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第三章 北極星(ポラリス)・10
◆◇◆
次の週末。夕方にはバイトを切り上げた俺が家に戻ると、ソファに寝そべった光が何かを眺めながらニヤニヤしていた。
玄関口で帰宅の挨拶は一応口にしたが、普段から在宅している相手に聞こえるほどの声量では言わない。居間に陣取っていれば仕切扉を開けばすぐに気付くし、不在、つまり二階の自室にいる時は、学校の仕事を持ち込んでそれらを片付けているからだ。
今となっては二人きりの生活。集中して職務をこなす必要に駆られていない限り、休日の光は大抵リビングかダイニングにいる。ならばよけいな出迎えで作業を中断させずとも良い。
そして俺自身、この家で「ただいま」をはっきり告げるのを未だに躊躇しているのかもしれない。否、稲城の施設でも慈玄の寺でも同様だった。
自分の「帰る場所」が自分の「居場所」でいいのかどうか、常に微かな疑念が付きまとう。おかしな話だと思うが、帰宅を告げた相手に「お前は誰だ」「ここはお前が帰ってくる場所などではない」という目で見られるのではないかという恐怖が、心の奥底にわだかまっている。一度たりとてそういう事があったわけではないのに、どうしても拭い去れない心情だった。
それはともかく。案の定、光は俺が帰ったのも判っていなかったようなので、あえてなるべく音を立てずに忍び寄り、背もたれ側から一体何を見ているのかと覗き込んでみた。
「?!」
光が開き見ていたのは二つ折りのウォレットで、パスケース部分には先日の、あの恥ずかしい写真が収められていた。
とっさに財布を奪おうと手を伸ばしたが、反射的に腕を引っ込め背を丸めた光の方が素早い動作だった。通常の運動ならば光にスピードで負ける気はしないが、こういう時のこいつは無駄にすばしっこい。
「お……っ、おかえり、鞍。え、いつからいたの?」
「んなことより、なんだそれ!誰にも見せんじゃねぇっつっただろ!」
「見せないよー。俺が見て楽しむために財布に入れただけだよ」
「アホか!財布なんか、いつ落としたり忘れたりするかわかんねぇし!」
「だーいじょうぶだって。そんなヘマはしないからさぁ」
「信用できっかバカ!!」
ドタバタと揉み合いながら、戯れ言の応酬。後から思えば、以前の俺はこんなやりとりもしたことがなかった。無言で睨むか、「気持ち悪い」と吐き捨てるだけで終わっただろう。そもそも、あんな写真だって絶対に撮らせはしなかったと思う。
そう考えると、確かに光が言うように俺は少し「変わった」のかも知れない。大して自覚などないし、根底の部分には深く澱んだ陰鬱さも消えてはいないが、それでも明らかに自身でも思いもよらぬ言動をとっている時がある。
周囲にしてみれば、ろくに向き合いもしないよりこの方が取っつきやすいのかもしれないが、俺本人にすれば、今の自分の状態は意識するとまだ戸惑う。心地よさがないわけではない。しかしそれとは別に、こんな浮ついた感情をお前が持っていて良いのか、と自戒する声が脳裏で響く。そのくせじゃれ合っているうちにどうでもよくなって、耳を塞いで挙げ句押し込めてしまうのだ。
今日もまた、宮城兄弟と出会う前の俺からは想像も付かなかったような行動がひとつ、ふたつ。
「……あ、そうだ」
ひとしきり暴れて、何気なく思い立つ。
「何?」
「じゃあ、俺にも光のガキの頃とかモデル時代の写真見せてよ。昔の光のこと、俺なんも知らねぇし」
他人の過去など、これっぽっちも興味なんてなかったはずなのに。海での話に触発されたのか、その頃の光の姿が見てみたくなった。
「えぇー、大して面白くないよ?酷い顔してるし、俺」
「いいよそれでも。その写真の俺よかずっとマシだろ?」
