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第三章 北極星(ポラリス)・15

 周囲を見回すこともなく背後に埋もれていると、しばらくしてバイクは止まった。 「鞍、降りられるか?」  しがみついて顔を伏せたままの俺の頭を、振り返り釈七さんはヘルメットの上からぽんぽんと叩く。強ばった俺の手をゆっくり解き、先に自分が降りて体を支えてくれた。 「メット、外すの嫌か?」  裏地の部分で顔が押さえられているフルフェイスでは、自分がまだ泣いているのかどうか判然としない。シェードも微かに曇っているから尚更だ。  恐る恐る外してみると、涙が揮発するのか、肌に触れる夜風がことさら冷たく感じる。多分、かなり酷い顔をしていると思う。隠すように、シャツの袖でさっと拭った。 「なぁ、鞍。ここな、俺のお気に入りの場所なんだ。小さい公園だけど、街が一望できんだぜ?」  泣き腫らした顔からは敢えて目を逸らし、釈七さんは俺の肩に手を置くと、あまり広くはないスペースを区切った、柵の近くへ導いた。 「……ほんとだ……」  桜街は、三方を高台に囲われている。出逢って間もない頃光に連れられて行った桜校裏の公園や、慈玄の寺の門前からも街全体を見渡せるが、ここはどうやら西側の、桜校とは反対に位置する場所らしい。立地の関係からか、駅前の繁華街のネオンがはっきりと見える。手前から奥にかけて、徐々に灯りが薄くなり、見事な波状模様を描いていた。この街の夜景色は何度か見たが、これは初めての眺望だった。  いつだったか光とも夜景を見に行った。瞬く明かりがとても綺麗で、自分が実はこういった夜景や星を眺めるのがガラス器を見るのと同じく好きだったのだと、その時初めて自覚した。  不意に思い出した情景が目の前のものと重なり、冷え乾いたはずの頬に、再び熱を伴った雫が伝うのを覚える。どれだけ流せば、尽きて枯れ果てるのかと思うほど。 「悪い、気に入らなかったか?俺は好きなんだけどな」  困ったような笑みを、釈七さんが浮かべる。  違う、そうじゃない。  ただただあまりにも美しくて、自分が、自分のしたことがそれに比べてあまりにも汚く、矮小に思えて。好きだと思えた夜景まで、穢してしまったような気がして。  全て吐き出してしまいたかったが、言葉に出来なかった。 「……す、みません」  そう口にするのが、やっとだった。 「何謝ってんだよ。俺が勝手に連れてきたんだろ?」  これでは、釈七さんが俺の意向を無視して、無理に付き合わせたみたいになってしまっている。違う、と言いたいのに、上手い言葉が見当たらない。  今までの経過や推測が思考を滅茶苦茶に掻き乱して、ただでさえ口下手なくせによけいに頭が回らない。苛立つくらい歯痒く思う。 「とりあえず、そこ座れよ」  釈七さんは、柵前に置かれたベンチを指した。座れ、と言いながら俺の肩を抱いた状態で、自分も腰を落として「座らせて」くれたのだが。  せめてこれ以上泣き続けて相手を困惑させぬようにと、ごしごしと目を擦る。  相変わらず、このひとには肩を抱かれ体を密着されても、なぜか嫌な感じがしない。光と情交を重ねたためか、かつてほど触れられることに拒絶反応を示さなくなったが、急に背や肩に手をかけられるとまだ避けたくはなってしまう。だが釈七さんだけは平気だった。体温はもちろんあるのだが、どことなく人体の発する生ぬるさ、のようなものが無い。  憔悴した精神状態に俺がいるせいかもしれないが、溶け込んでしまいそうになる心地良い温度を感じる。  釈七さんは慰めるでもなく事情を聞き出すでもなく、俺の肩に手を回して軽く抱き寄せたまま、黙って横にいてくれた。何から話して良いのかまるで整理のつかない俺にとって、それがとても有難い。  しばし沈黙の時間を過ごした後。 「……あの、釈七さん?」 「ん、何だ?」  妙に優しげでも小声でも無い、いつもの声音にどうしてかほっとする。自分も沈鬱にならないよう努めて、訊ねてみた。 「釈七さんて光の事、どれくらい知ってるんですか?」 「どれくらい?」 「ともだちくらい、とか」 「友達、ってか客ってーか、和宏の兄貴ってか。その程度だな。和宏があぁだし光一郎も年中店には来てたし、話は結構したからそこそこ親しい、とは思うが」  それはそうか。勤務しているのは和なのだから、元はといえばそこからの繋がりなのだろう。 「その……やっぱ、店によく来てたのは、和の様子を見る、ために?」  我ながら回りくどい言い方だとは思ったが、第三者の目から見た、兄弟の仲がどうだったのか気になった。 「あぁ。仲の良い兄弟だからな。あいつも弟の様子が心配だったんだろ。と同時に、光一郎の方が離れがたいところもあったのかもな。弟離れできてねぇっていうか、少し依存してたところがあったというか」  ぴくり、と己のこめかみの辺りが強ばるのが分かる。 「光一郎はああいう、ヘラヘラ笑って何でも済ますみたいなとこあるだろ?逆に和宏は見た目より頼りがいあるからな。支えにしてたというか、むしろ和宏の方が兄というか親というか、そういう風にも見ていた節はあるな」 「そう、ですか」  やはり傍目で見ても、光にとって和はなくてはならない存在のように思えたということか。それだけじゃなく、和は光の「生きる希望」で。 「それよりお前。こんなこと訊いてお前はどうなるんだよ」  普段と変わらぬ調子だった釈七さんの声が、この時ほんの僅かに低く潜まる。 「……どう、って。どうにもなりません……でも……」 「でも?どうにもならねーんなら、そんな顔してないはずだろ?」  まただ。俺は今、どういう表情をしているのだろう。  光だけでなく釈七さんにまで指摘されたが、こういう時の自分が、一体どんな顔をしているのか見当もつかないのだ。 「いえ。俺みたいな人間が、和のように光を支えることなんて最初からできなかったんだって。それが、わかったんです。それで……」 「和宏と同じになる必要、あるのか?」 「え?」  釈七さんの声は、依然低い。諭すよう、というよりは、どことなく悲しげな。 「お前には、お前だけの良さややり方があるだろ?同じになんてすることねぇよ。光一郎はそのお前を見て、好きだと思ったんだろ?お前はお前のままでいればいいんだよ」  違う…………違う違う違う!  俺にはなにも無い。光の心を開かせることも、何かを目指して奮起する力になることもできない。それどころかおろおろと迷って、引っ張ってもらうだけの足枷にしかならない。しかも重い足枷は、暗い海の底へ相手を引きずり落とし、二度と浮き上がれなくしてしまう。俺はそういう存在なのだ。  言い返したくても言葉にならず、首を横に振り続けた。  すると釈七さんは、空いていた右腕も背に回して、俺を胸に引き寄せた。力が加わり、抱き締められる。 「……わかった。今日はうちに泊まれ。光一郎には俺から連絡するから」

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