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第二章 彗星・16

「慈玄」  俺の目前に立った和宏は、やはり泣いていた。 「?! ちょ、どうした」  声を掛けると、下睫毛に溜まった雫がみるみる膨らみ、留まりきれずに溢れ出した。 「俺……どう、していいか、わかんなく、て」  ここに来るまでずっと堪えていたのだろう、涙は次から次へと頬を伝って落ちていく。  俺は一つ息を吐くと、和宏の背を押し門の内へ導いた。 「まぁ、とりあえず入れ。ここなら安心だろ?ゆっくり話は聞くから」  居間へ通し、俺が湯を沸かして茶の準備をするまで、和宏は小さくしゃくり上げながら肩を震わせていたが、淹れた茶を一口嚥下すると、やっとぽつり、と声を発した。 「ごめん」 「別に謝るこたぁねぇから。何があったのか言えそうなら言ってみな?辛ぇなら無理に話すこともねぇが」  茶を啜りつつ、俺はそれだけ言って和宏が続けるのを待つ。また若干の沈黙が流れた。 「鞍、今日バイト休みだ、って言ってたから。バスケの練習、早めに切り上げて、一緒に飯作ろうと思って、帰ったんだ」  端的な要因を言いづらいのか、再度口を開いた和宏はそんな経過から話し始めた。黙って先を促す。 「そ、したら。その、兄貴が、先に帰ってて……鞍と……」  そこまで言って、和宏の言葉は途絶えた。が、俯かせていた頭を更に落とし、垂れた髪の隙間から見える耳と頬が見る間に紅く染まるのを見て、大体察しが付いた。  察しは付いたが、まさか、とも思った。さりとてありえないことではない。  鞍の前世は、俺たちと同じ「天狗」だ。すなわち、同様にどちらかといえば種族的に女人との関わりが薄いと言える。更にそれ以外にも、転生前のあいつには「女」というものをすんなり情愛の対象にできない要因がいくつか、ある。  現世の鞍は、もちろん過去のものとは違う。だが、魂の根底が同じであるが故、意識や感情、時には環境にも前世の影響が及んでいる。  鞍に限らず、妖だったものが転生すると大抵それは色濃く反映する。稲城が養護施設などというものを構えている理由も実はそこにある。元妖の人間は家族との縁が非常に薄くなるため、必然的に孤児となる者が多いからだ。  とにかくそういった過去の投影もあって、現世でも鞍は他人との交わりを極力避けてきた。対人交流、というものに免疫があまり無いのだ。逆に言えば、今現在のあいつの心理さえも、「同性に迫られてもさして生理的嫌悪感を懐かない」状態に追い打ちをかけている。  だからこそ、俺は鞍を「抱く」ことであいつの気を鎮めようとしたのだ。案の定奴は最終的には拒まぬどころか、情交の最中はむしろ縋るように身を任せた。  俺は、鞍がそういう性質であることを「知って」いた。  光一郎が鞍に対し、いつからどういう感情を懐いていたか、は俺には把握できない。しかし自らが犠牲になって殴られてまであいつを護った奴だ。加えて、孤児として同じような環境にあったとすれば、同病相憐れむ、ということがあっても決して想像には難くない。 「つまり、だ。光一郎と鞍が、キスしてたか、若しくはそれ以上のことをしてた。それをお前は見た。と、いうわけか」  どうしても言えなかったであろう結論を指摘すると、和宏はその光景を思い出しいたたまれなくなったのか、小さく丸めた肩をさらに丸め、身を縮める。つい溜息が洩れた。  先日の状況から鑑みるに、セックスどころかその手の話題にも……いや、それ以前に「恋愛」そのものの経験すらもほぼ皆無に等しいであろう和宏にしてみれば、それはあまりにも衝撃的だっただろう。もしかしたら、あの日自分が俺にされたことよりも、あるいは胸を抉る出来事だったかも知れない。  あの二人を、血の繋がったそれ以上に兄として、「家族」として見ようとしていた和宏ならば。 「お前は、誰かに惚れたことはあるか?」  しばらく考えあぐねて、ふと、俺はそんなことを和宏に問いかけてみた。 「そりゃ、あるよ」 「ん。その相手をもっと知りたい、もっと触れてみたい、心のことも身体のことも、ひとつ残らず理解したい。好きなら、そういう欲求が生まれることは?理解できるか?」 「…………」  僅かに顔を上げた和宏の、大きな双眸が俺に向けられる。 「できるよな?だからお前は、俺を赦してくれたんだろ?」  濡れたままの頬に触れ、親指で涙の軌跡をなぞる。あの夜を思い返して再び羞恥心が頭をもたげたのか、尚も紅潮しながら小さく頷いた和宏を、俺は確かに愛おしい、と感じていた。 「なら。光一郎が鞍に対して、兄弟、という関係を越えてそういう感情を持ったとしたら、お前は弟としてどうしたい?」 「…………あんなヘタレな兄貴だけど、あの兄貴がそう、本気で思ったなら応援してやりたい、って思う」  予想通りの言葉に頷く。  こいつなら、きっとそう答えるだろう。俺はなぜか確信していた。あのとき、自らの身に起きた恥辱より、俺の想いを汲み取ろうとしてくれた和宏だ。それは多分、あの「兄」二人に対しても変わることはないのだろう。  真っ直ぐに俺を見つめる和宏の瞳に、もう涙は無かった。 「ん。とはいえ、混乱したのは分かるさ。あいつらにもそこはちゃんと分かっておいてもらわねぇとな?」  言いながら苦笑して見せると、和宏も釣られたように微笑んだ。  いつもと同じように、和宏がこの寺を訪れる度に感じる、柔らかな光が満ちてくるのに促され、俺は言葉を継いだ。 「それから。お前自身は、どうだ?光一郎がそう思ったように俺もお前に対し、同じ事を思っているとしたら。お前は、まだ赦すだけ、か?」 「……え?」  和宏の頬に添えたままの手を、するりと下にずらし、顎を上げさせる。予想外の質問に拍子抜けしたのか、ぽかんと開いたその口を、俺はゆっくりと自らの唇で塞いだ。

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