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第三章 北極星(ポラリス)・17

◆◇◆  到着した建物のエントランス前に立ち、見上げる。五階建ての洒落たマンションだった。 「ここが、釈七さん、ち?」 「あぁ、ここの最上階。五階だからそんな高くはねぇけど、結構景色が良いんでここにしたんだ。寒くなってきたし、早く入ろうぜ?」  釈七さんが、俺の背を押し促す。中に入るとエレベーターがあり、それに乗って五階へ。 等間隔にドアが並ぶうちの一つまで来ると、鍵を入れ回した。 「遠慮しないで上がれよ?」 「は、はい。おじゃま、します」  玄関灯のスイッチが入ったところで、俺はいそいそと靴を脱いだ。 「お前が来ると分かっていたら、もうちょい片付けてたんだけどな」  部屋の照明も点いて明るくなると、少し照れたような釈七さんの笑顔がその下ににあった。片付けておけば、と言うものの、決して散らかっている様子ではない。数冊の雑誌が床に散乱しているだけだ。物はあまり多くなく、シングルベッドとソファ、テーブル、本棚とテレビ。落ち着いたダークトーンの色彩で、全体がまとまっている。先刻釈七さんは「狭い」と口にしていたが、ワンルームの割にはかなりゆったりとしていた。  それに、この手のマンションにしてはハッチの向こう……キッチンがそこそこ広い。不動産屋の間取り図を時折目にしたくらいの知識しかないが、「1DK」の「DK」はダイニングとは名ばかりで、シンク台と調理台がギリギリ置かれているだけ、というイメージだったのだが。ここのものは一戸建ての宮城家よりほんの一回り小さい程度の面積に見える。 「珍しいだろ?これも選んだポイントだったな。ケーキの試作とか作るのに便利でさ」  俺の視線の先に気付いて、釈七さんが補足した。  誰かの部屋を訪れたことなど過去一度も無かったから、一人暮らしの居住スペースとしてこれが適切なのかそうじゃないのか、俺には分からない。  中学を卒業と同時に施設を出た俺も、一応は一人暮らしをしていた。が、築何十年も経過したボロアパートで、おまけに寝に帰るだけだと思っていたので私物はほとんど置かなかった。資格を取るためのテキスト類は床に直積みだったし、テレビなどのオーディオ機器も一切無い。必要最低限の調理器具と食器、小さなテーブル、衣装ケースひとつ分の衣類と、薄い布団。俺の持ち物はそれだけだった。  慈玄の寺に転がり込む際、そんな僅かな私物さえ大半を処分した。持っていったのは、ボストンバッグに入るだけの着替えのみ。  それを考えると、俺は本当に「何も無い」人間だったのだなと実感する。  だから、今足を踏み入れたこの部屋に住人の人となりが見えるのが、なんだか不思議に思えた。床に落ちた雑誌ひとつ……菓子作りやバイクのものだった……も、ここが釈七さんの部屋なのだと確実に裏付けているようで。  なにも釈七さんに限ったことではない。和や光の部屋に入った時にも感じたことだった。和の整頓された学習机や、光の意外にびっしり詰まった書棚を思い出す。 「適当に座れよ?なんか飲むか?」 「いっ、いえ!大丈夫、です」  適当に、と言われても床に座るかソファに腰掛けて良いものか悩んでうろうろしていると、ふと窓のカーテンが細く開いているのに気付く。 ── そういえば、結構景色良いって……。  何気なく近づき、窓から外を覗いてみた。先程のパノラマほどではないが、周囲に高い建物が少ないせいか比較的遠くまで見渡せた。ぽつぽつと住宅の灯りが散らばった先には、ブラックホールみたいな真っ黒い空間。あれは、桜公園だ。晴れた空の下では緑が鮮やかに映えても、夜目には生い茂った葉が黒く覆い被さっているようにしか見えない。  あの下に何も無いわけではないのに。  重くのしかかった枝々がどんどん広がって、周囲の光まで暗鬱に塗りつぶしていきそうな迷妄を覚えて、寒気が走る。  施設、アパート、慈玄の寺、宮城家、そして。  転々と灯りを追って居場所を変えても、挙げ句の果てに自分はどこにも行けず、どこにもいられないのではないかと。 「鞍?」  釈七さんが、声を掛けた。ガラスの反射越しに、両手にマグカップを持った姿を認める。カップをテーブルに置いて横に立つと、釈七さんは俺の顔を伺い見た。 「また泣いてたんだな、お前」  ひとつ溜息を吐いて髪を撫でると、困りもせず怒りもせず、穏やかな口調で。 「いっそ、思い切り泣いちまえ。ここなら俺しかいないし、俺も全部忘れるから。涙が涸れるまで泣けばいい。