44 / 190
第三章 北極星(ポラリス)・13
◆◇◆
「キルトさん、だろ、これ」
とん、と誌面を指で叩く。
「……うん、そう」
ほんの少し、光の顔色が曇る。
「ちょっと会った時の事、思い出した」
「そっか。あの時はほんとごめんね?」
「別に光が謝ることじゃねぇだろ?」
否定したわりに、己の声に若干刺があることを自覚する。キルトさんは……彼は、一体俺をどういう目で見ていたのか。
「それにしても。なんで辞めちまったのさ、人気モデル」
写真集まで出版されたというのなら、そういう需要があるほどの人気だったのだろう。誰もが憧れる花形商売の一つだ。キルトさんが未だに続けてるなら、並んで一緒に撮られている光だけが急に落ち目になったとは考えづらい。
「人気、はたまたまそうなっただけだよ」
眉を下げ困ったように、光が笑う。
「モデルになりたかったというより、人慣れして人前に出ても物怖じしないような人間になるための修行、と思ってたからね。母さんはデザイナーだし、コネもあったから」
そういうことだったのか。
少年時代の光は、俺と同様カメラに顔を向けることすら出来なかったのだ。だとすれば、否が応でもそのカメラを自分に向けられる職業は、荒療治としては最適かもしれない。ならば、あえてモデル業をやろうと思った理由には納得がいく。
だが、そうやって「自分を変えたい」と思い立ったのは、やはり……
大きな瞳を細め花のように笑う、可愛らしい顔がまた思い起こされる。
ぶるっと一度頭を振り、尚も光を問い詰める。
「でも人気、だったんだよな?そんな業界のことなんて俺は全くわかんねぇけどさ、『商品価値』?みてぇのがあるなら、周囲だってそう簡単に辞めさせちゃくんねぇんじゃねぇの?」
「うーん、そうだねぇ。その間に向こうの大学で、飛び級で教員資格も取ったし。『そこまでしたなら』って、母さんも認めてくれたからね」
そうだ。
ちゃらちゃらしているようでいて、こいつは相当な努力家なのだった。
実の両親を失って人の輪に入りづらくなっていた頃に、モデルという「人に囲まれざるを得ない」道を選んだ事でも裏付けられるし、同時に時間を見付けては進めていたのであろう学業も、仮に元から頭脳明晰だったとしても、血の滲むような苦労だったはずだ。こうして共に過ごしていてもそんな様子はおくびにも出さないが、いくら普段ヘタレで馬鹿みたいにしていても、光の根底にはちゃんと「理知的な芯」がある。
なんとなくでもそれが分かるから、俺はこの相手に何をされても、蔑み見切ることなどできない。
「あ、でも。キルトだけは駄々こねてたけど、ね」
再度光の口から出た名前に、巡らせていた思考が止まる。
「……ふぅん……」
「嫌い?キルトのこと」
「嫌いも何も。会ったのあん時一回だけだし、会話もまともにしてねぇし」
「そっか」
「光はどうなんだよ?結構邪険にしてたじゃん」
光の表情に、複雑な色が浮かぶ。切なげなような、慈しむような。
「嫌い、にはなれないな。俺が、あの世界にキルトを引き込んだからね」
「光が?」
意外だった。まさか光の方から、あのキルトさんに接触を図ったとは。
「キルトも孤児でね。孤児院を抜け出して、雨に打たれて道端でぼうっと突っ立っていたところを俺が見付けたんだ。俺も海外には友達はいなかったし、一緒にモデルやってみない?って」
胸の奥がざわつく。
……不意に思い出した。キルトさんもこいつのことを「光」と呼んでいた。
孤児。居場所に出来なくて抜け出した孤児院。どこへ行ったらいいのか分からず、虚ろに佇んでいたキルトさん。手を差し伸べたのは……
まるで、どこかで聞いたような話ではないか。
「あ!だけどね?」
沈黙した俺に、光は話を続けた。
