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第二章 彗星・19

◇◆◇  受話器を置く。  鞍は困惑を含んだ相槌を打っただけで、まともな返答は得られなかったが。  これでいい、と思う。  ここで下手に物分かりの良い言葉を投げかけたら、あいつは尚更迷い悩むだろう。今の俺が出来るのは、鞍を擁護することではない。背を押し、促してやることなのだと。  あいつにとって、現段階では俺より光一郎の方が、遙かに重大な何かを与えてやれるような気がした。  そして今、それよりも俺には。  振り返ると、驚愕に目を見開いた和宏と視線が交錯する。何か言いたげにぱくぱくと口を動かしているその顔に、先ずは笑みを返す。 「……え、っと。ほんとにいい、の?慈玄、それで……」 「いいも何も。その通り、だろ?」  再度笑いかけると、和宏は頬を紅潮させたまま俯いた。  光一郎と鞍。あいつらに、ささやかな欺瞞を働いた。  鞍達と同じ家で寝起きするのが気まずいなら、ここにしばらくいるか?と進言したのは本当だ。しかしこの時点ではまだ、和宏は明確に承知していたのではない。にも関わらず、俺は奴等に、すでにこいつがこの寺に住まうと決定していたかのように告げた。  鞍に芽生えかけた気持ちを育むためにも、また和宏が余計な気遣いをしないためにも、ならば少しの間あいつらと共に暮らさない方が良いだろう、と考えたのも事実だ。  とはいうものの、なにより俺自身が「そうして欲しかった」ことは否めない。  和宏に、ここにいて欲しいと願ったのだ。夕刻の僅かな時間や、週末だけでなく。  *  重ねた唇を静かに離すと、和宏は大きな眼を更に大きくし、身を硬直させていた。 「キスも、初めてだったか?」  泣き腫らした後で、頬にも鼻梁にも淡く紅色が残っていたが、それらを更に染め上げるが如く顔を赤らめる。  返事は無かったが、その様子でどうあっても慣れているものではない事が確実に伝わる。 「慈玄は、その、ほんとに俺のことが好き、なの?」  僅かな間を置き、答えの代わりにそんな問いかけを俺に返す。 「この前も言ったろ?好きでもねぇ奴に触れたいとは思わねぇ。まして、キスなんてしようとも、な?」  艶やかな頬を撫でながら、言う。その言葉は、自分自身への確認でもあった。やはり上滑りするような虚ろさは、無い。  同じことを思って、鞍にも触れたはずだった。否、それどころか和宏に触れたときに言ったのは、単に弁解でしかなかった。  だが今となっては、その響きは俺の最初の思惑と全く正反対な重みを伴っている。  妖として気の遠くなるような年月を生きてきたというのに、自らの感情の正誤すら理解できていなかったのだろうか。それとも過去の罪を悔い、同じ過ちを繰り返さぬよう制御していたがために、「情愛」というものを倒錯してしまっていたのだろうか。  ならば、今ここで和宏に向けているものも、決して嘘偽りのない想いだ、とは自分でも言い切れない。言い切れないが、こいつと共に過ごす時間が、俺の存在してきた気の遠くなるような年月においても、まず一度たりとも感じ得たことのなかったものを内包している、それだけは事実だった。  様々な相手と逢瀬を重ねていた時も、高尾坊の拾った子烏がようやく自分に心を開き始めた時も、失意のままに失わせてしまった命がこの現世に再び生を受けたと知った時も、それぞれの想いは胸に、あった。  喜びや安らぎ。そして愛し、慈しむという感情。己がそうだと思ったものは、今までも幾度となくあったのだ。  しかし。  あの夜、和宏の持つ気の流れを、身近に、かつはっきりと感じたあの時から、こいつと一緒にいる空間には、そんな「己の想い」などという独りよがりのものさえ超越した、肌を掠める空気まで変わるような、そんな感覚を憶えた。  それは決して手放したくない、失いたくないと思わせるものであり、俺に新たな執着を懐かせた。 「俺みてぇなのに、こんなこと想われるのは迷惑か?」  和宏は首を横に振る。 「好きだ、って言ってもらえるのは嬉しいよ?だけど……ごめん、まだよく分からなくて」  心底申し訳なさそうに目線を落とす。当然だろう。でなければ、光一郎と鞍の関係にも、あれほどまでに当惑するわけがない。 「あ、でも!」  だが、思い立ったようにすぐさま顔を上げた後、続けて言った。 「その、さっきのキス……は、嫌、じゃなかった、から」  否定するのが悪いと感じたのか、慌てて補った言葉のようだったが、照れながらも明瞭に発せられたそれは、やはり和宏の誠実さを物語っている。  弁明だろうが言い訳だろうが、嫌ではない、と言われたことに対しては率直に安堵した。 「そうか。ならよかったよ」  ほっと息を吐いて返すと、はにかみつつ首を縦に振る。まんざらただの補足でもなかったらしい。少々意外に思う。 「お前が嫌じゃねぇんだったら、しばらくここにいるか?いくらあいつらのことを認めてやれても、そんな関係の二人のとこで一緒に暮らすんじゃ、何かと気まずいだろ?」  だから、割と気負いもせずそんな提案を口にできた。この流れなら、和宏はすんなりと受け止めるかもしれない。その思惑は、確かにあった。  和宏のためでも、鞍や光一郎のためでもない。これは、俺の願望だ。  相手の是認どころか一言の返事すら待たずに、俺は受話器を取り上げた。

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