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第三章 北極星(ポラリス)・3
◆◇◆
せり出した岩場に、波がぶつかり飛沫を散らす。ガラスが割れて細かく砕けるのに少し、似ている。
防波堤を境に、やや入り込んだ地形。砂浜はホテル近辺に比べるとだいぶ狭く、数十メートルほど歩けば岩に行く手を阻まれる。泳げなくはないだろうが、監視台などが無いので「公的な」遊泳区域では無いらしい。「穴場」というのは、それが所以と思われた。
海岸沿いにはぽつぽつと店舗などもあったが、そぞろ歩く人の姿は多くない。週末ではあったけれど、連休明けですっかり体力も金も使い果たした、という感じか。それともやがて来る夏を待つように、今は眠りの期間なのか。
◆◇◆
若干老朽した建物ではあったが、ホテルの部屋からは海が一望できた。海水浴客で賑わう頃は、まだまだ現役なのだろう。「お洒落なリゾートホテルとはいかなかったけど」と光は残念そうに洩らしたが、ベッドの二つ並んだツインルームは、シンプルながらも小綺麗ではあった。
何より、「日常生活とは違う場所」にやってきたのだ、ということが眼前に広がる景色によって思い知らされる。生まれてこの方、そんな機会もあるにはあったが、目を逸らし決して意識することのなかった情景。
高みから見下ろす水平線は、地球が丸いことを実感させる、緩やかな曲線を描いていた。彼方には、船影も見えた。海面が、その上に金や銀の紙を細かく千切って、ひとつひとつ丁寧に貼り付けたみたいにキラキラと午後の太陽に乱反射する。
「うわ……ぁ……」
思わず声を上げる。
いままで俺が見る景色に、色は無かった。あったとしてもどれもこれも、まるでスモッグの中みたいに、澱んだ灰色のフィルターがかかっていた。
それが、この数ヶ月で少しずつ変わって来た。
桜の花が白では無く、淡い紅色をしているのだと知った。あれは俺のバイト上がりを待って一緒に帰路に就いた光が、満開の枝を指し示したからではなかったか。
無色透明に光るガラスが、元々好きだった。その破片が散らばっているかのように見える夜景を見せてくれたのも光だ。街の灯りは、温かな暖色を帯びて輝いていた。白い瞬きばかりだと思っていた星にも、色があることを教えてくれた。
自分の世界で唯一、色彩を意識していた赤ワインも、産地や熟成度によって濃淡が違うと理解したのも最近の事。それもたまたま立ち寄ったコンビニに並んでいるのを見て、光が口にした話であったように思う。
概念としては、無論それらが単色でないことは知っている。けれど、俺の目を通して見れば、重いペンキでべたりと塗りつぶしたようだったのだ。それが「なんということはない、他愛ない会話」で、筆に含ませた水彩絵の具よろしく、ひとつひとつ色を落としていく。
慈玄とも世間話をしないわけではなかったが、こんな風に感じた事はほとんど無い。おそらくは、あのときから……「ここにいる自分」を真っ直ぐ見つめてくれる視線に出会ってから、それは始まったのだ。
今、二人並んで眺める先に広がるのは、青、そして蒼。もうしばらく時が過ぎれば更に色鮮やかになるのだろうが、まだ淡さも伴った……
「きれい、だな」
感想を口に出すようになったのは、いつからか。
つい口から溢れてしまうものではあったが、明らかに「隣に居る誰か」に同意を求める響きを含んだのは。
しかし肯定の返事は無く、そのままぐい、と肩を引き寄せられた。眼前の青色は途絶え、代わりに見えたのは閉じられる寸前の青味がかった瞳。それも一瞬のうちに遮られ、直後に息が止まる。距離を置いて聞こえるさざなみをかき消したのは、くちゅり、と粘り気のある水音。
「そんなに可愛く喜ばれたら、耐えられなくなっちゃうよ?」
呼吸を繋いだ口端から、一筋溢れた唾液を舐め取って、光が囁く。
自分では全く意識しなかったのだが、俺はそんなに嬉しそうだったのだろうか?問いかける暇も無く、再度唇を重ねられる。
「ん……っく……っ」
執拗に絡みつく舌が、喉を塞ぐ。乱れた吐息は相手も同じ。ねっとりと互いに混じり合う。それでも離れることはなく、熱を感じ始め汗で湿った肌の上を、いつの間にかシャツの下に侵入した指先が滑る。
「っ、ちょ……っ!!」
辛うじて身を捩り、貼り付いた胸を押しのけた。やっと表情を確認出来る位置まで離れた相手の顔は、拒否された不満を目一杯浮かべている。ゴールデンレトリバーの毛並みにも似た金髪に、しゅんと垂れ下がった耳でも付いているかに見えた。
「嫌?」
「っ、ま、まだ明るいだろ?!着いたばっかだし!」
犬の耳が、ぴくんと跳ね上がったようにも感じた。俺の拒絶が、行為そのものにされたものではないと悟ったらしい。丸く見開いた目はすぐに細められ、くす、と含み笑いに変わる。
「それもそう、か。うん、ちょっと海辺に行ってみようか」
先に背を向けドアへ向かう背中を見ながら、深く息を吐く。すっかり上昇してしまった体温は、落ち着く気配がない。
「ほら、行こう?」
扉を開け、振り返った無邪気な笑顔に、恨みがましい一瞥を返す。
「出先で浮かれてるからって、簡単に盛るな、バカ」
睨み付けた視線とボソッと投げたぼやきは全く届いていないらしい。それらを向けた相手は、主人に散歩を促す大型犬さながらに、尻尾を振って俺が来るのを待っている。
もう一度嘆息してから、後を追った。火照った身体を潮風が宥めてくれるのを期待しながら。
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