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第二章 彗星・20

 * 「あいつらにはあぁ言ったが、別に無理に、とは言わねぇぜ?お前が帰りたい、あいつらと一緒にいる方が良い、ってんならそれでいい。そうは言っても俺のことなんて、まだよく知らねぇだろうしな?」  電話口から和宏の眼前に戻り、座る。小動物のような少年は、俯いて視線を逸らしたままだ。身を傾け、下に隠れた表情を覗き見る。  ちらちらと瞳だけを上下に動かし、俺の顔色を窺いつつ、おそるおそるといった体で和宏が口を開いた。 「そう、じゃないんだけど。その」  また口ごもる。決断を鈍らせるのは、家主の素性が計り知れないという理由からではないらしい。 「ん?」 「慈玄は、鞍の事が好きなのかと、そう、思ってたから」  驚いた。そんなこと、俺は一言たりとも口にしていない。  もしかしたら鞍が、俺に好きだと言われたと和宏等に話した可能性ならあるが、どうにも釈然としない。  あいつは、俺があのとき言ったことなどおそらく頭の片隅にすら残ってはいまい。仮にあったとしても、あの混乱した状態だ、ずっと奥底に沈み込んでいるだろう。 「なんで、そう思った?」 「だって。慈玄、いつも鞍のこと心配してたし、気になってたみたいだし。よく、俺にどうしてるか、って聞いてたから」  なるほど、そういうことか。確かにまったく気に掛けていなかったといえば嘘になる。が、それとは別に、会話する切欠を探すとき、こいつとの共通話題といえば必然的に鞍のことになりがちだったせいもある。挨拶代わりに、「鞍や光一郎はどうしてる?」と尋ねる回数は、そう言われれば多かったように思う。  とはいえ相手を気遣い、よく観察している和宏だ。自分自身の恋愛感情には疎くても、他人のそれには過敏なところがあるのかもしれない。  今更ごまかしても仕方あるまい。ひとつ、深く呼吸する。 「あぁ。好き、だったな」  予測はしていただろうに、向けられた視線が微かに泳ぐ。 「鞍はな、俺にとっちゃ、永い間想い続けて来た相手だ。多分あいつにしてみりゃ、俺なんざ何の思い入れもねぇだろうが。けどな、あいつと半年程一緒に暮らしてきて、正直俺も、あいつに必要なのは俺じゃねぇのかもしれねぇという気がし始めた。他に、あいつに手を差し伸べてやれる奴がいて、鞍も相手の手を握れそうならば、俺もその方が良いと思う」  反論したげに、和宏の口が動く。が、そこから洩れたのは掠れた息遣いのみだった。 「お前の兄貴が鞍にとってそういう相手だというなら、俺はなんの異存も無い。さっきの電話で、鞍に言った通りだ。それに、今は」  改めて、大きな瞳を注視する。揺らいでいた光は制止し、真っ直ぐ俺に向けられた。 「お前の事の方がずっと気になるんだよ、和宏」  何の躊躇いもなく、流れるように連なった言葉に偽りの響きは無い。出任せなどではなかった。  和宏によって俺にもたらされたものは、かつての想いや経過をとうに凌駕していたのだ。それほど鮮烈で、精彩で、他のどんな物事より得難いだろうと思われた。 「じゃあ、ほんとにいいんだな?鞍のこと」 「あぁ」  正面から見つめ、深く頷いてやる。俺自身には、もう迷いは無いと分かるように。 「わかった」  意を決したように、和宏もこくりと頷く。 「明日、学校が終わったら家に寄って荷物取ってくるよ。そのとき、俺からもちゃんと兄貴と鞍に話す」  力強い声だった。こいつの内面は、見た目ほど女々しくはない。決断力があり、行動力もある。 「あの、お世話に、なります」  そんなことを言いつつ、かしこまって深々と頭を下げたのがおかしくて思わず吹き出す。 「わ、笑わなくても良いだろ」と口を尖らせる仕草も、すっかり普段の和宏に戻ったことを証明していた。 「あ。なぁ、慈玄」  ひとしきり互いに笑いあった後、ふ、と真顔に戻る和宏。 「なんだ?まだ気になることがあるのか?」 「うん、その……」  醒めたと思った頬の紅が、再び色を浮かび上がらせる。膝と手を擦り合わせ、もじもじと落ち着かなさそうに絶えず身をくねらせ、上目遣いで俺を窺う。 「なんだ、便所か?」 「違うよ!」  もちろん、冗談のつもりだった。そうでも言わなければ、羞恥のあまり言いたいことを飲み込んでしまいそうな気がしたからだ。  先を促すと、またしても面食らうようなことを、和宏は口にした。 「その、慈玄も鞍が好きだったなら、兄貴と同じようなこと、鞍にしたことある……の?」  ここまで来ると、無意識ながらこいつには、何でも見通す力でも備わっているのではないかと錯覚する。  天狗が人間の千里眼を畏れるというのも変な話ではあるが、これから共に過ごすのならばと、その辺りは隠し立てせず正直に話すことにした。 「あ、あぁ、まぁな?」  嘆息混じりに応える。 「やっぱり。好き、なら、あぁいうこともしたい、って思うのかな」  鞍の様子と共に、自らがされたことも再び思い出したのだろう。その声は消え入りそうに小さくなり、紅潮が耳朶にまで広がる。  俺とて、情交が必須の愛情表現だとは思っていない。むしろかつての自分がそうであったように、快楽だけに溺れ、感情など二の次になることだってある。  しかも今こいつが思い返し脳裏にあるのは、「同性同士」の、謂わば通常の姿ではない、歪んだものだ。経験も知識もろくに持ち合わせていないだろう少年に、ただ肉欲のままに求め合う行為を肯定するのは、若干後ろめたい気がする。  反面、あの夜も今この時も、和宏への想いを口にし、尚かつ確信の重さを増してゆく中で、こいつに触れたのがあのやや事務的なもののみであるのもなんだか申し訳ないようにも思う。  それがすべて、ではないが、愛しさ故の行為であることも間違いではないのだ。 「まぁ、そりゃぁ、な」  結局、曖昧な返事をする。 「俺にも、またしたい、って思う?」  好奇心も加わっているのだろう。身を乗り出し、和宏は重ねて問う。こちらの逡巡などお構いなしの純真さに、ちょっと意地が悪いか、と思いながらも問いで返す。 「お前はどうなんだ?俺にまた、あぁいうことされてもいいと思ってんのか?」  腰を引き寄せ、敢えて耳元で囁く。ぴくり、と背筋が震えるのが分かる。 「何度も言うようだが、好きでもねぇ奴に触れてぇとは思わねぇ。逆に言や、好きな奴にはいつだって触れていてぇ、ってことだ。俺だって同じだ。想う相手のことなら、なんだって知りてぇさ。心も身体も、色んな表情や仕草や、そういうもん全部見てぇし、自分のものにしてぇよ?だがな」  そこまで言い、腕を緩める。向き合った視線を、真正面で捉えながら。 「あくまでも、そりゃ俺の欲望だ。俺のその感情だけでヤッていい、ってんならそうさせてもらうけどな?」  和宏の表情に、僅かに怯えが走る。ちょっとした脅しをかけたのは伝わったようだ。  しかし、視線はもう逸らされることはなく。ごくり、と小さく喉を鳴らしてから、和宏は口を開いた。 「俺は……俺も、慈玄のこと、もっと知りたい!」  目を逸らしたのは、俺の方が先だった。忍び笑いを堪えることができずに。  完全に敗北を喫した。それを認めざるを得なかった。

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