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第三章 北極星(ポラリス)・7

◆◇◆  食事を終えても、俺達を覆い囲んでしまった気まずい空気が晴れることはなかった。無言のまま二人並んで、個室へ向かう。  ホテルには当然大浴場があったが、元々誰かと入浴するのが苦手な俺は内風呂を使うから、と光に告げる。何か言いたげに光は口を開いたが、言葉は続かず、ただ「そう」と溜息と共に吐き出した。 「じゃぁ、俺は行って来るから。良い子で待っててね?」  茶化すのもそれで精一杯だったのだろう。そっと髪を撫でる手は、払い除けず好きにさせた。  洗髪したあとユニットバスに湯を溜め、蹲る。少々ぬるめのシャワーが肌を打つ。頭を冷やすのには丁度良い。  光は、何一つ悪くない。最初から、俺が勝手にふて腐れただけで。  洞窟でひとり、膝を抱えて怯えていた「小さな光一郎」は、「どうにかして宮城の家族の元へ戻る」とはまず考えなかったのだと思う。「閉じ込められても、誰も助けに来ない、自分がいないことなどもう忘れ去られているかもしれない」そう、思っていたと光は言った。あの薄暗く狭い空間に、取り残されるのではないかと。  けれど、実際は「そうはならなかった」。  と言って、馴染みきれずにいた家族の元に自分から帰った、のではないはずだった。少なくとも俺だったら「自分など『この場』には要らないのではないか」とまで考えたところにはすすんで戻れない。  養子の少年は、忘れ去られたりなどしなかった。多分、懸命に捜索されたのだ。そしてあの洞穴で発見されて、無事に連れ帰られた。  だからこそ「宮城光一郎」は今、こうして俺と一緒にこの地を訪れているのだから。  風呂から出て、窓辺に立つ。昼間、穏やかな弧を描いて見えた水平線は、宵闇に溶けて輪郭がぼやけている。月のひかりは太陽よりずっと弱く、海面全体を輝かせはしない。一点に淡い黄色を落とし、そこを中心に波がグラデーションを模っていた。それとは別に、遠い岸で明滅する灯り。あれは燈台だろうか。数秒間に一度ごと、落ちた月光と交錯していく。 「鞍?まだ、怒ってる?」  隣に、浴場から戻ってきた光が歩み寄る。ドアの開閉音に気付かなかったわけではないが、絵画の如く制止しているようでいて、その実刻々と姿を変える海から目が離せなかった。それから、頭の中を駆け巡る様々な思考にも。 「まだも何も、別に怒ってねぇよ、ずっと」  窓の外に視線を向けた状態で言う。 「じゃあ、なんでさっきから俺を見てくれないのさ」 「……」  あの場所が海水で沈むことなどないのを承知でそれを黙ってて不安を煽ったのも、どさくさに紛れて身体に触れた件にも、もう腹を立ててはいない。  ただ、なんとなくわからなくなったのだ。なぜ光が、「わざわざ俺をここまで連れてきた」のかが。 「そのあと、どうしたんだよ」 「そのあと、って?」 「光が、宮城の家族とはぐれてあの洞窟に行ったあとだよ。捜されたんだろ?」 「あぁ。まぁ、そりゃあ……ね?」  俺はまだ光から目を逸らしたままだったが、返事が苦笑交じりだったことが声のトーンから伝わる。俺自身でもはっきり分からない胸の燻りの正体が、光にはわずかでも理解できていたらしい。 「俺もね、あそこがどんどん水で埋まって、自分はこのまま溺れて死んじゃうんじゃないかって思ってた。けど、思ったより水位は上がらずに止まって。とりあえず外に出て、ぼんやり海を眺めてるところを見付かった」  どこか他人事めいた、昔話でも聞かせるような口調だった。 「両親は、俺の立場を察したのかな、特に咎めも問い詰めもしなかった。まだちっちゃかった和だけがわんわん泣いて。『光兄ぃのばか!なんでいなくなっちゃうんだよ!』って俺を何度も叩いたっけ」  そこで話を切った光は、俺の両肩を掴んで自分へ向き直らせた。 「ね、鞍?」  食事の時に見た、瞳の翳りはもう無い。ある意味教師らしいというか、兄らしいというか、聞き分けのない子どもを諭すような声音と眼差しがそこにあった。 「だからね、両親も俺があのとき、洞窟の中にいたかどうかまでははっきり分かっていないんだ。和だって、俺が海でしばらく姿が見えなくなったことは覚えてるかもしれないけど、それ以上は知らない。大きくなってからもこの時の話はほとんどしたことがないし、しても俺があそこにいた事までは言わなかったからね」  肩に置かれた手が、ゆるゆると俺の背に回る。決して力強くはないが、おろしたてのタオルで濡れた体を包み込むみたいに、ふわりと抱き締められた。 「俺は、鞍にだけあの洞窟のことを教えたかったんだ。一緒にあの場所からの景色を見て、宮城の家族からはぐれてあそこにいた俺の想いを知って欲しかった。同情とかじゃないけど、鞍と一緒なら、俺もまたあのときの気持ちを思い返せるかな、ってね」  俺の肩口に埋めていた顔を上げ、光は軽く触れるだけのキスを落とした。 「他の誰でもない、鞍と二人で、またここに来たかったんだよ」  何もかも鵜呑みに出来るほど、俺は素直じゃない。信じれば、途端にそれを覆される可能性も付きまとう。ずっとそれを胸に刻んで、だから誰も信用するまいと自制して、今まで生きてきたのだ。  しかし「自分だけに」という光の言葉は、圧倒的な甘美さをもって耳朶に染み渡る。  自ら前を向いて新しい生活への一歩を踏み出せずにいた光が、その後どういった経緯を経て「自分も相手も犠牲にせず、岸まで必死に泳ぐ」という選択を採るようになったのか、和からの影響をどれほど受けたのかも。  自分の殻に閉じこもっていた頃のことを、同じ様な影を持つ「俺と共に」遡ったりすれば、光に再び後ろ暗い感情が甦ってしまいかねないかも。  今この瞬間だけは、どうでもいい。呼吸さえ忘れて夜の海に沈んでいくように、甘い囁きに浸ってしまえば良い、そう思った。  備え付けの薄っぺらい浴衣は、あっという間に着乱れる。幾度も唇を重ねているうちに、舌も唾液も、もつれ絡み合う。 「愛してる、鞍」  その言葉に、縋ってもいいのだろうか?俺だけが、今、光の隣にいると。  口付けで繋がった状態で、シーツの海へ堕ちてゆく。俺の浴衣も光のも、大きな布の波に呑まれて、跡形もなくなってしまったかの如く解け散った。そして二人の身体も、白いうねりの中に沈む。  息継ぎの隙も無いキスは、本当に溺れているようだ。けれど恐怖はなく、心地良い浮遊に身を任せ、周囲と同化していくかに思えた。

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