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第三章 北極星(ポラリス)・9

 カラン、とすでに耳慣れた音でドアベルが鳴る。光も一緒だったから、仕事の時のように裏口から入ることはできない。  皆が働いているところに「行楽帰り」で立ち寄るのは気が引けたが、バイクはここで返却すべきなのだからやむを得ない。忙しそうならば時間を遅らせて、とも考慮したが、閉店まで数時間の店内に客の姿はまばらだった。 「よぅ、おかえり。楽しかったか?」  トレイ片手に声を掛けた釈七さんに、光が即答する。 「うん、すっごく!ね、鞍?」 「そうか。それなら俺もバイク貸した甲斐があったってもんだな」  当たり前のようだが、釈七さんの言葉には何の含みも感じられない。 「あ、あの。すみません、週末なのに休みもらっちゃって」  しかし俺としては、そう言わずにいられなかった。  大型連休という集客ピークは過ぎたといえ、休日は休日。しかもどういうわけか、この二日間は和も休暇を取っていた。人手が不足気味だったことは明らかだ。釈七さんには足であるバイクを拝借した上、人員調整の手間までかけたのだから申し訳ない。 「気にするな、回せないほど忙しかったわけじゃない。少し、日に焼けたか?」  鼻梁に触れられ、どきりとする。写真のことも思い出したので、やたらと慌ててしまう。 「……ぇ、あ、あぁ!!俺ちょっとシフト確認してくる!光、ケーキ食ってもいいから、ちょっと待ってて!」 「え?ちょ、鞍?!」  返事もそこそこに、俺はバタバタとロッカールームへ走り込んだ。次のシフトなら本当は、きちんと頭に入っていたのだが。  俺が「兄弟ごっこ」と称して宮城家に居候していることは、カフェで働く者は皆知っている。和が俺の事を「兄」と紹介して回ったからだ。だが、俺と光がいわばその一線を越えた関係である事実は、おそらく知られてはいない。ただ一人、釈七さんを除いては。  カフェの副店長である釈七さんは、歳こそ俺達と大差ないが、すこぶる面倒見の良い人だった。さりげなく話を聞き出すのも上手く、つい相談相手にしてしまう。  俺が「sweet smack」でバイトを始めたのは、桜の季節が訪れる少し前。和に誘われたのがきっかけだ。なにしろ一年で最も桜街が賑わう時候。猫の手も借りたいほどだというので、最初は繁忙期の臨時要員としてのつもりだった。接客仕事が凄まじく不得手な俺に、釈七さんは丁寧に指導してくれた。 「無理に笑顔を繕ったり、愛想を振りまかなくてもいい。お前らしくもてなそうとすれば、客にもきっと伝わる」と。  店員職も過去いくつか経験してきたが、こんなふうに言われたのは初めてだったから驚いた。その後の彼の教え方も、厳密であるのに高圧的な態度は一切なく、他人の挙動をあまり気にしない俺でも珍しく、なんだか感服してしまった。結局、それまで勤めていたところも辞め、バイトはここ一本になった。  正式に働き始めてからも、釈七さんには色々と話を聞いてもらっている。誰かに自分のことを話すのがとことん苦手な俺でさえなのだから、他の連中も皆そんな感じだ。仕事のこと学校のこと、場合によっては恋愛も含んだ人間関係のことまで、何らかをこのひとに打ち明けている者は多いだろう。光もバイクを借りている手前、俺との間柄は隠していないと思われた。  見るともなしにシフト表に目を遣って、休憩用の椅子に腰掛ける。  今回あの海へ行ったことで、光に対する想いは少し変わったような気がする。が、それがなんなのか自分でははっきりと掴めない。少なくとも光が俺に向ける気持ちほどには、全然届いていないように思う。  それを、釈七さんに吐露してみたい気もした。けれど、気恥ずかしさと共に妙ないたたまれなさも胸を掠める。これがなんなのかも、まだ俺自身わからない。 「どうした?光一郎が待ってるぞ?」  ドアの開閉音と同時に掛けられた声に、びくりと背が跳ね上がる。 「ぁ、すみま、せん」  中型二輪がよく似合いそうな、がっしりした体格。実際の背丈は光の方が高いのだが、そのせいでやや大きく見える。初めてまともに接したとき、このひとと本気でやりあったら、自分とどちらが強いだろうと考えた。  ガタイの良い相手となら、何度も喧嘩した。しかし釈七さんは、奴等より徹底的に隙が無い。慈玄にも同じような印象を持ったことがあるが、あいつは釈七さんより更にずっと体格が良い。それに……いや、やはりあいつと比較するのは何かと無理があるか。  冗談半分で、彼は俺や和に「お前等に変に絡むような客がいたら、俺が追い返してやる」と言ったことがあった。