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第三章 北極星(ポラリス)・1

◆◇◆  海を、見ていた。  浜辺が人でごった返すのにはまだ早い季節、初夏の緩やかな風に水面が凪いでいる。その時期になってもここは穴場で、芋洗う、みたいにはならないけどね、と光は笑ったが。  ゴールデンウイーク明けのこの日、旅行に行ってみないかと誘われたのはわりと突然だった。 「釈君がね、バイク貸してくれるんだって。せっかくだから海にでも行ってみない?」  大型連休中は、カフェ「sweet smack」でのバイトも書き入れ時だ。春の桜以外には取り立てて観光名所があるわけではない桜街だが、それでも休暇のひとときを公園やカフェでゆったりと過ごす者は多い。連日満席状態の時間帯も多く、まだ新米の域を出ない俺もほぼフル出勤で働いた。  とはいえ。他人様が休日の最中、自分が働いていることに別段不満があったわけではない。  というより、旅行、などというものをどんな時期だろうとしたいと思ったことがなかった。子どもの頃からそうだった。レジャーとしてどこかへ行きたい、という欲求を覚えた試しがない。  それどころか集団行動そのものが苦痛だった俺は、学校行事などでさえ極力参加を拒んだ。小、中学校の修学旅行はなにかと理由をつけてバスや宿に居残り、高校では仮病を押し通して欠席した。大勢で風呂に入ったり食事したり、が億劫で、宿泊先での時間もじっと身を潜めるようにして過ごしていた、と思う。すでによく覚えてはいないが。周囲は訝しみもしたけれど、最終的に「あいつは孤児だから」の一言で片付けられた。それは都合良くもあり、「所詮そんなもんだ」という諦めも生じさせた。  多分「どこへ行こうが何も変わらない」と思っていたのだ。  そんな俺に、旅行へ行こうと誘う、光。なりゆきから始めた「兄弟ごっこ」における兄であり、今は「俺を俺として」見てくれる、相手。 ◆◇◆  和がこの家を出て、慈玄の寺で居候を始めてから一ヶ月余りが経つ。  俺と光の関係を目撃して、結果的に、とはいえ長年共に暮らしてきた兄を「奪う」ような真似をしてしまったのに、荷物を取りに一旦帰宅した和の目には、戸惑いも侮蔑もなかった。逆に、凛とした決意さえ見えた。  しばらく寺で過ごせば良い、というのが慈玄の入れ知恵であるのは明らかだが、もはや自分で決めたこととして受け入れているようだった。 「たまには帰ってくるし。俺の家には変わりないもんな!」  決して強がりなど滲ませていない明るい声。うんうん、と頷く光を後目に、俺はなんだかこの「弟」が空恐ろしくなった。  いつかは兄であった存在は妻を娶り、子を為し、「兄弟」とは別の家族を築くことは覚悟していただろう。しかし、俺は男であり、その上和当人が「兄」としてこの家に招き入れた存在だ。血は繋がらずとも、心で信頼関係を積み重ねてきた「長兄」を、同じ様に受け入れようとした「次兄」に盗られ、自分の知らない秘密を作られ。和の想いは、おおいに踏みにじられたはずだ。おまけに、正式な「宮城家の嫡男」である和が、結局ひとり家を出る羽目になっている。  こんなに躊躇せず、顔を合わせられるものだろうか?何の罵倒も嫌味もなく、言葉を交わせるものだろうか?  慈玄と和の間に、どんなやりとりがあったかは知らない。が、出会ってからですらまだ半年足らず、数度行き来をしていたとはいえ、それだけの関係である慈玄に、和が完全に心を開いているとは考えにくい。いくら俺よりずっと、順応性が高いであろうことは分かっていても。  身寄りもちゃんとした家もなかった俺とは違う。ただ単に、「俺達を気遣って」和は子どもの頃から慣れ親しんだこの家を去ったのだ。それも、快く。  俺には全然理解ができない。「お前なんか出て行け」と一喝された方がよほど腑に落ちる。  これも、和が光を信用しているからと言われればそうかもしれない。だとしても、負の感情が微塵も見えない和は、自分とはまったく別の世界の人間に思えた。  そして、俺と光は二人の生活を始めることになった。  それまで和の存在があったために保たれていた自制は、簡単に失せた。請われれば押し切られるままに身体を許し、リビングだろうが風呂場だろうが、ところ構わず行為に至る。 「……っく、ぅ、ふぁ、ぁあっっ!!」  声は必死で堪えても、漏れ聞こえる淫靡な水音は耳に届く。壁に押しつけられ、片足を高く持ち上げられた状態で、恥部の奥に熱く滾った肉棒を突き入れられる。最初は痛みを伴ったが、回数を重ねるごとにそれも快感へと変わった。  同性間のセックスは、光も初めてではなかったようだ。  何度か肌を重ねると、俺が「感受しやすい」場所を探り当てた。ソコを重点的に責められるようになると、体幹から全ての力が抜け落ちてしまうような気がした。羞恥や自己嫌悪は相変わらずだったが、頭に渦巻く思考はお構いなしに、身体はよがり、やがて絶頂を迎える。  己自身の先端からだらしなく粘液が零れ落ちるのが、薄く開いた視界に飛び込む。  爛れている、とはこういうことかもしれない。  俺達はそれぞれの中にある空虚な部分を埋めるように、獣みたいに交わった。こうなったら和の事も、今置かれている状況も、何もかも消し飛んでしまえばいい。そうとすら、俺は思った。  吐き出される精と一緒に、現実感が抜け落ちていく感覚。男同士での情交自体も異常なら、いままで存在そのものが希薄だった俺が、こんなふうに誰かに貪欲に求められることも異常だ。  だとしたら。この瞬間そのものも、夢か幻なのだろうか。それならそれで良い。  延々と重ねていた唇を解いて、覗き込む瞳。いつか見た翳りが見える。離れないで、傍にいてと、言葉でもその視線でも繰り返される。足元も覚束ないようなふわふわした意識の中で、光の懇願ともとれる「想い」だけが、苦痛を抑える麻薬のように、また反対に身体を蝕むウィルスのようにじわじわと染み渡る。そうしてより甘美な堕落の中に、なされるがまま沈み込んでいった。

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