「キルトはすぐ仕事にも慣れて、全然人見知りなんてしなかった。俺なんかよりずっと早くね?正直、羨ましかったよ。誘ったのは俺なのに、俺の方が置いてけぼりだったんだ。一緒には居たけど、寂しかった」
「けど、キルトさんは光を好きだったし、信頼してたんだろ?あん時、わざわざ会いに来るくれぇに、さ」
「どうかな。単に久しぶりだったから様子を見たかっただけかもしれないし」
そうだろうか。俺には、そうは思い切れなかった。
俺とキルトさん、光との出会いは似ていても、示す態度が正反対だけだったのではないか。俺はただ手を引かれるまま隣にいるだけしかできず、キルトさんは「出逢えたから、自分はこんなに頑張れる」と光に実証を見せたかったのではないだろうか。胸を張って、今の自分があるのは君のお陰だと。だとしたら、俺にはキルトさんの在り方の方がよほど立派に思える。
「ねぇ、鞍。『見えない』のは『無い』のも同じなんだよ?」
光の指先が、頬に触れた。
「俺はね、共に同じ歩幅で歩いてほしかった。『好き』の想いに応えるには、二人の気持ちが必要でしょ?俺は、今鞍が傍にいてくれるから寂しくないんだよ?」
指から掌へ、それは俺の顔を包み……己の方へ向けさせると、光の顔が近づいた。ゆっくりと唇が重なる。
「ん」
気の効いた返事は、思いつかなかった。心の奥のざわつきを、優しく撫で鎮められる感覚。の後に、急激な恥ずかしさが襲いかかった。
「……っ!おっ、俺、これ片付けてくる!!」
散らかったアルバムを積み重ね、バタバタと階段に向かう。光の含み笑いが背後から追ってきた。
「うん、和の部屋の本棚にあったから」
一歩段に足を踏み込んで
「ありがと、光」
相手の顔を見ずに呟いた。
「えぇっと……ここ、か」
本棚には、言われた通りすっぽりと空間が開いている。順にアルバムを詰めていると、棚の奥に「くしゃっ」と紙の感触。
「? なんか引っ掛かったか?」
一度アルバムを引き出して、代わりに腕を入れて探る。すると、案の定皺の寄った紙屑のようなものが手に当たった。
「なんだろ、これ」
掴み出し、丁寧に広げてみる。赤と青の斜線で縁取られた封筒。それは一通のエアメールだった。当たり前だが異国の切手が貼られ、消印が押されている。宛先は和、裏面には光の名前がある。
消印の日付をどうにか判読すると、今から三年ほど前。どうやら、モデル時代の光が和に送った手紙らしい。触った感じだと、結構な厚みだった。
皺を伸ばし、アルバムの間に挟んで棚に戻そうとした。が、はたと手が止まる。
人の前に出ても堂々としていられる男になろうと決意し、日本から旅立った光。
向こうでキルトさんと出会い、共に過ごしてはいたけど「寂しかった」と言った光。
忙しい仕事の合間を縫って必死で勉学にも励み、帰国して教職にまで就いた光。
彼の胸に、常に去来していたのは何だったのだろう。答えなら、おぼろげながら分かっている。
おそらく、その確たる証拠が、ここにある。光の心を支え続けたもの。にも関わらず、俺みたいな「なんにもない」人間が立場を奪ってしまったかもしれないもの。
ごくり、と唾を飲み込んだ。
こんなこと、していいはずがない。自分がいかに卑劣で、浅ましい所業をしようとしているか、頭では理解出来ている。それでも……
知りたい。どうしても知りたい。
光がどんな気持ちで、手紙を綴ったのかを。和がどうして、これを大切にしまい込んでいたのかを。
手を引き戻すと、震える指で封筒の中身を取り出す。頭の奥で引っ切りなしに警鐘が鳴る。でももう止めることができない。
紙束がかさ、と乾いた音を立てた。
怖くて仕方のないものから目が離せなくなるように、俺は文字列を追っていた。
ともだちにシェアしよう!