言いたいことも全部吐き出して構わねぇから」  安堵と激情が、一度にこみ上げて来たかに感じた。己の裡の濁流が堰を切って、一気に溢れ出すような。それは理性も自制も呑み込んで、押し潰し、消し去ってしまった。 「……っぅ、う……わ、ぁああああぁ……っ」  前後不覚になるほどに、俺は目の前の相手に幼児さながら泣きすがっていた。釈七さんは、微かに驚き狼狽えた様子で身を固くしたが、ゆっくりと、そして力強く俺を抱き締めてくれた。 「……っ、お、俺っ、もう光のとこにかえれない、かも、って……っ!帰るの、も、顔、見るのも、怖い、し……っ!」  しゃくり上げながら、俺は思いの丈を釈七さんにぶつけていた。否、もはや自分が、一体誰に、何に泣きついているのかもこの時は分からなくなっていた。後から思えば、順序だてての説明など何一つしておらず、断片的な言葉だけがとめどなく吐き出されていたのだから、釈七さんはひたすら困惑するばかりだっただろう。それでも彼は詳細など一切求めず、混沌とした状態で激流のように溢れる俺の感情を、ひとつひとつ受け止めてくれていた。 「どうしてそう思うんだ?光一郎に帰ってくるなと言われたのか?」  首を横に振って否定する。 「……お、俺、手紙、勝手に見ちゃった、し……っ!それに、俺じゃ、和みたく、光の支え、にはなれねぇし……それに、和が、家、出たのだって、元はと言えば、俺が……っ!和が、慈玄と、会ったのだって……原因は、俺、で……っ!!」  そう、手紙の話だけではない。  俺がつまらない喧嘩をしなければ、光とは出逢わなかった。兄弟が俺を寺に送ったりしなければ、和と慈玄は顔を合わせる事もなかったし、光との情事を和に目撃されなければ、和が慈玄の元へ行く事態にもならなかったのだ。  俺が兄弟と出会いさえしなければ、きっと和は今も光の支えであり続け、和もまたどんな形であれ光の寂しさを……あの仄暗い瞳の影を、もしかしたら時を経るにつれ確実に感受していたかもしれない。多分、和が今「慈玄にそうしているように」。  俺がいたことで、歯車が食い違ってしまった。何もかも、おかしな方向へ進んでしまった。 「キルト、さんは、試した、んじゃないんだ。俺みたいな、奴が、割って入るべきじゃないって……それを、伝えに……」 「誰が何を伝えたって?誰が、お前を責めてるんだ?そうなって、誰が一番悲しんでるんだよ」 「そんなのわかんねぇよ!わかんねぇけど……っ!!」  我知らず、釈七さんの襟首を掴み上げて俺は喚いていた。釈七さんには、なんの関わりもないことなのに。 「俺には、どうもお前が一番悲しんで、自分で自分を責めてるだけにしか見えないけどな」  顔を上げ目に入った表情は、悲しげに眉根を寄せていた。釈七さんが、なぜそんな顔をしなければならないのかも俺にはわからなかった。わからなかったが、たまたま話を聞いてくれた、関係のないこのひとにまで辛い思いをさせている気がした。  最低だ。本当に自分は、最低な害悪にしかならない。 「俺なんてどうだっていい。俺なんていなければ……」  目も耳も、塞がってしまったように感じた。いや、塞いでしまいたかったのか。胸倉を握りしめた俺の両手を、釈七さんが緩やかに解き、手首を掴んだのにも気付かずに。  釈七さんは突然、その掴んだ手をぐい、と後ろへ引いた。胸と胸とがぶつかり、顎が上がる。次の瞬間、彼と自分の唇同士が触れていた。 「?!」 「もういい、わかった。お前がもう光一郎のところへ帰れない、と言うのなら……俺の傍にいろ」  どす黒く渦を巻いていた感情が、一瞬にして真っ白になった。何が起こったのか、何を言われたのか、全然理解ができない。 「お前さえそれでも良いと思うなら、ずっとここにいればいい。俺の傍に、な?」  戸惑う俺の耳の奥に、染み込むような緩慢さで、釈七さんは繰り返し囁く。尚も呆然と見返すと、再度唇が重なった。今度は、やや永く。 「……しゃくな、さん……?」  唇を離すと、目の前にあったのはいつもの……あの、「誰にでも向けている」ような笑みだった。 「疲れたろ?風呂入ってさっぱりして来い。泣き顔も洗ってな?」  くしゃりと髪を撫でる手も、いつもの感触。 「は、はぁ……」  なんだか、毒気を抜かれた気分だった。自分が泣き叫んでいたことも、さっきの言葉もキスも、全部幻覚かなにかに思えた。  言われるままに、俺はそそくさと洗面所に向かった。まやかしのようでも、釈七さんの顔を振り返り確認することができずに。

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