28 / 190

第二章 彗星・18

 近頃頻繁に寺へ足を運んでいた和が、俺のことで思い悩んだとして、それを慈玄に相談にいくことは大して意外ではない。それは光とて同様に思っているはずだ。だから、そのせいで戸惑っているわけではないのだろうと推測する。  だったら? 「慈玄から、なんだけど。鞍に代われ、って」  何を言われるか、とっさに予測はつかなかった。とりあえず、光から受話器を受け取る。 「鞍か?」  やけに、久しぶりに聞いたように思える声。やや音程を落とした……そう、大体こいつがこういう声で喋るときは、俺を戒める時だ。 「あのな。光一郎にも言ったが、お前が誰を想おうが誰と寝ようが構わん。むしろお前が誰かしらを気に掛けるのは、俺としても歓迎すべきことだと思ってる。お前に足りなかったのは、そういう感情、だからな?」  案の定、切々と説くように、慈玄は言う。  慈玄は、結局のところ俺をどう思っていたのだろう?  あのとき「好きだ」と言われた。その言葉は俺に向かいながらも、俺を通り抜けていくような感じがした。あれが、つまりどういう意味だったかはもう知る由もないし、どこかでどうでもいいとも思い始めている。光の同じ言葉を、ただ真っ直ぐに俺に向けられたそれを、知った時から。 「だがな」  慈玄の声が続く。 「時と場所、だけはよく考えろよ?和宏にどういう想いをさせたか、それは、分かるな?」  そんなことは、言われなくてもわかってる。  和の好意を己の欲望のために踏みにじった、とさえ思ったのだ。  今改めて考えれば、他人のことなどまったく興味がなかった俺がどうして急にそんな風に思えたのか、自分自身の思考はなんだか不可思議、ではあったが。  しかし、そんなことよりもなぜ慈玄がこれほど和を慮るのか、が解せない。  今回の件を、和がどう慈玄に告げたのかは分からない。だが、間違っても自分が被害者面して、あいつに泣きついた訳ではないだろうことは安易に想像できる。  この一月余りという短い期間、和と共に過ごしただけでもそれはわかる。和は、見ている方がやきもきするくらいに、断じて自らを正当化するようなことを言わない奴だった。優等生で、何でも器用にこなし、容貌も性格も確実に多くの人間に愛される要素を持ち合わせているのに、そのたった一つでさえ鼻にかけようとしない。それどころか自分など大した事はないと、常に謙遜し相手を立てようとする。  俺のように虚無な人間にとって、かえってそれは厭味に見えた。が、質の悪い事に厭味に思う方こそ卑しいのだ、とこちらに思わせるような純潔さまで、奴は持ち合わせていた。  そんな和が、自分がいかに苦しかったかなど滔々と語るはずがない。たとえ、誰に対しても。  と、いうことは。 「それで、和宏だがな?しばらく、こっちに住まわせようと思う」  それは、ひとえに慈玄の意志、だ。 「なにも和宏が、お前等のところに帰りたくない、と言っているんじゃぁねぇ。むしろ本当にお前等が想い合っているなら、自分も応援したい、と言ってる。それなら、ってんで俺が提案したんだ。和宏の方は承知したよ。一つ屋根の下にいなくとも、兄弟は兄弟だろ?だってよ」  ああ。  和は、光の信じた通りの弟で……そして、俺を「家族」として受け入れたように、大方慈玄にもその想いを傾けたのだ。  あいつが一人で寂しいかそうじゃないか、なんて関係ない。和にとっては関わった者すべて、等しく懇親を向ける対象なのだろう。  だとしたら、あのとき俺を素通りしたあいつの言葉は、和のような相手に向けられるべきなのかもしれない。慈玄の言葉が、俺ではない誰かへ放たれたように感じたのは、俺自身もそれを受け止められなかったからではなかったか。慈玄の口から溢れた言葉であるとは認識していても、ただ自己を手放したかった俺は、目の前の相手をまったく見ようとしていなかったのではないか。  和と慈玄が、互いに互いを実際どう思っているかはいまだ俺には知り得ない。しかし和ならば、零れそのまま空気に溶けてしまいそうな言葉でも、両手で掬い上げることができるような気がする。慈玄も、包み込んだ掌の主には真っ直ぐに目を向けるだろう。  多分、慈玄は和の想いを「汲み取った」のだ。あいつは、差し伸べられた和の「掌」を必要としたのかもしれない。  自分がいくら腕を伸ばしても、目を背け、逃げ惑っていた俺とは真逆の。  漠然と、とはいえ頭を過ぎったその憶測は、だがすんなりと腑に落ちた。  ろくに受け答えもしないまま、俺は受話器を置いた。隣にいる光も、大体同様のことを慈玄に言われたのだろう。 「光は、それで、いいのか?」 「和のこと?」  ゆるく頭を落とし、頷く。  いくら俺が元々居候していた場所とはいえ、まだ知り合って間もない奴のところへ弟を預ける、というのだ。 「鞍が世話になってた相手でしょ?だったら大丈夫だよ。それに、この家が和の家でなくなったわけじゃない。帰りたくなったら帰ってくるだろうし、どちらにしても誰かが和に強要したんじゃなくて、和が決めたこと、だろうしね?」  和が去った方向を見つめながら、「必ず理解して、戻ってくる」と言った。その時と同じ信頼を滲ませ、光が言う。  俺だけが、たった一人で混乱し動揺しているような気がした。  光も、慈玄も和も、それぞれが信じられるもの、求めるものを見据えて、心に従って歩み始めているように思えた。  俺は、こいつらが行き交う道の真ん中に放り出され、どちらへ向かうかもまだ分からずに立ちすくんでいる。  きっとそれが切なく、悔しく、情けなく、そして、悲しいのだろう、と思う。  再び頭の奥が熱くなり、それが溢れ、零れ落ちる。膝の力が抜ける。尽きることなく涙は、頬を流れ顎を伝い、床の上に降った。  年甲斐もなくとか、男なのにとか、そんな当たり前の矜持さえ失せていた。ひたすら感情の波に翻弄されるままに泣いていた。どんなに幼い頃でも、物心ついてからというもの……否、ほとんど死にかけた状態で拾われた赤ん坊の時でさえ、こんなにも泣き喚いたことはないかもしれないというのに。  すぐ横にいた光がしゃがみ込み、頽れた俺の顔を覗き込む。真っ直ぐに、俺に、向けて。 「俺の傍に……隣に、いてよ鞍。俺は、鞍の傍を離れたりしないから」  今の俺には、その手を握り返し縋る他はない。足を踏み出す方向すら分からないなら、手を引かれ、導いてもらうしかないのだ。 「光……俺……は……おれ、は…………っ」  見苦しい、浅ましい、愚かだ……どうしようもなく、愚かだ。  誰とも深く関わらず、誰の手も借りず、一人で立っていたと思っていた。ところが気が付けば、自分の足でたったの一歩も踏み出せていない。どこへ往くのか、見定めることさえできていなかった。 「ごめんね、鞍。俺が傍にいる。愛してる、愛してるから」  こんなどうしようもない俺に、謝罪の言葉を口にする光。その声を頼りに、はぐれたくなくてしがみつく。  身体を引き寄せられ、請われるままに。俺もまた無我夢中で噛みつくように、光の唇を何度も何度も欲し求めていた。

ともだちにシェアしよう!