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第三章 北極星(ポラリス)・16

 突然の展開に我に返って、さすがに胸をぐいと押し返した。 「いや!いいです!!こんなことで釈七さんに迷惑かけらんねーし!」  ところが相手の腕は、存外力強い。藻掻く隙も与えず、再度押しつける。  とくとくと小さく響く心音。誰かの鼓動が極近くで聞こえるのが、これほど安堵を覚えるとどうして知ってしまったのだろう。 「構わねぇよ、乗りかかった舟だしな」  釈七さんの手が、緩やかに髪を撫でる。抵抗を諦め、というより不意に自分を包んだ温もりから離れたくなくて、身を任せる。それがどれだけ狡いかを承知していながらも。 「……すみません」  ただ、謝るしか出来なかった。 「謝るな。俺がそうしたいと思っただけなんだから。ワンルームで狭いから、居心地はよくねぇかもしれないけどな?」  釈七さんの声は、またいつもの調子に戻っていた。腕が解かれ、映った表情もいつもの笑み。  徐々に気恥ずかしさがこみ上げて、腰をずらし距離を置く。相手の体温に代わって流れ込んだ夜気がやけに冷たく感じ、ぶる、と身を震わせた。 「寒いか?五月とはいえまだ夜ともなればな。取り敢えずこれ着とけ」  釈七さんは自分の着ていたジャケットを脱ぐと、ばさっと俺に羽織らせる。 「俺は大丈夫だから。マンションまでここからならすぐだし。お前に風邪ひかれる方が困る。店の看板だからな」  くすくすと笑いながら、上着をかけた俺の肩を軽く叩く。いままでも時々言われたが、店の看板とはあまりにも買い被りすぎだ。カフェには、大して女性と縁が無い俺が言うのもなんだが、可愛らしい女の子たちが働いている。それに……女の子たちに混じっても全く引けを取らないほど可愛らしい和だっているのだ。  そうだ。ちょっとした疑念が、ふと頭に浮かぶ。 「釈七さんて、和の事、どう、思ってるんですか?」 「和宏?」  案の定、唐突な質問に釈七さんは若干怪訝な顔をする。 「そうだなぁ。ちょっと心配な後輩……弟、ってとこかな」 「心配?」 「あいつ、天然っていうか鈍感っていうか、素直すぎるところあるだろ?それでいて変に頑固だからな。いつか誰かに騙されやしねーかと思って」 「騙される?」  聞き返してはみたが、わからなくもない。出逢って早々、兄貴に連れられてきたからといって、どこの誰とも分からない俺をほいほいと家に上げ手当までした奴だ。 「あぁ。なんかこないだも、やたら図体のでかい、大分年上らしい相手と妙に親しくしてて。あれ大丈夫なのか?と訊いたくらいだ」  慈玄の事を言っているのだとすぐに分かった。俺は見掛けたことはないが、あいつも和に誘われて、一度くらいは店を訪れていたのかもしれない。慈玄の話を俺はこのひとにしたことがないから、関係を知らないのだろう。あいつが怪しまれているのはなんだか可笑しかったが、今慈玄のことを教えるのもどうにも憚られた。黙って相槌を打つに止める。 「何でも素直に前向きに受け取って、自分がこうだと思ったら曲げない。仮に相手に悪意があっても極力認めようとする。そういうとすげぇ良い奴みたい……というか、実際あいつの長所だとは思うが、それが心配の種でもある、ってことだな」  面倒見の良い釈七さんは、相手のことを本当によく見ている、と思う。おそらくはバイトの面子の誰もに対して、こんなふうに気に掛けているはずだ。俺に今付き合って気を紛らわし、慰めてくれるのも、なにも特別なことでは無く。  けれど。 「心配だ」と和を評した釈七さんは、当人の言うように、光とは違ったタイプの和の兄……「そういう気持ち」で和を見る穏やかな顔付きだった気がしたのは……俺が和の存在の大きさを重く捉えすぎているからか。自分で訊いてみたくせに、苦い感情が胸に広がる。 「でもな、鞍?」  釈七さんはまた、俺の頭をくしゃりと撫でた。そのまま、撫でた手で俺を自分の肩に寄せ付ける。 「長所が短所になり得るってことは、その逆もまた然り、ってことだ。短所は、長所にもなり得る」 「短所が?」  俺には信じがたい。自分の嫌なところ、駄目なところならいくらでも挙げ連ねられるが、それらがどうやったら長所に変じるのか、俺自身には全く考えもつかない。そう伝えると、彼は何の含意も無さそうに即答する。 「俺は少なくとも、お前が短所しかねぇとは思わないけどな?」 「そうですか?」 「あぁ、でなきゃこんな時間に泣き言に付き合ったりしねぇよ」  少し戯けた口調で言うが、そう言われればこんなことに時間を割いてもらっているのだと恐縮する。 「すみません」 「鞍、そこは『ありがとう』じゃねぇの?」  声は笑いを湛えている。けれど謝礼の言葉を、俺は口にできなかった。 「まぁ、仕方ねぇか。そろそろ行こうぜ」  釈七さんに従い、バイクの停めてある場所に戻ると、再び後ろに跨がる。  柵越しの灯りが、滲んで瞬く。光は一人で、今何を思案しているだろう。 「ごめん……」  自分の存在そのものさえ、罪悪に感じる。光にも釈七さんにも、やっぱり俺は謝ることしかできなかった。

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