか寂しげで、それでいて少し怒ったような様相を顔色と声音に滲ませた。  僅かに怯む。  それでも拒み切るには、キスで上昇しすぎてしまった体温。そして理性とは裏腹に、もっと欲しいと言わんばかりに脈打ち始めた自身。勘づかれぬよう、密接していた腰を引く。とはいえ、熱くなった部分は隠しおおせるものではない。  光は俺を再度引き寄せると、そのまま俺を抱きかかえリビングに運び、ソファの上に落とした。すかさずシャツを捲り上げ、ややせわしない愛撫を始める。  耳を甘く噛まれ、指先で痼った乳首を転がされただけで、もう和の帰宅のことなど考えられなくなりそうだった。 「……っゃ、だっ!……だ、めだ……っっ!!」  辛うじて反射的に口から溢れた拒否の言葉。そのくせ、己の手は光の袖の付け根辺りをしっかりと握りしめている。自らの言動の矛盾が歯痒い。 「嘘。鞍、触れて欲しかったでしょ?ほら、ここも」  ジーンズのファスナーを下ろされ、下着の上から息苦しそうに膨れあがったモノを撫で上げられる。ひ、と喉の奥から思わず声が漏れた。  光の指先に力が加わってくる。軽く揉み擦ったあと、履き口から忍ばせ、直に触れる。 「……こ、ぅ……っ!ゃ、あぁ……っっ!!」  きゅ、と強めに抓まれた亀頭から、溢れ始めた体液が滴るのを感じた。 「俺も今、鞍が欲しいよ」  室内灯を背にし、陰影のかかった眼で見下ろした後、光は手を休めぬまま改めて唇を重ねた。  その時だった。 「ただいま!鞍、いるんだろ?バイト休みだって言うから、久しぶりに一緒に夕飯作ろうと思……っ……」  玄関のドアが開閉する音、続けてぱたぱたと居間に続く廊下から近づく足音と声。あっという間に俺達のすぐ傍まで到達し、そして、消えた。 「…………あ……」  何が起きたか、一瞬判断できなかった。  もぞもぞ蠢いていた光の手がぴたりと止まる。  仕切ドアの前で見開かれた、大きな瞳。その双眸もまた、網膜に飛び込んでいる光景が何だかわからないというように制止する。  ソファの上に、半裸で折り重なった二つの見知った身体。それが和の目にどう映り、どう和が思ったのかはわからない。  が、ただふざけてじゃれ合っているわけではないことくらい、あの歳ともなれば理解できただろう。  和はそのまま踵を返すと、後は一言も発せずに今来たところを駆け戻った。再び、ばたん、とドアの音。  声を掛ける暇もなかった。すぐに追わなくては、と脳は伝令するものの、組み敷かれた状態の身体は微塵も動く気配がない。  光も仕切ドアを振り返った姿勢のまま、凍り付いたように動作を止めていた。  時の流れが無くなった世界。そんなありえない場所に今正に放り込まれた、そうとしか思えなかった。

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