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第三章 北極星(ポラリス)・14

◆◇◆  重い足取りで階段を下りると、そこに光が待っていた。 「いっぱいあったから片付けるの大変だったでしょ?あ、そうだ、今日現像の帰りにね、美味しそうなケーキ屋さん見付けちゃったんだー。デザートに一緒に食べ……」 「……え。あ……う、うん……」  聞き流しそうになり慌てて返事したものの、それより先に光が言葉を止めた。 「……何かあったの?」  俺の異変に、光はすぐに気付いた。平然と振る舞いたいのに、態度に出てしまう自分がもどかしい。とてもではないが、目を合わせられない。 「な、なんでもない」 「顔色悪いよ?なんでもなくないよ、どうしたの?」  光が俺の腕を掴んで訊く。掴まれた場所からざわっと肌が粟立つ感触を覚えて、思わず必要以上の強さでそれを振り払ってしまった。 「鞍……?」 「……ぁ……ご、ごめん、ほんとに何でも無いから。俺、風呂入ってくるっ!」  とっさに言い洗面所に駆け込むと、ドアを閉め、扉の前にしゃがみ込んだ。 「ふ、風呂、って、今日はまだ沸かしてな……っ!……っちょ、ねぇ鞍!!ここ開けてよ!」  理不尽に籠城されたのなら無理矢理にでも引きずり出そうと試みそうなものだが、心当たりに思い至ったのか、光はそれ以上踏み込もうとはしなかった。  多分、知っていたのだ。和が、自分の想いを受け止めたこと。手紙が大事に保管されていたことも。もしかしたら、返事をもらったのかもしれないし。  何にせよ、言い逃れが出来ない。否、「する必要も無い」のだろうか。気配が、ドアの前から離れた。  俺も、いつまでもここに閉じこもっているわけにはいかない。かといって、もはや光の傍に行ける自信も無い。大体、他人が秘かに隠し持っていたものを盗み見たのは俺なのだ。嫉妬に駆られて。身勝手な理由で。  最低だ。こんなこと、絶対に許されない。  立ち上がり洗面所を出ると、ふらりと玄関へ向かう。自分はもう、ここにいてはいけないと思った。 「鞍?!……え、ちょ……どこ行くの?」  ドアを開ける音に反応して、光が振り向き近づいた。 「……っ、あ、あぁ、買い忘れたもの思い出したから、ちょっとコンビニ行ってくる」  精一杯、口端を上げる。笑えているかどうかは分からないが。 「んじゃ、行ってきます」 「待って!だったら俺も行……」 「いいからっ!!」  抑えるつもりが、つい怒声になった。 「ひ、一人で大丈夫だから。すぐ戻るし」  どんなに繕っても、嘘など見破られる。苦しげに、光は尚も続けた。 「買い忘れなら、明日行けば良いよ。なんなら朝一で俺がひとっ走りするから。ね、だから」  その言葉にも、俺は首を横に振った。 「……ごめんな、光」  謝っても謝りきれないことを、俺はしたのだ。けれど言わなければいけない一言をようやく口にして、玄関を出た。光の姿が、ドアの向こうに消える。  宮城家を飛び出したものの、行く宛はどこにもない。慈玄の寺には、和がいる。あいつにだって今や顔向けできる状況ではない。  考えあぐねて、ふらふらと足を運んだ先は、桜公園。バイト先の、カフェ近辺だった。  ブォン、とエンジン音を響かせて一台のバイクがすれ違う。そして、続けざまにブレーキの音。  一週間前、自分が後ろに跨がった車体だったなんて、闇夜でなくても気付きもしなかった。 「鞍?なんか忘れ物でもしたか?」  外したフルフェイスのヘルメットから、見知った顔が現れた。 「……しゃく、なさ……」 「今鍵閉めたとこだから、取りに行くなら戻……って、どうした?」  頼れる副店長に会ったからか、張り詰めていたものがぷっつりと切れてしまった。喉と鼻の奥がじん、と熱くなったと思ったとたん顔全体に広がって、目から溢れ出したようだった。  相手が戸惑うと分かっていながら、俺は嗚咽を止めることが出来なかった。釈七さんはひとつ息を吐くと、自分の被っていたヘルメットを俺に投げ渡した。 「泣き顔、誰かに見られたくねぇだろ?それ被って、バイクのそばでちょっと待っとけ」  言うが早いか、カフェの方へ駆け戻っていった。そして何分も経たず、すぐに戻ってきた。 「お前に貸した予備のメット、店に置きっぱなしで良かった。乗れよ、鞍」  言われるままにヘルメットを被って待っていた俺は、一瞬躊躇したもののそれにも従う。先週の、風を切る感覚を思い出す。光の背中に捕まり、同じように後ろに乗り込んだのが遠い昔の出来事のように思えて、胸が痛んだ。  だけど今は、冷たい夜の空気に晒されたい気分でもある。釈七さんの提案は有難かった。別の相手の、違う感触の背に縋る。釈七さんは何も言わず、バイクを発車させた。  誰かを信じれば、必ず裏切られる憂慮も付きまとう…ひたすらそれが怖くて、誰も信じまいと思っていた、以前の自分。懸念の種子はずっとあったのに、まんまと誘惑の罠にかかってしまった。いや、裏切ってしまったのは俺の方なのかもしれない。  それでも、人の温もりはこんなにも抗いがたく、温かい。  知ってはいけない。知ってしまったら、きっと手放せず、求め続けてしまう。そんな「知るべきではなかった」温かさを俺に教えたのは光だったのに。  釈七さんの背中は、光より少しだけ広い。すらりとしている光に比べ、筋量も多いのだろう。隆起が上着を通して分かる。ただ、温もりは等しく伝わる。身を寄せているだけで落ち着ける。  ああ、本当に自分は、なんて弱くて臆病で情けない人間なんだ。

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