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第二章 彗星・15

◇◆◇  慈光院は、住宅街を少し外れたやや高台に位置している。本堂の敷地から墓地を巡る道路は緩やかな坂道となっており、寺側を挟んだ向かいはガードレールで囲われ、そこから眺めると住宅の屋根は眼下に連なる、といった具合だ。  寺を境にし、東側が桜街方面となる。檀家は反対側の、西にある隣町に多くあった。  その西側の隣町から、俺は寺に向かう帰路に就いていた。  春の彼岸が近いので、法要の打ち合わせが多い。とはいえ打ち合わせ、と称する話はごく僅かで、雑談が大半を占める場合も多いのだが。  この日も、法会の手順などは小一時間にも及ばず、残りはやれ子供が孫が、というご老体達の聞き役だ。老人といえども実際は俺よりもずっと年若い、ことになる。  長寿を全うしても、人間の一生はかくも短い。それでも彼等は愚痴を言いながらも実に満ち足りた顔付きをしている。  長々と生きながらえている俺という存在は、果たして彼等にはどう映っているのか。柄にもなく、そんな詮無き思考が頭を過る。  陽は既に沈んでいたが、西の空にはまだ微かに紅い色が残る。ほんの一週間ほど前まで、凍えた空気の中くっきりと見えていた街の灯りは、今はもう淡く春の靄に覆われ霞んでいた。  ようやく門の前まで辿り着こうか、という頃。俺が歩いて来た方向とは逆側……つまり、桜街の方から小さな影が近づいてくるのが見えた。とぼとぼと坂道を登っている。とうに見慣れてきた赤茶の髪は、薄暗くなりかけた空間でもはっきりと認識出来た。  先日のこと。初めて和宏が差し入れを運んで、寺で一晩を過ごした日があって以降、どういうわけかこの少年はここを訪れることが多くなった。むしろ、あんなことがあったのだから疎遠になってもおかしくはないはずだと思っていた。  ところが和宏の行動は予想に反して、俺にはそれが甚だ意外だった。  あの時と同じように家で作った総菜を持ってくることもあれば、材料を買い込んで来て寺の台所で一から調理することもある。週末ともなれば着替えまで用意して、自ら率先して泊まっていったりもした。  そうやって俺に気を遣い、食事を共にしてくれる事に関しては、素直に感謝しないでもない。が、先日和宏本人が口にしたように、俺が独りでいることに対し負い目を感じているのだとしたら要らぬ配慮であるし、それよりは兄弟水入らず……疑似家族とはいえ鞍の方にこそ、和宏が思うところの「家族」というものを教えてやって欲しいと思っていた。  俺の方は、といえば。未だに和宏の持つ気の流れに興味はあるものの、それを欲するという考えはあの日の一連の行為ですっかり態を潜めている。  あのとき、確かにその「光」が育っていく様を近くで見ていたい、とは思った。しかしそれこそ、いずれ帰山せねばならぬ自分には到底叶わぬことではないかとも考える。  和宏はごく普通の高校生なのだ。自覚さえない力を成長させたところで、どんな利点があるというのか。  だが。  そんな想いとは裏腹に、何度もこの少年と接しているうち、やはり心穏やかになる己がいることも確かだった。  こしらえた料理を美味いと言えば純粋に喜び、ちょっとからかうと照れて拗ねる。ころころと表情の変わる大きな瞳を眺めるのが、率直に愉しいと感じた。  根底の「光」のせいだけではあるまい。  和宏の本質、育ってきた環境や周囲との関わりによって培われた感情。そういったものが相俟って、持てる「気」をも温かな灯火のように輝かせている。その傍に居ることに、自分が本来感じてはいけないであろうはずの至福、というものを俺は著明に感じ取っていた。  初見の印象通りの、外見や言動の可愛らしさも手伝った。理性とは反して、和宏がここへやってくるのを、俺は確実に心待ちにもしていたのである。  無論、あの日以来身体的に手出しするような真似はしていない。  冗談半分に髪や頬に口付けたり抱きついたり、はしていた。それに対し和宏は真っ赤になって怒りはするものの、拒絶する様子はなかった。それどころかスキンシップ自体には抵抗がないようで、事務処理をしている俺に肩を揉もうか、と言ってきたり、手を握ったまま隣で眠ったり、そういうことはままあった。風呂もまた一緒に入りたいという。  おそらく、あの日父親の話をしていたように、和宏自身も少し寂しいのだろう。しかし、俺は到底、息子のように和宏を見る事はできない。  それは却って鞍よりも、おおよそ「保護者」という立場とはかけ離れた感情のように思う。  惹かれている、とあの夜自ら発した言葉は、自分でも意外なほど真実味を帯びていた。光の正体を確かめたい、力の成長を見届けたい。結局そんなものは、言い訳でしか無いのかも知れぬ。……そうではなく、俺は……。  坂を上り近づいてくる姿が徐々に間を詰め、そう幾つもない外灯の下を過ぎようとしたとき、白く浮かび上がった頬が濡れているのを認めて、俺は少なからず動揺していた。

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