取り上げるのを諦めたウォレットを顎で指し示す。
「そうかなぁ。可愛いのに」
光は少しだけ渋る様子を見せたが、まぁいいか、と承諾した。
「んじゃ、飯食ったらな?」
言って俺は、キッチンに向かう。
出勤前に下ごしらえはしてあった。火にかけ直し、ホワイトソースに牛乳、バターを加える。煮立ってきたら、仕上げに生クリームを少々。
「! なんか、すっごい良い匂い」
バイトで顔を合わせた和から、なんとなく聞き出した光の好物。今の季節には不似合いかもしれないが、初めて作ってみた真っ白い食べ物。
この日の夕食は、クリームシチューだった。
自炊のために俺が覚えたのは、せいぜい米の炊き方と味噌汁の作り方くらいだ。総菜は、肉や野菜を適当に茹でたり和えたり炒めたりするだけ。要するに、名前がつけられるような代物ではなかった。
一人の食事に、煮込み料理の選択はほぼ有り得なかったと言って良い。故に、カレーすら自分で作ったことは無い。食べるときはレトルトを買った。寺で
時々煮物が食卓に並んだが、和食中心だったし、それも作るのはもっぱら慈玄だった。
というわけで、俺はシチューのレシピも知らなかった。和に作り方を教わり、こうして光に振る舞っている。
なにより。誰かの「好物」を作ってやろう、などという考慮を、これまで俺はしたことがない。かつてのバイト先で覚えた、「どうにか自信を持って出せる」鍋物なら、と考えたことはあるが、たった一度きりだし、そのときの気持ちも自分自身良く分からない。
なのに、どうして相手が好きなもの、というだけで試行錯誤して新たなメニューを調理する心境になったのか。しかも、わざわざ「和に」訊ねてまで。
俺の逡巡などお構いなしで、皿によそられた雪原にも似た一品に光は目を輝かせた。
「クリームシチュー!俺、大好きなんだよねぇ」
「知ってる。和に聞いた」
「それ知って作ってくれたの?!嬉しいなぁ」
いただきますの言葉もそこそこに、光はさっそくスプーンを付ける。
「んー、すっっごい美味しい!!」
あっという間に減っていく皿の中身と、心底幸せそうな満面の笑みを見て、ふともやりとした寂寥感が胸を過ぎった。
「久しぶり、だったろ?和に作り方教わったから」
せわしなく動いていた口とスプーンがぴた、と止まる。
「……和のシチューと、鞍の作ったこれは違うよ?」
「え?」
どういうことだろう。なるべく言われたとおりの手順を踏んだと思ったのだが。いつもと同じく大袈裟に「美味しい」とは口にしたが、自分の好物であるそれとは味が違ったのだろうか。
言葉の意図を把握できず首を捻ると、光は苦笑しながら言った。
「全く同じように同じものを作っても、作る人によってそれぞれの癖は出るでしょ?たとえば、同じチェーン店でも一から調理するものは、店によって味が少しずつ違うじゃない。和のシチューは確かに美味しかったし大好きだけど、それと同じだからじゃなくて、『鞍の作ったシチュー』が、俺には美味しいんだよ?」
そうなのだろうか。なるほど俺は、和が作ったシチューは食べたことがない。夕食を共にした期間にこの献立は無かったからだが、言われてみれば比較していないので判断出来ない。
けれど。
それこそ交互に食べ比べたわけではないのに、微細な違いを光の舌が感じ取れているのか、は、甚だ疑問だ。俺の手癖が出てしまうことは否定できないが、なにしろ作り慣れていないものなのだし。感覚でフォローしている箇所が少ない分、「個性」などどれだけ現れているか知れない。
「あ、ねぇ、おかわりしてもいい?」
子どもみたいに口端を汚して、おずおずと空いた皿を差し出す光を見ていたら、やはりどうでもよくなってしまったが。
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