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第三章 北極星(ポラリス)・8

◆◇◆  目を開けば、見慣れぬ色の天井。そこからゆっくり目線を下げると、薄いカーテン越しに碧く光る海が見える。五月の晴天は翌日も続いていた。  汗や体液でべたついた肌を、シャワーで流そうと半身を起こす。横に並んだ身体は未だ眠りの最中のようだから、なるべくベッドを軋ませずに。そのつもりだったのだが。 「おはよ、鞍」  床に両足を着いた途端、肩の両横から自分のものではない腕が伸び、抱きすくめられた。寝惚け気味の声が、耳元で聞こえる。 「んもー、昨晩はあんなに激しく乱れてくれちゃって。腰だいじょうぶー?バイクに乗って帰るのたいへ……グハッ!!」 「ばっ、バカ言ってんじゃねぇ!!シャワー浴びてくる!」  軽くいなしてやるつもりが、恥ずかしさが先に立って肘鉄を飛ばしてしまった。それがまた上手いこと鳩尾に決まる。 「こっ、光が悪いんだからな?!すぐ出るからもう少し寝てろ!」  ノックアウトで再びベッドに沈んだ光を後目に、脱ぎ捨てられていた浴衣を素早く羽織って、逃げるようにユニットバスに駆け込んだ。  ふざけたやりとりは今までもよくあったが、自分の応対に普段と違う軽妙さを感じた。構えてあしらうのではなく、自然に口を突くような。こんな掛け合いも悪くないと思っている自分に、ふと気付く。  朝食を摂ったあと、再度窓から海を眺めた。前日見たのと変わらない、綺麗な海。しかし前日とは違う色がまたひとつ、確実に加わって目に映る。 「名残惜しい?」  隣に光が立つ。これも前日と同じ。けれど、微少に距離や空気が変わった気がする。 「んなこと言ってらんねぇだろ?光は学校あるし、俺も仕事がある」 「はぁ、なんか急に現実を思い起こさせるね」 「……また来りゃいいじゃんか」  なにげなく返した言葉に、自分で驚く。狼狽えて横を盗み見ると、光も目を丸くしていた。 「そっ、そうだよね!また来よう!約束だよ?」  ── ほんと単純、だよな。  呆れながらも、心の底から嬉しいといわんばかりの笑顔につい気を許す。 「じゃあー記念にもう一回」  言って突き出してきた唇は、調子に乗るなと押し返したが。  今度来るときは、違う思い出が出来るだろうか。もっと、色んなことを二人で一緒に。そんな想いを巡らせている自分を意識すると、やけに面映ゆい。  バイクが走り出すと、潮の香りが後ろ髪を引く。いつまでも後ろを着いてくるようでいて、距離が離れるたび少しずつ薄れてゆくのだろう。振り返ってみても、遙か彼方に消え去ってしまう。波間にゆらめく木の葉みたいな不安定さも漂わせながら。 ◆◇◆  五月ともなると、すっかり日は伸びている。まだ西の空にオレンジ色が残る時間に、俺達は桜街に帰り着いた。 「もう、そんなに怒らなくったっていいじゃない」 「うるっせぇ!あんなん絶対ありえねぇし!」  バイクを下り、ヘルメットを外しながらそんな言い合い。といっても、何も喧嘩しているのではなく。光が本気で宥めているわけではないことはへらへらと浮かべた笑みで分かるし、俺も、ひたすら恥ずかしいだけで。  事の次第はこうだ。  帰る前に、海が見える場所で記念撮影でもしようという話になった。携帯電話のカメラでも良いけどたまの機会だしフィルムに収めたいと、使い捨てカメラを光が買ってきた。子どもの頃から写真に写るのが大嫌いな俺は、光が向けるレンズから逃げ通していたのだが。 「ねぇ鞍。記念だし、一枚くらい一緒に撮ってよ」  風景などに幾度かシャッターを切っていた光が、おずおずと言う。断固として避け続けようと思っていたが、自分でもよくわからない心境の変化で、それを承諾してやる気になった。渋々と光の横に並ぶ。  もっとも簡素なタイプのカメラでタイマー機能はついていなかったため、近くにあった土産物屋のおばさんに撮影を頼んだ。観光客に言われ慣れているのか、おばさんは快く引き受け、ここなら景色の収まりが良いからと立ち位置まで指定した。 「はいはい、それじゃぁいきますよ!はい、チー……」 「ズ」、の瞬間、頬に柔らかく微かに湿ったものが触れた。  それが何だったのかは、すぐに理解した。訳も分からず、とっさに駆け去ってバイクの陰にしゃがみ込む。 「あれ、鞍ー? なんだ、こんなところにいたの?」  大人の男がいくら身を縮めたところで、二輪車の車体如きに隠れるはずもない。数分も経たぬうちに、シート越しに光が覗き込んだ。 「こっ、光のバカ!アホ!ヘタレ!!ひっ、人前でぁ、あんな、こと……っ!」  反発の言葉もしどろもどろな俺に、光は平然と応える。 「大丈夫だよあれくらい。スキンシップのうちだって。おばさんも『仲の良い兄弟ねぇ』って笑ってたよ?」 「だからっつって普通は男同士じゃしねぇよ!!」  何が普通か、なんて言えるほど「普通」のことなど知らない俺がそれを口にするのもおかしいが、そう反論するのが精一杯だった。 「デジカメじゃないから、画像確認できないね。あー、現像が楽しみだなぁ」  睨み付ける俺をよそに、光は晴れ晴れとした声を上げる。俺にしてみれば、写真屋に現像を頼むことすら羞恥だというのに。 「……その写真、誰かに見せたらボコボコに殴るからな?」 「えっ。あ、あはは、見せない見せない。誰にも見せないって」  言葉と裏腹なまったく信用しかねる笑顔を、光は満面に広げた。  俺はいたって真剣に抗議したつもりだったのだが、やはり以前の調子とはどこか違う。その正体が何なのか、自分でも判然としない。  何事もなかったように「じゃ、行こうか」と先にバイクに跨がった光の足に蹴りでも入れて一人で歩き帰りたくなったが、住む街から離れたこの場所ではそうもいかない。旅行慣れしてない俺は、情けなくなるほど交通網にも疎かった。  仕方なく従い、後ろに乗り込んだものの悔しさと恥ずかしさは消えない。思わず、背中に顔を埋める。  頬に触れた唇の熱が、そこから顔全体、身体全体に行き渡っていくようだ。それをまた光に伝え返したいと思った。気付いたかどうか、はフルフェイスのヘルメットで覆われた斜め後ろの横顔からでは読み取れはしなかったけれど。

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