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第三章 北極星(ポラリス)・4

◆◇◆  夕刻に向かい始めた日差しは柔らかく、ひかりの粒子を海面に転がす。防波堤と岩場に挟まれた空間は、そこだけが切り取られたように静かだった。「聞こえてくるのは波の音だけ」なんて、陳腐なフレーズがぴったりに思える。  少し先を歩いていた光の足取りに迷いは無かった。あてもなくぶらぶらと散歩、ではなく目的地があったことは明白だ。  それが、ここ。  ただでさえ人影が少ないのですぐに気が付いたわけではなかったが、海水浴シーズン真っ盛りだったとしても、「穴場」というとおりそれほど人が出入りする場所のようには思われない。  疑問は、すぐに解けた。  さくさくと足音を刻む砂地から、自然が造り出した岩のモニュメントへ歩を運びながら、光がのんびりと答えを口にしたからだ。 「ここね、宮城の家族と俺とで、初めて遊びに来た場所だったんだ」  出掛ける前は、いかにも思いつきで行き先を決めたように話していたが、光は最初から「この場所」に来るつもりだったのだと、このとき悟った。 「宮城の両親は忙しいから、なんとか予定を合わせて日程をねじ込んだんだと思う。だから日帰りだったんだけど。和もこんなことめったにないからって、すごくはしゃいで。俺が宮城家に早く馴染めるように、気を遣ってくれたんだろうね」  光の口調には、懐かしむと同時に、どういうわけか悔恨というか寂寥というか、妙な暗さも滲んでいた。楽しい思い出ばかりではない、ということか。  岩が波を散らすせいか、砂浜よりこちらの方が海が荒れて見える。飛び込み台代わりには恰好の高さかも知れないが、水面下がどうなってるのか目視しづらいので、無闇に飛び込むと怪我を負いかねない。  そんな足場の悪い一帯を進む。スニーカーで来たので労は大して感じなかったが、段差を登る時は光が手を取って引き上げてくれた。思いの他、岩場は海岸に沿って長く連なっている。 「ほら、その先。あそこにね、洞窟があるんだけどさ」  指し示す方角を見ると、魔物でも飛び出して来そうな黒い穴がぽっかりと口を開けていた。 「和はずっと俺のあとをついて回ってたんだけど、当時はまだ小さかったから追いついてこられなくてね。俺は、独りでここまで来たんだ」  中を覗くと、想像したより奥行きは浅い。それでも足を踏み入れて数歩も行くと、外光は届かなくなった。中央部は海水に沈んでいて、両端に人一人がようやく通れる程度の幅があるだけだ。どん詰まりまで到着して、やっと畳一枚ほどのスペースになった。入り口から射し込む陽の光と、それを水が反射して微かに届く以外、明るさはない。隣にいる相手の表情がどうにか判別出来るくらいで、本来ならば懐中電灯でもなければ、足下も覚束ないほど。  光が腰を下ろしたので、俺も隣に倣った。ふと眼前の海中に目をこらすと、青白い仄かな灯りが時折ふわりと揺れた。何かの微生物だろうか。それが余りにも儚げで美しくて、しばし目で追う。 「ここでね、こんな風に座ってぼんやりしてたんだ。あの時は一人きりだったけどね」  光の話は続いていた。耳で受け止めてはいたものの、目線はその顔に移さずに俺は水の中の燐光を探す。 「あの頃は、まだ新しい家族への違和感が拭い去れなかった。ここでじっとしてたら、俺の事なんて忘れ去られて、このまま置いて帰られるんじゃ無いかって思ったよ。そのうち、ここに閉じ込められて出られなくなるかもしれないって、怖くなって」  ひた、と靴底に波が届いたのに気付いて、我に返る。先刻までは、水面はつま先から数十センチくらい離れていたはずだ。 「?!」  反射的に、岩の壁ギリギリまで後じさる。顔を上げると、つい今し方歩いて来たはずの地面は完全に水に浸っていた。 「光っ!これ……!!」 「今は鞍と一緒だから、怖くないよ。ね?」 「んなこと言ってる場合かよ!今ならまだ、少しくれぇ濡れても外に……」 「大丈夫だよ。俺が、息を継いであげる。こうやって」  言いながら身体を抱え込むようにして、光は俺の口を己のそれで塞いだ。そんな行為、何の効果が無いことくらいは理解できる。それどころか絡む唾液に、先に溺れてしまいそうだった。にじり寄る海水を横目で捉えながら、俺はそれでも無我夢中でキスを続けた。  自分など、生きていようが死んでしまおうが、世界は何も変わらないし、誰一人気にも留めない。俺の存在なんて、全く意味の無いものだ。ずっと、そう思っていた。今更死を怖いと思うなど、どうかしている。  ならば。  こうして誰かと共に消えられるのならば、その方が良いのでは無いか?少なくとも、寂しくはない。このまま、二人繋がり合って海の底へ。  違う。  そんなこと、許されるわけがない。それでは俺は……俺が光と出会ったのは、ただ光を「闇へ引きずり落とす」ためだけのものになってしまう。  和を信頼する、光の眼差し。光に笑顔を取り戻させた和。馴染んでいると思い込んでいただけで、決して自分が割り入る隙など無かったのだと思い知らされた、兄弟の絆。  あんな目を、光は俺に向けはしない。俺が見たのは、その瞳に落ちた翳りのみ。けれど光は、俺を選んで。しかし身を寄せ合っていても、本当に「離れているのはどっちだ?」

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