俺なんかはともかく、和や女の子たちに対してならそういう輩がいてもおかしくない。その時は本当に、釈七さんは簡単に宣言通りやってのけるであろうことは容易に想像できる。  副店長、という立場の責任だけではなく、多分このひとは腕力にもそう言うだけの自信があるのだ。決してひけらかしはしないものの。  俺を呼びに来ただけなのかと思いきや、釈七さん自身が少々休憩を取るようだった。閉店時間までいくらでもないが、彼には資材の発注だの精算だの、この後も結構雑務がある。 「あ、あの。バイク、本当にありがとうございました。これ、少しですけど土産です」  隣に腰掛けた釈七さんに、旅先で購入してきた菓子折を差し出す。 「なんだ、そんな気を使わなくてもいいのに」  言いつつもさっそく包みを開け、菓子を口に放り込む釈七さんの様子を横目で窺う。店のケーキの試作も自分でこなすひとだから、適当な土産を渡すのは忍びなかった。ホテルの近くでいかにも老舗らしい店構えの和菓子屋を見付け、そこで購入したものだ。  美味そうに咀嚼する姿に、内心ほっとする。そして、出掛ける前から少しばかり気になっていたことを訊ねてみた。 「俺は後ろに乗ってただけですけど、すげぇ乗りやすかったです。その、いつも誰か乗せたりしてるんすか?」  自分の身の上はぽつぽつと洩らす割に、釈七さんのことは店で顔を合わせている間の姿しか、俺は知らない。大学に籍を置いている、というのだけは聞いたが。だからわずかに興味を引かれた。 「? いや、今まで二人乗りしたことは無いな。光一郎がお前を後ろに乗せて行くというから、大丈夫なのかと少し心配したくらいだ」 「えっ、だ、ってその、彼女、とか」 「恋人がいたら、こんなにバイトに明け暮れてねぇよ」  苦笑交じりの返事に、偽りは見えなかった。  その言葉に、やけに安堵した自分に驚く。きっとこのひとに愛する女性がいたら、「男同士で身体の関係まで持つ」自分が相談に乗ってもらうなど、ひどく見当違いに思えたためだ。 「なんだか。出掛ける前よりも良い顔になったみたいだな、鞍」  言って釈七さんは、くしゃりと俺の前髪を撫で上げた。  そう、他人に触れられることを嫌悪する俺だが、なぜかこのひとにはそれを感じない。いつも絶妙な間合いで、頭を撫でたり肩を叩いたりする。  俺ばかりではない、和にも、時には女性にさえ同様に接する。にも関わらず変な嫌らしさや馴れ馴れしさがまったく無いのだ。  それが隙の無さを感じる要因ではあるのだが、逆に言うと「内面の感情が動いていない」ような……。  一瞬脳裏に閃いたその考えを、自分自身で否定する。釈七さんには、間違っても冷淡な印象は無い。今こうして俺の髪に触れた手には、確かに親愛が滲んでいる。ふ、と笑った表情にも。それがたとえ、この店で働く誰しもに向けられるものであったとしても。 「くーらー?まだかかるー?」  フロアからの間延びした声。相変わらず大きな犬は、俺の帰りを待ってくれている。 「ほら、あいつが痺れを切らすぞ?早く行ってやれ」 「は、はい!明日、またバイトで!ありがとうございました!!」  改めて礼を述べ、俺は光のいる座席に戻った。 「もぅ。待ちくたびれちゃったよ」  などとほざきながらも、しっかりケーキを頬張っている光に肩の力が抜ける。 「なに言ってんだよ、大した時間じゃねぇだろ?」 「釈君と何話してたのさー?」 「…………良い顔してる、って言われた」  正直に報告してやると、光は口の中にあったケーキを飲み込んで、嬉しそうに微笑んだ。 「そりゃあね?でも、釈君と話してる鞍も良い顔してるんだよねー。ちょっと妬けちゃうな」  そうなのだろうか?自覚などまるで無い。 「初めて会ったときとずいぶん変わってきたね、鞍」  今までバカみたいにもぐもぐ口を動かしていた光が、急に大人びた優しい眼差しを俺に向ける。この目にはどうも弱い。 「いいのかよ。光が俺に、一番良い顔させんだろ?」 「当然でしょ?そこは誰にも負けない」  すぐに元のへらっとした軽い笑顔に戻るのが難点で。  軽口の叩き合いが心地良い。それは、確実に新たに認識した感情だ。だがいまだに、往く先を見定めたわけではない。迷い道はその枝を無限に広げる。得体の知れぬ気持ちも、方々で澱み続けていた。  それでもしばらくは目の前の相手が時折見せる温かな、そして真っ直ぐな視線にすべてを預けていよう。やがて判明しゆくであろう己の心に、不安とささやかな期待を懐きながら、そんなことを思っていた。

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